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と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

6月12日(火)のつぶやき

2012年06月13日 05時04分32秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
20:29 from web
鬼怒川@なう

20:30 from web
孫はかわいかった

20:30 from web
無常の楽しみです

20:31 from web
鬼怒川グランドホテルにいる。五つ星の宿です。評判どおり。

20:33 from web
しかし、孫はまたまた似てきた。オイラに。ムコドノの家で、千葉のおと~さんを抱っこしているようだと言っているというのにはマイッタ。

20:34 from web
ま、どうでもいいんですが。つまらんことですよ、ハイ。

20:36 from web
原稿も仕上がって、今、ホテルのパソコンからメールをチェックしたら、教育学の原稿はOKをいただいた。掲載されるとのことです。安心した。

20:37 from web
こういう刺激がないと、ただのグータラじ~さんで終わりそうだから、かえっていいのかもしれないんです。

20:39 from web
これから、つれづれ草を読む。ノートももってきたし。義母と、古女房ドノと3人で泊まっているんだが、部屋は12畳と8畳の次の間つきだから、読書しても大丈夫です・・・

20:41 from web
晩酌も2合のみ。気は確かです。もうそんなに飲めないし。

20:44 from web
温泉はいい。座りすぎてケツが痛くなったのも治ってしまった。無理したんだなぁ。毎日6時間大学の院生室で勉強したからなぁ。高校以来ですよ。こんなにやっているのは。(笑)

20:45 from web
(笑)って言う字、ちょっと前までは嫌いだったんだけど、これって微妙な問題を含んでいるときは、いい潤滑油ですね。冗談が通じないときはこれがいいですね。

20:46 from web
それではお休みなさいませ。また明日!

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6月11日(月)のつぶやき

2012年06月12日 05時15分09秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
06:05 from gooBlog production
どうせこの世は楽しいことばかり goo.gl/mMIhl

23:16 from web
ふうう・・疲れた。やっぱ東京は遠い。人も多い。地下鉄有楽町線なんて、なんてこった。人混みの中を浮遊しているよう。

23:16 from web
東京紀尾井町キャンパスにいたからです。

23:17 from web
平家物語講座を拝聴していたのです。

23:18 from web
師匠のです。単位にもなんもならないんですケド。師匠の授業を聞きたいというただそれだけの理由で東京まで出かけています。

23:19 from web
さすがです。実にアタシの無学無知がよくわかった。知らないことが多すぎる。

23:21 from web  [ 1 RT ]
有楽町の三省堂で、100歳になんなんとする灘高校の名物国語教師である橋本武先生の「銀の匙の国語授業」を買ったので、東京駅から出ている大学のBusの中で読んでいました。

23:23 from web
この本は良かった。まず、100歳のアタシの目標ができた。橋本先生、源氏物語の現代語訳をされていた。ああああ、凄いことだ。

23:25 from web
それと橋本先生、東京高等師範出なのに、古典文法が苦手だったとのこと。驚いた。じゃぁ、愚生なんか苦手の8乗だわなぁ。

23:27 from web
だったら、恥じることはない。オレだって、人に古典文法得意ですなんて、クチが腐っても言えない。オレ、ノート-を買ってきたので、橋本先生流に再度学習させていただく。マジだ。

23:30 from web
橋本先生、天下の灘高校だから、音楽室や美術室、体育の授業もちゃんとやっているのに、全部それを受験勉強にしむけているというマスコミの姿勢に苦言をされていた。

23:31 from web
取材にも来ないで、そういう記事を平気で書かれたとのことであった。だろうなぁ・・と思う。

23:34 from web
超進学校ほど、総合的な学力、人間性が優れているのである。本当である。そんな感想をもった。

23:42 from web
先週は、原稿のノルマがきつかった。2本あったからである。専門と、教職のこと。

23:42 from web
できたから、明日はちょっと休養をいれないと

23:43 from web
とか何とか言って、隣の県にいる孫に会いに行くのである。いそいそと。オモチャとおむつを担いで。(^0^)/ウフフ

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今日も東京紀尾井町に

2012年06月11日 06時01分25秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・今日も東京紀尾井町に行く。M師匠の平家物語講座を拝聴させていただく。またまた無知を自覚してくる。まったくどうしようもない本当の不肖の弟子です。完成というものが無い。柔道も然り。100%効く技を持っていないのだ。弱いしねぇ・・だから指導者ヅラなんてできない。塾でもそう。オイラ、国語教師なんだけど、他教科もやる。こりゃいつか化けの皮がはがれるね。ま、そんなにやるつもりも無いケド。     

・昨日は難行苦行して、やっとたった1000字の公募原稿なるものを書かせていただいた。あるところで発表をしないかとお誘いの連絡を受けたからである。他の記事にもしたが、こういうのは書けないものである。何故なら、他者評価を気にするからである。いかん。まだまだ無欲でいられないのだ。話にならんなぁ。

 ・娑婆っ気が多すぎる。本当に美人を見ても、美人に見えてしまうのだ。骸骨に肉がついているとは到底思えないのである。修行不足を嘆いている。やりたくない仕事ばかり教師生活の後半生はやっていたからなぁ。授業やってこその教師生活なのに、16年も管理職並びにそれに準じた仕事をしていたんだから話にならん。やっぱり、授業をやってこその教師でござんすよ。

 ・だから、もう一つの原稿は書くのが楽しかった。第2稿が8900字。あっという間に書いた。そして、別の大学にメールでお送りした。ずっとお世話になっている教育学のU師匠に。そしたら速攻で訂正が入った。そして、一日置いて昨日訂正作業に入って、約9400字。はかどる、はかどる。昨日のうちにU教授にメールでお送りした。どっかの学会誌に掲載されるそうである。楽しみ、楽しみ。

・楽しいから、さくさくさくさくと進む。アタマに入っているからだろう。ということは、専門の国文学はアタマに入っていないということになる。難行苦行であると感じる以上、そういうことである。そういうこと。

 ・昨日、大学受験記憶法なる古書を買って、リビングのそふぁ~でひっくり返りながら、眺めていたら、読了してしまった。赤鉛筆を片手に、ふんふんふんふんと読んでいた。塾経営者の、たまにはテレビにも出てくる御仁の本で注目していた。「薔薇」と言う字をどうやって記憶するかという本が最初に出たのを覚えている。英単語の記憶法もなかなか着眼点がいいので、楽しい本であったのだ。昨日ひっくり返って読んでいたのは、他教科での記憶法だった。予備校というか、塾でやっていることを公開されていたのである。大丈夫かいなと心配になった。ノウハウをここまで公開したら、商売あがったりである。私ならしないなぁ。

 ・どうでもいいことだけど。しかしである。つまらん本が多い中で、つまり読んでいるうちに、ゴミ箱にするすると投げ捨てたくなる本もある中で、これはまぁ読み応えがあった。ビジネス書は嫌いなんだけど、たまには読むこともある。ただし、105円以内。カネは高い専門書を買うために使う。当たり前である。じょ~しきであります。

・それでも買えない場合は、コピーを一部だけだが、とらせていただく。本学の院生室で(隠棲室とも言う)ある。なにしろ院生は無料なのだ。ありがたいことである。専門書を本学図書館から借りて、コピーをして、そのコピーに赤鉛筆を引きまくりながら、そして読ませていただいている。カードも、ノートもとる。徹底的に味わうのだ。そうです。生涯学習をやっているのだから、徹底しないと、アトがない。つまり残り時間が少ない。死んじゃうかもしれないのに、ウカウカしているわけにはいかんのでありますよ。いつまでも生きていたら、ご迷惑でしょうが(^0^)/ウフフ

