台北3日目。午後1時に集合するまで自由行動なので、先ずは、ホテルの近くにある『行天宮(シンティエンコン)』に行きました。

三国志の英雄、関羽が祀られていますが、台湾では商売の神様として信仰されていて、商売繁盛と迷子の魂探しで人気があります。


早朝から大勢の市民がお参りに来ていました。

「行天宮」駅から地下鉄に乗り、「民權西路」と「北投」で乗り換えるうちに電車は地上に出、30分程で「新北投」駅に着きました。

「新北投」駅。

駅前の風景。ここから5分程歩くと、北投温泉地域に入ります。
台北郊外にある北投温泉は古くから名湯として知られ、硫黄を商うドイツ人によって発見され、その後日本人によって開発されました。現在はリゾートホテルが立ち並ぶとともに、戦前から続く和風旅館なども残っています。
青いお湯のラジウム泉と、白いお湯の硫黄泉があります。

『台北市立図書館北投分館』
分館といっても大きくて、地下1階、地上2階、木の美しさが生かされている木造建築で、台湾のさまざまな建築大賞を受賞、世界で最も美しい公立図書館ベスト25の1つに選ばれています。
月曜休館日だったので、中には入れませんでした。

『北投温泉博物館』
日本統治時代の1913(大正2)年、約700坪の敷地に2階建てレンガ造りで建築された公共浴場(北投温泉浴場)の跡を利用しています。建築当時1階は大浴場、2階は休憩エリアであり、レストランや娯楽室が設置されていました。1945年国民党政府が台湾に進駐すると、温泉浴場は接収され、1階に民衆服務社及び温水プールが設置されましたが、間もなく使用停止となり、その後は荒れるがままに放置されていました。
台北政府は1997年にここを文化財として保存することを決定し、北投温泉の歴史をテーマに温泉の原理、北投温泉郷の発展史、凱達格蘭族の歴史、北投石発見の歴史や生成過程などを展示しています。
こちらも月曜休館で入れず、残念。

反対側から見たところ。

『瀧乃湯(たきのゆ)』
台湾に現存する浴場の中では最古の部類にあたる銭湯(公衆浴場)です。 創業年月は不明ですが、日本統治時代の1907(明治40)年前後とする説が多く、開業当初は露天風呂の男湯のみでしたが、 1923(大正12)年の昭和天皇(当時は皇太子)北投温泉巡行に併せて建屋を作り、その際に女湯も作られました。1945年に日本の統治が終わると、中華民国政府に接収され、競売にかけられましたが、台湾人の林添漢氏が落札し、『瀧乃湯』は存続されることになりました。

入口から中を覗くと、番台と男湯・女湯が見えました。台湾の多くの公衆浴場では水着の着用が義務づけられていましたが、ここでは日本式に裸で入浴する方式です。
泉質は強酸性で硫黄に若干のラドンが混ざっている青硫黄泉、入湯料はひとり100元(約380円)です。

横に回り込むと、昔の日本の民家のような風情でした。

瀧乃湯のすぐ前を流れる川・北投渓に北投石(ほくとうせき、英語: hokutolite)がここで発見されたという看板がありました。
1905(明治38)年に地質学者・岡本要八郎が瀧乃湯で入浴した帰りにこの川で発見、放射性のラジウムを大量に含む温泉沈殿物重晶石(硫酸バリウム)で、北投石と名付けられました。後に日本秋田県の玉川温泉で産出する物も同じ物であると認定されました。

