書き始め 平成24年5月30日(水)
第二稿 平成24年6月2日(土)
躊躇している。こんなタイトルで書いていいのか?ということである。無知蒙昧なる迷える衆生であるからである。
しかし、書いていかないと、まとまらない。自分の知識がである。そもそも、知識うんたらと言い始めること自体、失格なんだが。お許しを。
1 はじめに
この駄文では龍樹の中観の教学を代表している「中論」を中心とする。龍樹は多くの論書を残しているが、その多くが本人の著述ではないとする説もある。鳩摩羅什の漢訳が、これまで日本の諸派仏教でも読まれてきた。中論という論のタイトルも鳩摩羅什がつけたとされる。
鳩摩羅什以外のテキストとしては、チベット語訳系がある。さらに、バーヴァヴィヴェーカ(青弁)の注釈書、サンスクリットのチャンドラキールティ(月称)の注釈もある。龍樹は、バラモン出身であるから、サンスクリットで著述した可能性がもっとも高い。
拙ブログにおける「中論」のテキストとしては、鳩摩羅什の漢訳「中論」を基本として、中村 元博士の講談社版「龍樹」をもとに、適宜梶山雄一博士著の角川書店版「空の論理(空)」を参考としてまとめた。
2 論争の天才龍樹
(1)帰敬序の八不と縁起
帰敬とは、仏陀への帰命である。
中論の冒頭は、この帰敬序から始まるのである。
「・・・戯論の寂滅という吉祥なる縁起のことわりを説きたもう仏陀を、諸々の説法舎のうちで最も優れた人として敬礼する(帰敬序)」
そして最後は、以下のように書かれている。
「一切の見解を断ぜしめるために憐愍をもって正しい真理(dharma)を説きたもうた仏陀に我は今、帰命し奉る(第27章-第30偈)」
中論の最後を、龍樹は仏陀に帰命し奉るとしている。序に対応している。帰命とは、ナマス(namas)であり、音訳すれば「南無」である。龍樹の宗教的な体験が最後に書かれたとみるべきであり、ともすると龍樹を哲学者として解釈してみたり、「中論」を哲学書のように解釈してきたこれまでの学者の方向性は違っていたのではないか。確かに非常に難解ではある。注釈書と首っ引きでなければ、間違った読みをする可能性もある。
だからこそ、この序と最後の文は無視してはならないことである。なぜなら、それは実践を標榜しているからである。
序に書かれているように、実践無くしては「戯論」でしかないのである。しかし、思想的な価値もまたあるのである。なぜならば、この中論の思想的な影響も特に日本の古典文化においてあったのだと仮定をして、両者の影響関係を見ていきたいからである。
また、この冒頭の帰敬序を、中論のエッセンスとして見るのがアサンガ(無着)である。「順中論」の中で、「かくのごとき論偈(帰敬序)は是れ論の根本なり」と書いている。インドでは、中観派と唯識派とが論争を繰り返してきたのであるが、唯識派でも少なくと無着の代までは、対立して論破しようとする姿勢はみられない。
(2)八不
帰敬序の中に、
「不断、不異、不出」というような単語が出てくる。合計8ある。鳩摩羅什訳では「不生亦不滅 不常亦不斷 不一亦不異 不來亦不出」とある。「八不」と日本の仏教界では読んできた。「縁起」と同義語として非常に重要視してきたものである。
教典の中ではポピュラーな般若心経の中にも出てくる。「不生不滅 不垢不浄 不増不滅」などの経文である。
龍樹の八不は、縁起・空と同義である。
(3)縁起と不生
龍樹は、縁起を聖なるものとして説いている。
帰敬序の中では、仏陀によって説かれたという縁起は、吉兆なる「、至福なる、めでたいというような言葉で形容されている。哲学的な概念としてだけとらえられているのではないことが明らかであろう。
中論は、縁起を説く書である。このことだけは忘れてはならないことであるし、これからも何回もこの駄文に登場してくると思う。それゆえ、理解をしっかりしておいておきたいのである。
しかも、龍樹を唯識理解のためにもってきたというのは、ある意味正解であると筆者は考えている。つまり、唯識を反対側から見るのである。川の流れもそうである。見たいところは反対から見るとしっかり見えるはずである。それゆえ、龍樹の視点から見ることによって、客観的な視野が得られると考えるからである。
21章の40偈に
「もし縁起見るものは仏を見、苦集滅道(四聖諦)を見ると為す」とある。
チャンドラキールティのサンスクリットのテキストには、「仏を見る」はない。ただし、この例文の「苦集滅道」は、部派仏教の教義を指して言ったのでは無く(「四聖諦」)、真理そのものの諦(satya)という意味で言ったのであろう。なぜなら、中論は部派仏教を厳しく論破していく書であるからである。大乗仏教の根本の書であるからである。
(4)生滅する諸法と不生の法性・縁起
帰敬序において、「何ものにも消滅することなく、何ものにも新たに生ずることなく・・」とある。この場合の「何もの」とはなんであろうか。
多くの学者は、諸法の法であると解釈している。サンスクリットではダルマ(dharma)である。小乗仏教は、また非常に細かくこれを分析するが、一般的には人・物・作用・現象等々と考えればよい。つまり縁起の対象である。
あらゆる対立表現を超越しているのである。単なる虚無主義では無いのである。大乗仏教では、諸法を諸法たらしめている、存在物を存在物としているその根源を「法性」(dharmata)というのである。存在の根源である。法を法たらしめている法性はなにかということを、中論は縁起であると説いているのである。
ここのところをしっかり抑えておかないと、以後の膨大な中論の理解は不可能になる。
(※ダンダン袋小路に入ってきたような気がするが、自分の理解のために書いていますのでお許しを・・)
(5)中論の読み方
龍樹の書いたことは、大乗仏教の立場に反対する他の宗教哲学への論破が多い。ヴェーダンタ哲学、サーンキャ学派、ヴァイシェーシカ学派、ニヤーヤ学派、ジャイナ教等々や、仏教内の他の部派に対する批判・論難が多い。だから参考になるのである。
(※この辺りは武蔵野大学で基本を学んだ)
※書きかけ項目です。以下毎日増加して行く予定です