 

・明日は、孫のところに行く。

・楽しみジャ。実に楽しみ。朝早くからである。昨日、居住地のショッピングセンターでオモチャも買った。おむつもバーゲンで売っていたので、100枚も買った。いそいそとワゴンで運んだ。誰が?むろんじ~ちゃんである。アタクシである。誰にも手渡さないのだ。笑っちまいますねぇ。ある意味、孫馬鹿であります。オモチャだって、気に入らなかったら捨てられるなと心配しながらである。古女房ドノに呆れられてしまった。

・なんでだろう?それはアタシにそっくりだからか。馬鹿ですなぁ。そんな気もしているからである。似ているということは、なんだか楽しみでもあるし、オレの今ある命もこれで用済みだなという感慨にもつながる。

・こういう中途半端な隠棲の仕方もあるんだろうなということに気がついたからであろう。つまり、完全に世捨て人になったわけでもないし、出家もしていないし、苦行もしていないし、美人が美人に見えて仕方ないなんて馬鹿な冗談を言っているだけだからである。隠者になりきれなかった吉田兼好や鴨長明が目に浮かんでくるのである。

・娑婆っ気があってもいいんである。

・最近はそう思うことにした。そうでなきゃくたびれる。聖人君子ぶって、他人の悪口ばかり言っているのもごまんといるが、オイラはそんな人間だけにはなりたくない。

・明日が楽しみである。孫と遊んだら、鬼怒川の温泉につかりにいく。できれば孫と一緒に温泉につかりたい。じ~じでしゅよとか言って、温泉の大浴場でず~っと一緒にいたい。ムコドノに叱られるか。あ、それは大丈夫だ。なんてったって、年金生活だから平日に旅行できるからである。その時は、みんな稼いでいるからである。ムコドノもチョウジョも旅行なんかできないではないか。サラリーマンっちゅうのは厳しいもんでっせ。

・我が人生十分楽しんでいます。では、これから東京に行って参ります。楽しみ、楽しみ。かなり早起きしたし。4時には起きてスタンバイしていたんですから。\(^^@)/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Facebookでのつぶやき(6月10日)

2012年06月10日 09時48分39秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
8月に奈良に行くことにした。
古女房ドノの説得に成功した 
\(^_^)/
一緒に高野山も行く。
宿坊に泊まりながらである。
Facebook上の友人であるHさんが行かれた
宿坊ではないケド。
Hさんの一条院はちょっと年金生活者には高いので。
あ、アタシャ、能楽学会の話を聞きにいくんでした。

 

林屋辰三郎先生の中世芸能史の研究なる書籍を
今、Amazonに発注した
これちょっと高いなぁ。。。研究費なんてもらえないし
年金生活者にはちょ~っとつらい
大図書館でもサーチをかけたが、
無い
能勢朝次先生の能楽源流考と一緒で、基本書中の
基本書だから・・・・・
現役中にもっと買っておけばよかった
雑書ばかり買ってしまったからです。
明日、また神保町に行くけど、
林屋先生のは無かったから。
もっともあっても、Amazonほど安くは無いですからね。
今日から、また吝嗇生活が始まる。
ああああああああああああああああ
辛いですね
(゜◇゜)ガーン



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6月8日(金)のつぶやき

2012年06月09日 04時51分38秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

23:19 from gooBlog production
いいことを決意したものである・・そうだ奈良に行こう blog.goo.ne.jp/tym943/e/bd28d…

23:44 from web
奈良の興福寺に行こう、8月に。暑いってばかりも言ってられないっすね。

23:45 from web
世阿弥忌ってセミナーもあるそうだし。参加できたらしたい。って学会の会費払っているから可能だと思うんだケド。

23:47 from web
今日は、ニュースにびっくりしたなぁ。わが居住地から出ている首相のご発言。これは、これは。。。。。。

23:48 from web
相当批判されますぜ。大丈夫かいな。千葉県出身の首相ですから、応援まではいかなくても批判はしていませんでしたが。

23:50 from web
政治家って、むずかしいもんなんですねぇ。アタシャ、さしみの具にもならんくらいの愚者ですから、よくわからんのですが。

23:51 from web
エリートにはエリートなりの苦しみもあるんでしょうねぇ。かわいそうになってくる。

23:53 from web
こういうときは、リビングでそふぁ~でひっくり返って、つまらない哲学書でも読んでいるにかぎる

23:53 from web
どんなにつまらない哲学書でも、政治よりはマシだってそのうち気がつくから・・

23:54 from web
終わり。もう寝よう!

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そうだ奈良に行こう

2012年06月08日 23時15分11秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・サッカーを見ていて、夢中になってしまった。結局好きなんだなぁと思う。こういう男と男の闘いみたいのが。私の心の中には、根本にそういう単純な図式があるのだ。それは否定できない。されど、そういう傾向を持っていると、リーダーとしてはいかがなものか。


・あまりにも単純明快で、正直者で、考えていることがすっきり見えすぎるという方が政治家にむかないのと一緒である。組織を束ねる方々にもおられた。単純明快。シンプル・イズ・ザ・ベストってタイプの御仁。やはり戦略の無い人間に組織を任せてはならないと思うのである。魅力的な政治家に短気な人間はいない。すぐ切れてしまうタイプの人間は底が浅いから、結局人を使えないのである。このあたりは自称でもなんでもエリートと呼ばれる方は警戒された方がよろしい。怒りがカオに出てくる人間はもっとダメである。そんな底の浅い人間ではいけましぇ~んよ。(^0^)/ウフフ

 

・さて、サッカーの後半戦は、スポーツジムで見ていた。楽しかった。ケツが痛いから、バイクこぎをしていたのだ。時間オーバーしてしまった。こんな有酸素運動は、20分くらいでちょうどいい。それでアタシャ18キロも体重を落としたのだ。そんなに馬車馬のようになってやることはない。

 

・要するに止めるのを忘れていたのである。馬鹿である。サッカーを見ていて、忘れてしまったのである。楽しいものねぇ。日本が勝った試合は。

 

・今日は、能楽と唯識のことについて、内緒のフォルダーを使って、いろいろ原稿を書いていた。4月からだいぶ材料の仕込みをしていたから、さらさら書けるかと思ったら、これが意外と難渋した。いつも構想メモもなにも無くて書き始めるから、さらさらといくのだが、今回ばかりは難渋している。

 

・なぜかと思ったら、単純だった。自己承認欲求だったのである。これを書いて、外部の組織に認めてもらいたいという助べぇこころが邪魔したのだ。まさに悪魔である。人に評価してほしくてやっていると、結局馬鹿を見るのはこっちである。

 

・アタシャ、今更他人に認められる筈がないじゃぁないか。退去させられたのであるから。もう若いものの邪魔をしてはならんのであるから。ご活躍をしたい方々にひたすらエールを送るしかないんであるから。ただし、油断しているとアタシャどこからか現れて、悪戯しちゃいますぜ。サボっていると。

 