丸く削った北投石で作ったブレスレットが癌に効くというので、前日お土産店に案内されて、しきりに売り込みされたのでした。もちろん買いませんでしたけど。

北投温泉で入浴したのは、こちらの公衆浴場『親水露天温泉浴池』。

清掃時間の間、入口の前でしばらく待たされました。地元の人達がたくさんきています。
水着着用の混浴で、入湯料40元です。

中では撮影できませんでしたが、白い塀の向こう側が露天温泉で、石で囲った大きな湯船が上段から下段にかけて4つあり、源泉が直接流れ込む上のほうほど熱めになっています。一番上にある湯船は45度以上あり、ほんの一瞬しか入ることができませんでした。
お湯は無色透明で、地熱谷で湧いた青温泉(強酸性硫鉱泉)を掛け流しで使っています。
地元のおじいさんやおばさん達が常連でゆったり入っているところに、観光客の私達も見よう見まねでもぐりこんで入らせてもらいました。日本語を話すお年寄りも少しいて、いろいろ教えてくれます。
台湾の温泉で地元の人達と一緒にお風呂に入って、面白い体験をすることができました。
ちょっと困ったのは、脱衣スペースがシャワーブースを兼ねていて、床が濡れていて、棚もなかったことです。着替えた服はコインロッカーに入れておきます。

温泉地を流れる川の橋の欄干にも日本式温泉マークがありました。
再び、電車に乗ってホテルまで帰ってきて、昼食後帰国のために集まりました。

高速道路を走る時、台湾の山のあちらこちらに白い花が咲いているのを見ました。
あとで調べてみたら、どうも「イジュ」という木のようです。ツバキ科の樹木でヒメツバキともいい、沖縄、小笠原諸島、東南アジアや東部ヒマラヤにまで分布、3-5月に白い花を一面につけるということです。

帰りの飛行機の機内食、チキンライス。
2015年台湾の旅を終わります。
夕食の後、台湾最高層の有名スポット「台北101」に行きました。
101という名前は地上101階建てから付けられた名前です。


タワーの夜景。

高さ508m、地上89階の室内展望台へは5階から高速エレベーターで37秒で到着します。
が、しかし、エレベーターに乗る前に長い行列、降りてくるにも長い行列らしいので、ここで諦めて、他の人が降りてくるまで待つことにしました。
台湾の名産品などの展示を見て待ちました。
その後、500円増しのオプションで足裏マッサージのお店に。

お見苦しい絵、ご容赦を。
30分間で足湯と足裏のツボをマッサージしてもらいました。他に肩とか全身のコースもあります。体内の老廃物を出して、内分泌のバランス増進、新陳代謝効果を上げて美容・健康増進に役立つそうです。食べすぎの旅の疲れが取れたような気がしました。
お店には漢方薬もたくさん売っていました。
2015年台湾旅行(12)に続く。

故宮博物院から台北東部に帰ってきて、グルメとおしゃれの街・永康街を散策、

途中フルーツかき氷のお店に寄りました。
ふわふわの氷にフルーツ、白玉、芋類、ピーナッツなど、いろいろなトッピングを選ぶことができます。

マンゴーかき氷。

続いて、永康街入口にある小籠包のお店「鼎泰豊本店」で夕食を食べました。

小籠包、粉末茶葉入りの餃子、エビ入り焼売などの点心が次々出てきます。小籠包は食べ放題、と言ってもおかわりが1回、好きな個数注文できました。

アツアツの肉汁がじゅわーと出てとてもおいしかったけれど、こうたて続けだととてもそんなにたくさん食べれるものではありません。
もうお腹ぱんぱん。
2015年台湾旅行(11)に続く。

総統府は車から降りて遠くから眺めました。

1919(大正8)年竣工の旧台湾総督府庁舎で、現在も中華民国総統府として行政の中心になっています。
設計は長野宇平治。ルネサンス様式、中央塔の高さは60mもあります。
台湾総督府は、1895(明治28)年から1945(昭和20)年までの日本統治時代、行政・司法・立法から軍事まで一手に掌握し、「飴と鞭」の政策で台湾を支配したシンボル的建造物です。
台湾各地には日本統治時代の建物がたくさん残されていますが、今回はわずかな建物を車窓から見ることしかできませんでした。