・悪だくみというのが好きなんである。悪童でしたから(^0^)/ウフフ そしてそういうタイプの生徒を扱うのは天下一品でもありましたからねぇ。なにしろめげない。めげてる暇もない。秀才には秀才なりの対応法を身につけているし、悪党には悪党なりの対応ができるんです。つまり生き延びるチカラがあるんですな、これが。あたりまえです。経験が違う。これホンマに。どれだけ下積みを長くやってきたかというと、それだけは自信があるんです。とうとう、そのまんま下積み生活でしたがね。予想どおり田舎教師で終わったし。

 

・さて、今日はM師匠とお話をさせていただいて、ふと決心したことがある。それは、「そうだ、奈良に行こう」と思ったのであります。8月に興福寺に行こう。それと奈良国立博物館講堂にも。世阿弥忌という能楽学会のセミナーがありますから。興福寺見学と、学会の発表を聞きに行きましょう。(^_^)3 フムフム。

 

・われながらいい決意をしたものです。これで、関西に行ける。京都の私立大学に通信教育で入学していれば正々堂々とスクーリングがあるからと言って、旅行ができたなぁ・・・。本学の次はそうしよう。最近はこの大学の研究紀要や、論文を相当数入手して読んでいるし。大変参考にもなる。もっとも、関東は寺社仏閣の数でも伝統でも関西にはかなわないですからね。


・こんなつまらないことを言っていると、興福寺の阿修羅像が哀しい目で愚生をにらめてきそうだからこれくらいにしましょう。そもそも、狷介を絵に描いたような老人になってしまっているし、院生室を隠棲室と変換して喜んでおるようではいけませんです。

 

・明日は、おさなごたちの柔道の稽古が中止になってしまった。残念であります。何よりの唯一の楽しみでありますから。

 

・どうするかな?県立図書館でずっとこもるかなぁ。もっとも夕方には塾の仕事があるからそんなに遊んでばかりもいられませんが。

 

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学生たちと共に考えていること

2012年06月07日 00時54分31秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

大学生に「教育の方法と技術」を教えるということ(他の大学の話です・・申し訳ありません。)


1 はじめに
 この4月から千葉科学大学で、「教育の方法と技術」を教えている。教職志望の学生と、教師になったことを予定しての諸々の学習を共にしている。
 これまでの37年間の教師生活から得たヒント、箴言を古ぼけたノートに書きためていたことが役にたっている。
 大学の講義をもたせていただくということなど、夢のような話である。それこそ想定外であったが、まだ3ヶ月に満たないささやかな経験ではある。その経験の中で、学生たちに何を訴え、何を共に考えてきたかをここに明らかにすることによって、これからの自分自身の成長に資することとしたい。(できるかな・・)

2 シラバスの作成と構想
(1)独自性を出す
 シラバスは、伝統的なものがあるだろうと予想して、大幅な書き換えはしなかった。大学教育に関してまったくの新参者であるからである。それぞれの大学の伝統というものもある。常勤の教授、准教授等々の先生方の方針もある。それを大きく逸脱してはならないわけである。
 しかし、その中で独自性を出すこともまた重要である。経験知からきたところのものを、学生たちに贈与したい、すべきであると考えているからである。
 そのことが、将来教職についた時に、大きな支えとなってくれるのではあるまいかと考えるからである。

(2)何をもって独自性とするか
 「授業の構造化」である。
 いわゆる授業構想のシステム化と言ってもいいだろう。これまで随分言い尽くされてきたことでもある。教師生活37年で成熟した概念である。そして、もうそろそろそれを他者に伝えなくてはならない。このことを学生たちに伝えることで、あるいは具体的に演習として講義の中で学生たちに取り組ませることで、教職志望という学生たちのニーズに応えることが可能になると思ったためである。

(3)授業そのものの概念を変える
 学生もまた、それまで受けてきた小・中学校・高等学校の授業を経験してきているわけである。それほどに教師たちの影響というものは大きい。そして、それが経験知として、学生たちの頭脳にすり込まれていく。
 最初に、その学生たちの経験知としての授業概念を変更させることが重要であると考えた。
 例を挙げれば、国語の授業で何をすればいい授業となるのか、あるいは何をすることが国語の授業となるのかということである。つまり、「読む」ことと「見る」ことの違いを明らかにすることが重要であると、いうことである。英語で言えば、ScanすることとReadの違いである。
 電車の中吊り広告を読む、缶詰のラベルを読む、レストランのメニューを読むこともまた読書なのであろうか。
 一字一句ゆるがせにせず、じっくり読むことと新聞をざっと斜め読みすることと、その違いはどこにあるのだろうか。圧倒的な語句のシャワーの中で育ったから、我々は母語を持つに至ったわけである。でなければ、赤ちゃんのままである。

 このことについては、本学は理科教育の専門家を養成する大学であるから、この駄文では扱わない。
 しかし、理科教育もまた教科書からスタートする。その点においては国語教育と変わらないはずである。
 つまり、学習指導要領に基づいて書かれた教科書で教えるのであるから、教科書の中の何を教えるのか、どうやって教えるのかということを根本的に考えなくてはならないと思うからである。

(4)具体的には何をするのか
 マトリクスである。
 教科書の教えるべき一分野を、あるいは単元を読む。そしてそこから「教師として」「何を」「どうやって」授業を展開していくのかという課題を与えるのである。
 これまで八回ほど講義をしてきたが、ことごとくその連続であった。すべてがそこに収斂されてくるのである。
 指導案作成は、次年度の3年生の時に他の科目でご指導いただけるとのことであるから、指導案作成の前段階で徹底的に鍛えの時を持とうと学生たちと話し合ったのである。
 こういう教師として教える、教えなくてはならないという立場であると、「情報収集のレベル」が違ってくる。むろん心構えも違ってくる。しかし、そういうことを言っているのではない。
 得た情報をはき出すためにという一点が違ってくるのである。出口の無い情報収集一点だけであると、死蔵されてしまう。学者ならそれでいいだろう。研究室に閉じこもって、たまに世間に顔をだしてふんふんと言っていればそれでも通用するせんせがたはたくさんおられるだろうし、それはそれで十分尊敬に値する。むしろ、そういう知的な営みを私のような一般ピープルは十分尊敬するからである。
 しかし、この場合は教師を目指している学生である。違う世界を想定しなくてはならない。
 自分の知的な財産をどのようにはき出すかである。
 そして、その知的な財産を「いかに」するかということである。これだけは、受け身の授業で教えてもらって身につくというわけにはいかない。自分で考えるしかない。
 教壇の経験がない学生たちには過酷なことである。十分想定はしている。しかし、やらなくてはならない。実践をくぐりぬけなくては学校現場で通用しないからである。

(5)教科書からコンテンツを探し出す
 そこで(3)であげた国語教育との関連が出てくるのである。読むことと、見ることの違いである。
 最初にScanし、教科書の中から指導すべきコンテンツを探しださなくてはならない。むろん何度も言っているように、学習指導要領との関わりは最も重要である。探しだしたら、それを順番に並べ替えたり、適不適を考えたり、学校の生徒の実態を考えたりしなくてはならない。高等学校では特にそうである。学校のレベルが全く違うからである。
 マトリクスを作成することは、この一連の作業を展開するのに非常に有用である。でないと、次の指導案作成で大きな墓穴を掘ってしまうからである。経験上。

(6)コンテンツを理解して初めて授業のシステム化が可能となる
 授業のシステム化についてということを学生たちには一番時間をかけて言っている。23才の青年教師であった時から周囲におられたベテラン教師たちにしごかれたのである。まるで神のような大ベテランばかりであった。毎日のように研究授業を行った。どれが普段の授業で、どれが研究授業かまったく区別がつかなかったのである。中学校にいたからできたのだと思う。今でも感謝している。
 授業のシステム化については、この駄文の目的とするところではないので別の機会があったら書いてみたいし、話もしてみたい。
   

※このアトは十分訂正をして論文カテゴリー(非公開)にしまい込みます。タイトルも変更して。

※0:49できました。いろいろ書き込み、この原稿の2倍の分量になってしまいました。8900字。多けりゃいいと言うもんじゃないですね。読む方だってつかれっちまうです。でも、これ私の「ノート」ですから、読者を想定しておりません。申し訳無いです。



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純文学について

2012年06月06日 13時55分01秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・なぜ純文学が廃れてしまったんだと思うことがある。ともかく売れない。本が、である。一部の世界の人しか興味が無いようである。最近のTせんせという芥川賞受賞者が、奇抜な行動で世間の注目を浴びたくらいである。

・この場合、出版数という点からのみ言っているのであるが。確かに純文学は売れない。さらに、漫画や、自己啓発本、ビジネス書ばかり売れている。シンプルだからであろう。とっつきやすいという側面もある。ある学校の卒業式で、3月くらいになくなられたスティーブ・ジョブスのことが取り上げられていた。そこまでビジネス書というのは、蔓延しているのである。奇妙なことである。

・なぜ?ということからつらつら考えてみるに、原因は批評家なのではないのかと思ったのである。文学性とか、この純文学の持っている意図とか、必然性とかのべつまくなしに批評をされている。もっとも、この愚かな私もそういう世界にどっぷりと漬かって生きてきたのだから、別にそんなに目くじらたてて言うような話でもない。

・しかし、あまり事細かに分析をされると、私のような一般的な読者は嫌気がさす。もしかして、批評家のせんせたちは、こんな作家いつでも取り替えがきくと思っていらっしゃるのではないか。もしそうだとするなら、批評家であるご自分だって、いつでも取り替え可能な存在でしかなくなる。

・それに、ためらいというものが無い。批評というものには。イエスかノーか。一刀両断である。行動を起こす前に、いろいろと逡巡するような少女文学にあるようなためらいがない。男らしさとか、そういうものを男の子というものは好むのだろうが、あまり極端だといかがなものか。

・自分に語りかけてくるような、そういう視点がほしいのである。これはどんな本を読んでみてもそうである。つまり、どんな難解な語句を用いていても、いいのである。読み手である私がそれを理解したいという欲望を感じさせてくれる書物が良い書物である。だから可能な限り優しい語句を使った、大衆受けするような本が良書であるかとなるとなかなかそうは言えないのである。私のような一般ピープルの必然性を重視して書いたとか、国民のために書いたと自称する本に読者への語りかけはない。新聞がその好例である。言葉使いはやさしくしてくれる。しかし、新聞の記事の書き手たちは、高慢ちきである。ものを知らない私のような一般ピープルに、指導をしてくださるわけである。つまり上から目線なのである。語りかけでは断じてないのである。指導と対話は違うのである。そもそも前提が違うのである。こういうのは、私のような一般ピープルは一瞬で気がつくのである。共に悩み、共に苦しむという視点も当然無い。あたりまえであろう。エリートだからである。

・批評家たちが、純文学の作成者たちをどうしてあのように虐待じみたようにタタケルのか。それはつぶしても後から後から作家志願者というのが登場してくるからである。そういう狭い社会でしか生きてないからである。純文学は狭すぎる。本当に顕微鏡で見なくてはわからないほど狭い。

・作家というライセンスを取りたい、そういうものを取得させていただきたいと思う限りは、純文学の新人たちは残忍な扱いを受けることになるだろう。当然である。もし、ただ好きで読んでいる、書いているという段階で自己満足できれば、作家志望大学院中退というのでもいいのではないか。もっともそんな大学があるかどうかは知らない。あるかも知れないが。(芸術系の大学にあったかも)

・「ブログ」のようなものでもいいではないかと思うことがある。自己満足でいいのである。ある意味、私のやっている生涯学習もそうである。けっして自慢できないことであることはよく自覚している。またそうしてはならないことも。だって、自己満足なんだから。こういう世界で勉強させていただいているということに感謝しているだけだからである。

・さらにブログは、「ノートの代用品」でもある。読書感想文を書いている。著者名も、出版年も、出版社も、引用した場合はページ数も書いている。ブログのいい点は、後で検索がきくという点である。Twitterにはない継続的に思考ができるという長所がある。Twitterも、アイディアが浮かんだときは実にいい。そして、私はブログと連携して次の日にこのブログにまとめて掲載されるようにしてある。これもまた検索がきくのである。しかし、Twitterは考えている最中に他の方のつぶやきが入る。あれって、邪魔と言えば邪魔である。考えが中断されてしまう。もっとも、たいしたことを考えているわけではないけれど。

・ノートだと検索というのは不可能である。数が少なければそれはそれで可能だろうが、古ぼけたノートが60冊もあると何がどこに書かれているか、私のようなできの悪い頭の持ち主ではわからなくなるからである。

・ま、これからも「読者5名」を想定して、細々と書かせていただくつもりである。こんな程度ではあるが。「我慢強い5名の読者様」、これからもなが~いおつきあいを。ではまた!


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今日の紀尾井町キャンパスと先日の柔道大会

2012年06月04日 23時10分10秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

紀尾井町キャンパスであります

月曜日はここにいます

地下鉄有楽町線麹町駅を出てすぐにで~んと。。
名前を聞くのを忘れた

五市大会を居住地で開催

気合いが入っています

監督の指示を受ける

第1回戦を発表

ウデがなる

 

・平家物語を学んできた。授業ではない。講座である。社会人対象の。そうである。こういうのにも積極的に参加しているのである。なにしろ時間だけはたっぷりあるから。どんなのにもカオを出すんである。夏休みは、京都あたりまで出ていくつもりである。興福寺を見たい。なんどか参拝したことはあるけど、研究対象としては違った面を見せてくださるからであろうから。薪能も見にいきたい。山形の黒川能も行きたい。それにしても、徹底している。われながらあきれている。(^0^)/ウフフ

・楽しかった。いろいろと教えていただき、感謝してきた。あいもかわらず知らないことがあって、新発見の連続である。メモが、情報カードで14枚。90分。あっという間であった。内容は書けない。おやりになりたかったら、大学へご連絡を。ここに書いたら叱られるから。たぶん。

・そして、余勢を駆って、神田神保町へ。朝、有楽町の三省堂で能の本を、簡単な基本書であるが、5冊買ったので、もうすでにバッグがぱんぱんである。されど、行きたいのであるから、仕方なし。

・地下鉄半蔵門線(永田町乗り換え)の神保町駅から出て、すぐ昼食をいただいた。もう13時を過ぎていた。大幅に。昔、作家達の集まっていた喫茶店の前に、安い中華料理店がある。そこで、野菜炒めを定食でいただいた。おいしかった。もうそんなに量を食べないようにしているから、ほどほどにした。ほどほどで十分である。(なんでもほどほどであるケド)それにしても神田はいい。学部生時代から随分通った。九段高校の国語教師になった心友のKと随分来た。函館の進学校の出身で、将来を嘱望されて学部からストレートに中国哲学の大学院に進学した俊秀であった。あいつが40代後半で交通事故で亡くなったときはショックだった。そんなことを思い出した。