台大医院旧館(旧台北帝国大学医学部附属医院、1924(大正14)年竣工)の一部かなと思う建物。そのメインの姿はこちらに。

総統府の近くに広い敷地に緑の広がる公園があり、二二八和平公園となっています。
二二八事件は、終戦後台湾に進駐した国民党軍の横暴に抗議した台湾人を弾圧した事件で、戒厳令の敷かれた台湾では長く伏せられていましたが、台湾映画「悲情城市」で描かれたことで世界に知られるようになりました。
公園は二二八事件50周年を記念して改名され、事件の紹介と犠牲者の遺留品などが展示されている二二八記念館や、二二八記念塔があります。

旧日本芳醸株式会社。
1914(大正3)年に資本家の安部幸之助が130万円を投資して台北市三板橋庄大竹圍に土地を購入し、造酒工場、貯蔵庫、事務所が建設され、翌年に日本芳醸株式会社(芳醸社)という名の酒造工場となり、焼酎・台湾地酒が造られていました。
1931(昭和6)年には高さ50mの煙突が完成し、現在は産業遺産として史蹟指定されています。
終戦後、中華民国政府に接収されましたが、1987年に工場設備全体が台北郊外の林口工業団地に移転した為に、荒廃していました。
1999年全面修復後、旧工場区と公園区をあわせ「華山1914芸術の街創意文化園区」として、芸術家の創作・展示空間として開放され、他にピザハウスや台湾料理の飲食店もあります。
これも車窓から見ただけですが、若い人達がたくさん散策しているのが見えました。

続いて車でしばらく走り、かの有名な国立故宮博物院に行きました。
第二次世界大戦後、国共内戦が激化、形勢が不利になったため、中華民国政府は1948年の秋に、清朝王室が所蔵していた中華の至宝の第一級所蔵品を故宮博物院から精選(2,972箱に及ぶ約3割)して台北へと運びました。中華歴代王朝の至宝を総計65万4500件所蔵、中華民国政府は台北の外双渓に新館を建設し、1965年に一般公開、約2万件を常設展示しています。

殷代からの青銅器、陶磁器、玉、書画とお宝の数々は垂涎の逸品ばかりが溢れていましたが、館内はものすごくたくさんの人で、あちこちで行列が渋滞していて全部詳しく見ることはできません。
特に、あの有名な翠玉白菜などは部屋に入るだけで何十分も待たねばならず、展示ケースの前では立ち止まらずに進んで見なければなりませんでした。
ガイドさんについて1時間30分見学、その後自由に散策30分でおみやげなどを物色しました。
2015年台湾旅行(10)に続く。
昼前のおやつに伝統的なスイーツ、豆花(トウホア)をいただきました。

お店の名前は「豆花荘」。

豆乳とにがりを混ぜて作る豆腐デザートですが、甘さは控え目、柔らかいプリンのような食感です。小豆やタロイモ、タピオカなどいろんなトッピングを添えて食べます。

街中を少し走って、

もう昼食です。
「金品牛肉麺」にて、牛肉麺(ニウロウミエン)をいただきました。コクのあるスープ、太目の麺に牛肉がたっぷりのっていますが、少々からかったです。
これに餃子と小鉢二種もついていて、次々食べてもうお腹いっぱいです。
2015年台湾旅行(9)に続く。

迪化街の中心部に道教の廟「霞海城隍廟」があります。良縁をもたらすという「月下老人」が祀られていて、女性に大人気です。
城隍廟はあちこちに何ヶ所もありますが、ここは特に有名で、日本からの観光客もたくさん訪れるところです。


月下老人の他に、城隍爺、城隍夫人、義勇公、観音菩薩などたくさん祀られています。

お供えセットを買って線香に火をつけ、心をこめてお祈りしてきました。

外の通りでは賑やかに鳴り物が鳴って、蛇踊りが演じられていました。町内を練って帰ってきた所です。
2015年台湾旅行(8)に続く。
台湾の旅2日目です。

マイクロバスの窓から台北駅が見えました。
地下4階、地上6階建ての中国宮殿様式の駅舎です。

こんな門もありました。
かつてあった台北城の門のひとつ、小南門(正式名称:重熙門)で、1879年から1884年にかけて建設され、第二次世界大戦後、国民党政府により現在の姿に立て替えられました。他の北門、城南門、東門とともに国の第一級古蹟として認定されています。