・すぐ書泉グランデに行った。先週ここには来ていない。能楽関係の書物を捜してみたが、なかなか無い。それより、さっき師匠に教えていただいた忠度の関係書籍の方に目が行ってしまう。何冊か手に取り、2冊ほど買った。

・唯識関係の書物も買った。専門古書店があるからである。さらに、岩波の日本古典思想体系の露天販売もしていたので、これはこれは嬉しくなった。非常に高価な本が、あるいは、特殊な本が山積みされている。こういう時は、実にうれしくなってしまう。500円とか、800円くらいで売っているのだ。源信を買った。原文もあるから、実にありがたい。他にも買った。ああああ、重くて悲惨な状況である。

・能楽のDVDで中古が欲しいのだが、なかなか無い。先週も往生した。今日は、いろいろと質問をしながら、あっという間に時間がたってしまった。これでは夜のジムに行けなくなる。もうや~めたである。

・帰りの電車で、干潟駅からどっかの野球部がどやどやと乗ってきた。

・居住地の駅が近くなったので、よっこいしょと声をかけて立ち上がり、上着を着て、本の袋を両手で抱えていたら、「校長先生!」と声をかけていただいた。

・3月までお世話になった高校の野球部であった。よく覚えていてくださったものである。ワタシのカオは何の特徴もないから、なかなか見つけられないでしょうに。特にヘアスタイルがまったく特徴がないのである。なぜならヘアが存在しないから特徴を形成することが不可能なんである。(^0^)/ウフフ

・「練習試合です」「がんばってね」・・そんな簡単な会話をして別れた。降車駅が近づいたからである。今日は月曜日なのになんで練習試合ができたのだろうと思った。まだまだ教師根性が消えませんなぁ。苦笑した。おそらく代休日なのだろう。先週の土曜日はPTA総会でもやっていたのだろうと思った。学校関係の資料は一つ残らず全部捨てたので、行事関係もなにも全部わからないからだ。おかげで、手帳に書くことがナンニモ無いのである。これはありがたいことである。そうだ、手帳を薄いのに買い換えよう。

 

 

・もう一つの写真は柔道の五市大会の時のもの。居住地が開催地であったからである。

・なぜ、ここに写真を載せたかというと、掲載するのを忘れたからである。しかし、この道場は被災支援物資を全国からいただいた時に一時置き場となったからである。まだ、ステージ側にある。ありがたいことである。しかし、ここまで来ることができたのである。本来なら、去年開催する筈であったのだ。二年越しに開催できたのである。

・感慨無量であった。

 

・疲れた。疲れたが、さっきまでスポーツジムにいた。終了後にサウナに入って、体をやわらかくしてきた。身体を緊張させたまま寝てはならんのである。毒素が回る。

・もっとも、アタシの体は毒素まみれ。毒素の二乗になる?そんなことはない。減算していくという実に奇妙なサイクルをとっているのである。

・冗談はさておき、これからもうちょっと読書である。明日は、大学に行って、それから夕方直接千葉に行く。飲み会があるからである。前の職業の方たちと呑む。安全教育関係のお世話をさせていただいていたからである。これも長いことやってきた。30年近くやったのではないか。



・以上、報告である。

 

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目が覚めてしまった

2012年06月04日 05時00分16秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・遠足に行く当日の朝のようだ。まるっきり。

・早朝に目が覚めたのだ。そんなに師匠の講座を拝聴するのが楽しみなのである。なんと4時前には起きてしまった。昨夜は、若干早く寝たから(それでも真夜中の12時)、睡眠時間が4時間。これって、まるっきり遠足を楽しみにしている小学生の心理である。別段東京なんて珍しいところでもなんでもない。特に、この20年くらいは面白くもなんともないところであった。面白いのは、趣味である温泉巡りであるから、東京は興味の対象外であったし。古書店巡りくらいである。用があるのは。それも最近はAmazonがあるから、こっちの方を利用していた。だから、ご無沙汰であった。

・早朝の雰囲気はいい。今も、野鳥がちゅんちゅんとか、たまにぴ~ろとか(ニンゲンナンテ、バ~ロとか)鳴いている。それを聞きながら、今日の東京行きの準備をして、やおらコンピュータに向かう。茅屋の書庫にある電子機器の左側には、昨日県立図書館から借りてきたなかなか読み応えのある能楽研究書が、で~んと鎮座している。脇に読書カードがある。ずっと読んでいたのである。しかし、慨嘆している。アタマに入ってこないのだ。

・もともとできの悪いアタマである。しかたなし。アトは、膨大な時間をかけて一つ一つクリアーしていくしかない。質より量で勝負するしかないではないか。分母を増やして、ともかくアタックである。愚生ごときが、やれることはそんなことしかないのである。当たり前である。天下の素浪人、鈍才であるからだ。(^0^)/ウフフ

・昨日、県立図書館で、ホントは国文学関係の読書をするつもりで行った。あの図書館はなかなか文学関係が充実していて、研究書も相当多い。だから、ずっとこもりっきりでいたいのであるが、家の草取りや、木を切ったりもせにゃならん。それまでの時間を過ごしていたのである。

・そして、ある書架の前を通り過ぎようとしたその時である。

・「勝負あり 猪熊功の光と陰」(井上 斌著 2004年 河出書房新社)という書名が、目の中に飛び込んで来たのだ。柔道で東京オリンピック重量級で金メダルをとった人である。そんなことを言っても若い人はわからないだろう。私には、特別の方である。ファンだったからである。なぜか。それは身長173センチ、体重87キロで殆ど同じような体型を私もしていたからである。そして、猪熊先生の得意技である一本背負いを会得したくて、憧れの講道館に通っていたからである。ご本人も何度か遠くから拝見したこともある。講道館の大道場である。

・手に取ってみた。懐かしい。

・しかし、内容は猪熊先生の自決のことである。経営をしていた東海建設のことで自殺されたのは知っていた。社長室である。そのことを扱っていたのである。

・とうとう、県立図書館で全部読んでしまった。涙が出ていた。そうだったのか。そうでしたか。猪熊先生。そうでしたかと、ブツブツつぶやいていた。周囲の方々にはまことに申し訳無かった。変人が一人いて。

・そして思った。組織と個人ということをである。ここではさらっとしか書かないが、ビジネスマンというのは過酷なものであるということである。しかし、ここまで暴露して著者は大丈夫なんかい?とも思った。だって実名入りだからである。

・個人というのは、組織のためにと思って働く。しかし、組織というのは過酷である。都合が悪くなると個人を切り捨てる。自己保身のためである。自己保身というのは、個人が行うだけではないのである。組織自体が行う場合も多々あるわけである。

・だから、あまり組織に期待しないほうがよろしい。これだけやってきたのだから、オレをナントカしてくれるだろうという甘い期待はしないほうがいい。無駄である。そんなのは。親分とか子分とかという関係も無駄である。個人として、これだけ忠誠を誓ってきたのだから、なんとかしてくれる筈であるというのも無駄である。

・60年しか生きていないが、そういう結論に達したのである。つまらないことであるが。

・しかし、猪熊先生は、反対の生き方をされてしまったのだ。あまり内容に踏み込みたくはないが、そう感じたのである。

・くわばら、くわばらである。組織に依存しすぎるといかんのである。もっとも、アタシャまったくなんの組織にも属していない。今働いているのは、アルバイトばかりである。いつでも首を切られる。そんなもんでしかない。

 

 

・今日は、帰りに水道橋で降りて、懐かしの講道館でも見てきますかな・・・なんて思っている。では、行って参ります。

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6月2日(土)のつぶやき

2012年06月03日 04時10分18秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
00:27 from gooBlog production
世界で唯一の肩書き goo.gl/UiVl2

17:24 from gooBlog production
たまには教育のことを blog.goo.ne.jp/tym943/e/89bcb…

23:24 from gooBlog production
永遠に終わりそうもないテーマです blog.goo.ne.jp/tym943/e/52c9e…

23:39 from web
中論を書いている。壮大なテーマである。

23:40 from web
やらなきゃ良かったと思うが、もう遅い。

23:41 from web
高校時代からのテーマである。倫理社会で東大印度哲学科卒のU先生に接してから、ずっとアタシャこの異界の世界にはまり込んでいますです。

23:42 from web
だからセンセの仕事は大事なんです。センセの影響はおっきいからですよ。

23:44 from web
しかも未だにセンセの枠から抜け出せません。勉強不足だからです。永遠にです。終わりがないんです。

23:45 from web
小椋佳さまも、60になってから印度哲学にはまりましたね。

23:46 from web
もっともあちらは天下の大秀才。ちょっとやっただけで、サンスクリットもなんでも全部理解できたでしょうけど。

23:46 from web
あたしゃ、まったく満足できない。自分には才能が無いしねぇ。嘆きの壁ですよ。話にならん。

23:48 from web
今日は柔道をやって、いいアセをかいてきました。いいもんです。

23:48 from web
でも、勉強しすぎて、ケツが痛い。こんなに毎日ずっとイスに座っていることはなかったからです。

23:49 from web
ということは、勉強家にはむいていないってことですねぇ。(^0^)/ウフフ

23:49 from web
わかっていましたけど。

23:50 from web
受け身をとったら、あ、イテテ・・・ってこれは情け無いです。

23:53 from web
まだ12時前です。さ、これから2時くらいまで駄文を書きます。来週は、原稿を2本かかなければならん。と、宣言しておかないとやらないからです。(^0^)/ウフフ

23:54 from web
それでは皆様、寝る方はどうぞお休みなさいませ・・

by tym943 on Twitter
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満州文学について知った

2012年06月03日 00時19分37秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・城西国際大学に入学させていただいて、感謝していることはゴマンとある。その一つに、満州文学について初めて知ったということがある。これはこれから大きな財産になると思っている。

・クラスメイトに、大連外国語学院(日本では大学に相当する)の先生方がおられるのだ。日本語教育の専門家であるから、実に日本文学に詳しい。(*_*) マイッタと毎日、ため息が出るほど勉強しておられるのだ。だから、アタシャ死ぬほど勉強しているんである。まったくの間近に尊敬する方々がおられると、うかうかしてはいれないではないか。置いてけぼりをくらうからである。だから、毎日死ぬほど勉強している。模倣である。真似させていただいている。時間がたつのを忘れるほどである。まったく、ケツが痛くなるほど勉強したのは、高校以来である。あ、高校の時は、まだキン肉マンだったから、ケツはそんなに痛くはなかったか・・・

・不勉強で、大連のことは殆ど知らなかったのである。尊敬する遠藤周作が、大連にいたことは知っていたが、クラスメイトにいろいろお聞きしているうちに、まったく不勉強であると慨嘆し始めたのである。

・与謝野晶子が大連にいたのである。これも知らなかった。実に不勉強である。ワタクシの居住地にある非常に大きな図書館で参考文献を借りて読んでいた。中国のご出身で現在日本大学の講師をされていたと思うが、その先生の博士論文を読ませていただいて、実に驚いたのである。本当に真摯に勉強をされている。肝心の与謝野晶子についての評価はちょっと愚生とは異なるが。縁である。

「満洲」文学の研究 尹 東燦 明石書店


・そして思ったのである。

・なぜ満州文学について知ろうとしなかったのかということである。それは戦争と結びついている。知りたくないというある意味での感傷がある。亡父が満州にいたのである。軍人としてである。その時のことを語る亡父を、幼いながらも哀しいと感じていた。亡父は、平和主義者であったと思う。それがどれだけ国家的使命との隔絶に苦しんだのであろうかと思うのである。だからと言っては身も蓋もないが、亡父はニヒリズムにずっと苦しんでいたのだろうと今は思う。生きていた時の発言は、すべてそうであったと思う。シベリア抑留体験も、相当な体験であったのだと思う。ドストエフスキーに興味を持って、学部卒論で扱ったのもそれが一因であろうと思う。今はである。わたくしも、22歳の学部卒論からはちょっとは成長したのかもしれないから。(^0^)/

・亡父のことは好きだった。本当に尊敬していた。優しいオヤジだった。否、それだからこそ、太平洋戦争について、心の奥底に大きな傷を負ったのだと思う。暗闇のようなニヒリズムがあったと、大人になったわたくしは思う。オヤジの無念さは、この年になって初めて理解できるような気がする。わたしくも60歳。オヤジは60歳で死んだ。死ぬ直前、癌だったから死ぬまで意識ははっきりしていた。そして、短期間の看病しかできない愚かな長男であるわたくしを、死の床から激励したのである。かまうな!仕事優先でいけ!と言ったのだ。なんという俠気であろうか。弱音は吐かなかった。凄いことだった。死ぬことは気がついていたであろうと思う。しかし、一切そんなことは言及しなかったオヤジである。幾多の戦友を、満州で、シベリア抑留で喪った経験を持つ。わたくしはこんな死に方はできない。みっともなく、こだわりつづけ、わぁわぁと叫びながら死ぬのかも知れない。

・そうした記憶と満州文学は重なってしまうのである。

・だから堪えらないのである。しかし、今は違う。オヤジの生きていた満州という土地と、そこで暮らしておられた方々と、その満州の土地で生まれ育った方々と、新中国の知的エリート達がどう考えておられるのか。それを直接知ることができるように神は配慮してくださったわけである。これは実にありがたいことである。

・これだけでもわたくしは、本学に入学させていただいてありがたいと感じているのである。

・ご縁である。

・すべては縁である。亡父が満州文学を勉強せよと導いてくれたような気がしてならない。ただし、本学でやるべきことは違う。ある意味、すでにテーマは決めているからである。月曜日にまた東京に行く。師匠の平家物語講座を聴かせていただく。楽しみにしている。日本を代表する碩学である。直接拝聴できるからである。その帰りに、またまた神田の古書店に行く。ダブルの楽しみである。そして、これ以上の楽しみはない。学部以来の楽しみである。

・先週買えなかった古本を、新本を買ってくるつもりである。なぜなら、図書券を持っているからである。大金である。一万円である。(^0^)/ウフフ

・ささやかな喜びである。

 

 

・また明日!

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龍樹の「中論」について その1

2012年06月02日 23時24分46秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

書き始め 平成24年5月30日(水)

第二稿  平成24年6月2日(土)



 躊躇している。こんなタイトルで書いていいのか?ということである。無知蒙昧なる迷える衆生であるからである。

 しかし、書いていかないと、まとまらない。自分の知識がである。そもそも、知識うんたらと言い始めること自体、失格なんだが。お許しを。

 

 

1 はじめに

 この駄文では龍樹の中観の教学を代表している「中論」を中心とする。龍樹は多くの論書を残しているが、その多くが本人の著述ではないとする説もある。鳩摩羅什の漢訳が、これまで日本の諸派仏教でも読まれてきた。中論という論のタイトルも鳩摩羅什がつけたとされる。

 鳩摩羅什以外のテキストとしては、チベット語訳系がある。さらに、バーヴァヴィヴェーカ(青弁)の注釈書、サンスクリットのチャンドラキールティ(月称)の注釈もある。龍樹は、バラモン出身であるから、サンスクリットで著述した可能性がもっとも高い。

 拙ブログにおける「中論」のテキストとしては、鳩摩羅什の漢訳「中論」を基本として、中村 元博士の講談社版「龍樹」をもとに、適宜梶山雄一博士著の角川書店版「空の論理(空)」を参考としてまとめた。

2 論争の天才龍樹

(1)帰敬序の八不と縁起

 帰敬とは、仏陀への帰命である。

 中論の冒頭は、この帰敬序から始まるのである。

「・・・戯論の寂滅という吉祥なる縁起のことわりを説きたもう仏陀を、諸々の説法舎のうちで最も優れた人として敬礼する(帰敬序)」

 そして最後は、以下のように書かれている。

「一切の見解を断ぜしめるために憐愍をもって正しい真理(dharma)を説きたもうた仏陀に我は今、帰命し奉る(第27章-第30偈)」

 中論の最後を、龍樹は仏陀に帰命し奉るとしている。序に対応している。帰命とは、ナマス(namas)であり、音訳すれば「南無」である。龍樹の宗教的な体験が最後に書かれたとみるべきであり、ともすると龍樹を哲学者として解釈してみたり、「中論」を哲学書のように解釈してきたこれまでの学者の方向性は違っていたのではないか。確かに非常に難解ではある。注釈書と首っ引きでなければ、間違った読みをする可能性もある。

 だからこそ、この序と最後の文は無視してはならないことである。なぜなら、それは実践を標榜しているからである。

 序に書かれているように、実践無くしては「戯論」でしかないのである。しかし、思想的な価値もまたあるのである。なぜならば、この中論の思想的な影響も特に日本の古典文化においてあったのだと仮定をして、両者の影響関係を見ていきたいからである。

 また、この冒頭の帰敬序を、中論のエッセンスとして見るのがアサンガ(無着)である。「順中論」の中で、「かくのごとき論偈(帰敬序)は是れ論の根本なり」と書いている。インドでは、中観派と唯識派とが論争を繰り返してきたのであるが、唯識派でも少なくと無着の代までは、対立して論破しようとする姿勢はみられない。

(2)八不

 帰敬序の中に、

「不断、不異、不出」というような単語が出てくる。合計8ある。鳩摩羅什訳では「不生亦不滅 不常亦不斷 不一亦不異 不來亦不出」とある。「八不」と日本の仏教界では読んできた。「縁起」と同義語として非常に重要視してきたものである。

 教典の中ではポピュラーな般若心経の中にも出てくる。「不生不滅 不垢不浄 不増不滅」などの経文である。

 龍樹の八不は、縁起・空と同義である。

(3)縁起と不生

 龍樹は、縁起を聖なるものとして説いている。

 帰敬序の中では、仏陀によって説かれたという縁起は、吉兆なる「、至福なる、めでたいというような言葉で形容されている。哲学的な概念としてだけとらえられているのではないことが明らかであろう。

 中論は、縁起を説く書である。このことだけは忘れてはならないことであるし、これからも何回もこの駄文に登場してくると思う。それゆえ、理解をしっかりしておいておきたいのである。

 しかも、龍樹を唯識理解のためにもってきたというのは、ある意味正解であると筆者は考えている。つまり、唯識を反対側から見るのである。川の流れもそうである。見たいところは反対から見るとしっかり見えるはずである。それゆえ、龍樹の視点から見ることによって、客観的な視野が得られると考えるからである。


 21章の40偈に

 「もし縁起見るものは仏を見、苦集滅道(四聖諦)を見ると為す」とある。

 チャンドラキールティのサンスクリットのテキストには、「仏を見る」はない。ただし、この例文の「苦集滅道」は、部派仏教の教義を指して言ったのでは無く(「四聖諦」)、真理そのものの諦(satya)という意味で言ったのであろう。なぜなら、中論は部派仏教を厳しく論破していく書であるからである。大乗仏教の根本の書であるからである。

 

(4)生滅する諸法と不生の法性・縁起

 帰敬序において、「何ものにも消滅することなく、何ものにも新たに生ずることなく・・」とある。この場合の「何もの」とはなんであろうか。

 多くの学者は、諸法の法であると解釈している。サンスクリットではダルマ(dharma)である。小乗仏教は、また非常に細かくこれを分析するが、一般的には人・物・作用・現象等々と考えればよい。つまり縁起の対象である。

 あらゆる対立表現を超越しているのである。単なる虚無主義では無いのである。大乗仏教では、諸法を諸法たらしめている、存在物を存在物としているその根源を「法性」(dharmata)というのである。存在の根源である。法を法たらしめている法性はなにかということを、中論は縁起であると説いているのである。

 ここのところをしっかり抑えておかないと、以後の膨大な中論の理解は不可能になる。

(※ダンダン袋小路に入ってきたような気がするが、自分の理解のために書いていますのでお許しを・・)


(5)中論の読み方

 龍樹の書いたことは、大乗仏教の立場に反対する他の宗教哲学への論破が多い。ヴェーダンタ哲学、サーンキャ学派、ヴァイシェーシカ学派、ニヤーヤ学派、ジャイナ教等々や、仏教内の他の部派に対する批判・論難が多い。だから参考になるのである。

(※この辺りは武蔵野大学で基本を学んだ)




※書きかけ項目です。以下毎日増加して行く予定です

 

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ノートをとっている合間に考えたこと

2012年06月02日 16時27分21秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・論文を書くにはまだまだ早いから、駄文をちょこちょこと書きためては、つまりノートから、理解度を試すために論文下書きをこのブログで作成している。これは非公開である。それはそれでなかなかいい試みであると、自分では思っている。楽しいからである。カテゴリをパスワードで管理しているから、気楽に書いている。誰の目にもふれないし。自分一人で楽しんでおれば良いからである。

・その合間に、元教師であるから、考えたこともあったので、書く気になった。教育界のことは忘れたが、つまりせせこましい教育の「界」のことは忘れたが、教育そのもののあり方とか、そういうことにはいろいろ意見を持っている。

・昨日、就職のための学問と言うのは・・・ということを書かせていただいた。就職する必要がないから、気楽なことを言っているのだということではない。

・つまるところ、経済用語で教育を語ってほしくないということを申し上げたのである。この勉強をすれば、こんなありがたい利益があるとか、千円もうかるとか、将来出世するとかの思考をしているのはいかがなものかと思うからである。資格をとるというためなら、それはそれでいいのである。立派なことである。それまで否定しているわけではない。

・要するにろくでもない打算をしないほうがよろしいと思うのである。打算的な生き方というのは、実にみっともない。人間との交際まで計算しながら、発言まで考えておるようではいかがなものか。あくまで個人としてその人とお話をしてみたい、オレとまったく違った学問をされた方、出身地が違う方(国も含めて)とか、ライセンスも違う方とか、専門外の方とか、相手はいくらでもおられる。打算がないから、実に楽しいのである。

・柔道でもそうではないか。タイプの違う人間がいるから面白いのである。勉強してみる気になるのである。話をしてみたくなるのである。計算を綿密にしながら、稽古をしているのもおるし、パワー重視でやってくるのもいる。ま、あんまり、鬼のように強いのも嫌じゃケド。なにしろ、こっちは腕力がないから。ついでにカネも無いけど。

・学校というのは、地域の教育力を如実に反映しているものであろう。このことはさらっと書かせていただくが、ホントにそう思う。圧倒的なパワーで存在価値を高めている学校は、やはり違う。このことは教師だけの努力でなし得るものではない。周囲の、あるいは地域の歴史的伝統というもの、さらに言えば国家の成り立ちということからも考えなければならないことである。

・良い例がアメリカという国家である。あの国は、歴史については、ヨーロッパ各国と比較することができない。おわかりだろうが、まだ歴史がないからである。そして、その歴史と伝統をつくるために、かなり焦ってきたことも否めないことであろう。だからと言って、他の歴史的に古い伝統を持っている西欧国家がいいと言っているのでもない。

・利益誘導型の教育というのは、焦りからきているのではあるまいかと思うのである。

・なんでもかんでも、一つ一つの行動を10円になる、100円になる、1000円になるというのではおもしろくもなんともない。今晩は、夜の柔道に稽古しにいくが、これもまったく利益はない。稽古をして、柔道5段をとるというのは、もうあきらめた。関係ないのである。一文の得にもならないというのは、実に爽やかなものである。

・じゃぁなんのためにやっているのか。

・贈り物であるからである。これまでの微々たる経験をお伝えすることができるからである。孫やひ孫のような方々と、技を通して対話する喜びがあるからである。なにものにも代え難いのである。その喜びは。

・教えさせていただくという行為はそういうことではないのかと思う。そして、こんな人間でもお役に立つことがあるというだけで、おろかなワタクシは嬉しくなってしまうのである。


・じゃぁ、行ってきます。



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ブログが唯一の息抜き・・

2012年06月01日 23時37分49秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・ここのところ、かなり固い記事を書いていたので、肩が凝った。カタカタと音がするくらいである。しかし、アタシャあんまり肩が凝ったという経験がない。家族で唯一の存在である。家族構成員の全員の肩をおもみ申し上げているんである。珍種の生物かもしれない。肩も凝らないし、血圧も高くない。120位であるから。それになんの薬も呑んでいないのだ。カオ以外、どこも悪いところがないのだから始末に負えない。

・金曜日は、一週間の中で、一番ハードである。8時間くらい大学にいる。今日も10時から、講義と演習が終わったのが夕方の6時。よくまぁもつな・・・と激賞している。自分をである。学生でござんすから、そんなの当たり前である。と思い込むことにしているが、正直疲れる。オトシですからねぇ。要するにじじいでござんす。

・なにしろ、クラスメイトは全員大学の先生方である。しかもオイラと違って、エリートだ。オイラなんかとアタマのできが違う。ついていくのに必死である。

・でもねぇ、それがいいのだ。

・セミナー棟で、大学院事務室の方とちょっと立ち話をした。かなり忙しい方であるから、ちょっと気後れしたが、セミナー棟で会ったのがいい機会であると思って、声をかけさせていただいたのだ。

・定年後の生き方として、アタシのようなのもいいもんでっせ、老年仲間にも城西国際大学に入らないかと声をかけていますぜと申し上げた。まだまだこっちはどこも具合が悪いわけでもないし、これじゃぁ爺捨て山に捨てられたじじいでしかない。少なくとも現象的には。と、申し上げた。

・60歳で定年。それで強制的に引退をさせていただいたのですと、申し上げたらびっくりしておられた。大学事務室の方は65歳なんだそうである。定年が。うらやましいですなぁと申し上げた。本当にそう思うからである。

・どうもアタシャ、じじいという感じがしないのである。ある日突然、じじいになっていたというのが実感である。そういえばそんなことを書いていた本があったなぁ。「老化は突然やってくる」って書いてあったような気がする。老化は突然やってくるんではなくって、そういう老人という役割を押しつけられたということの方が正解なのではあるまいかと思う。役割としての老人である。社会的には、そうでないと困るわけである。アタシのようにどこも悪いところなく生きていると、当然それは邪魔になる。(カオとアタマが悪いケド)

・それでもアタシャ、どんなに邪険にされようとも、たくましく、楽しく生きていくんである。マジにである。

・憎まれっ子世に憚るというではないか。世間のしがらみもなく、名誉地位とはまったく無縁の生活を送ってきたし、煩悩はあっても、それを消そうとノイローゼになるほどあせっているわけでもない。

・今日は、日本語の教育法についていろいろな方々から教えを受けていた。国語教師として37年間やらせていただいたわけであるが、あることを思っていた。学問というものの有限性についてである。

・尊敬する印度哲学の学者先生ですら、定年後を楽しみにしておるとあるとき言われたことを思い出していた。そのとき、思ったのである。定年までで終わりなんですかって。

・それをわたくしなりに有限性と言っているのである。学問というのは、働くためにやっているんでしょうかねという疑問がどうしてもあるからである。それはそれで尊いご努力であるから、つまらない人間の代表格であるワタクシは、尊敬はする。しかしである。就職のためだけでいいんでしょうかという疑問はまだ残る。

・そんなことを考えていられるのも、就職する必要がまったくないからであろう。就職されたら周囲が困るわけである。邪魔だからである。そのあたりは十分わきまえているつもりである。

・この間、Facebookというので、友人になった方とメッセージのやりとりをしていた。そこで、教育界のことをちょっと書いてくださったのである。お相手が。即、ワタクシは書かせていただいた。教育界のことは全部忘れましたので、悪しからず。ということである。なんにも覚えていませんですというスタンスでいかなくてはならんのである。だって、もう関係ないのですから。本当に捨てられたということは、社会学的に、あるいは人類学的に完全に関係性を断ち切ったということなのである。

・ところが、学問は違うと思うのである。

・定年なんてくだらない人間だけで取り決めたシステムで、それまでの自分の知的資本を捨て去ってしまってはいけないのである。定年が絶対的な価値あるシステムではないからである。そんなのは、凡夫である我々人間だけで決めたものであるからである。

・地位にしがみつくのも同様である。人間だけで取り決めたポジュションでしかないではないか。地位なんでいくらでもある。**長とか、**とか、副**とか、なんとかとか。

・アタシャなんにもない。(^0^)/ウフフ

・地位ではないが、唯一「還暦老学生」という「世界で唯一の肩書き」があるだけである。そして、この肩書き、世界で一番好きな肩書きである。死ぬまで「老学生」であるからである。なんってたって、無知の人であるからである。

 

・楽しいですよ。無知だから、死ぬまで勉強するしかないんだから。

 

 

 

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/