やがて、市の西部、淡水河近くにある迪化街に着きました。
カラスミやフカヒレなどの乾物、茶葉、漢方薬、ドライフルーツなどを売る問屋が並んでいます。
この辺りは、18世紀末から水運基地として発達し、19世紀中頃からは商館や倉庫が並び、日本統治時代には台湾随一の商業の中心地となりました。
現在の建物は19世紀末期に造営され、1920年代に改築されたものが多く、バロック風の装飾をつけたものが目だっています。


店の前は二階が張り出したアーケード通路になっていて、商品がはみ出して積み上げられ、売られています。急な雨の多い台湾ではこういう造りが好都合なのです。

左の大きな建物は、100軒もの店が並ぶ最大級の布市場「永楽市場」で、2階で布を買って3階の仕立て屋でチャイナドレスなどがオーダーメードできます。


20世紀初頭のレンガ造りの建物、商店、住居、作業場、倉庫などを兼ねて細長い敷地に建てられています。
どこか懐かしい雰囲気があふれている、テーマパークのようなおもしろい街でした。
2015年台湾旅行(7)に続く。
九份から台北市街に帰ってきて、夜も更けて、怒涛の台湾お夜食の時間です。
台湾の人は外食が多く、夜も夕食の後、夜食を食べに出かけて夜更かしし、翌朝は朝寝坊、商店や会社の始まるのも遅いのが普通なのだそうです。

割包(グワパオ)とは、台湾風のハンバーガーで、蒸した白いパンのような中に角煮牛肉、高菜、ピーナッツの粉、香菜が入っています。石家割包(シージャーグワパオ)は割包の老舗で、本店と支店があります。

目の前で作ってもらって、持ち帰りましたが、1個でもかなりの大きさで、とても食べきれず、翌日に残しました。

お店の前のアーケードのような通路に椅子とテーブルがあって、そこで食べることもできるようです。

次に士林夜市に出かけました。
台北市の北部にある夜市で、夕方になると常設のお店の前などの路上に飲食物や衣料品、雑貨、遊戯などの様々な屋台が出店し、多くの人で賑わうところです。若い人もたくさん集まっています。

氷あずきのような食べ物。

大きな映画館もありました。

夜市をぶらぶら歩いた後、かき氷のお店「辛發亭」に入りました。ここは屋台ではなく、常設のお店です。
いろんな味のかき氷を食べ比べました。台湾の氷は日本のようなサクサクではなく、細かくふわふわの口触りです。
なんと夜11時近くになってのお夜食です。士林の町にはまだまだたくさんの人があふれていました。台湾人の胃袋恐るべし!

お泊りはゴールデンチャイナホテル(康華大飯店)でした。
2015年台湾旅行(6)に続く。
九份の町の一番賑やかな場所に昔営業していた映画館があります。


「昇平戯院」です。
1934(昭和9)年に一階は石造、二階は木造で建てられた映画館で、最初は日本風に「昇平座」という名前でした。1951(民国40)年に「昇平戯院」と改名され、また1962(民国51)年に再建・改修され、二階は防音・断熱効果のある空心レンガで壁面を覆いました。
表の館名表示の「戯院」の下に「座」という字がうっすらと見えます。
金鉱の最盛期には、台湾オペラ・映画・新劇・布袋戯(台湾伝統人形劇)などの各種演目が毎月目白押しで、1000人もの観客を収容したといわれます。1970年代以降、九份の金鉱採掘が衰退に向かうと、人口も減少し、軽便鉄道のレールも撤去され、1986(民国75)年についに閉館となりました。その後廃墟のようになっていましたが、2010(民国99)年10月、修復・補強工事を経て1962年当時の姿に復原されました。現在では「新北市立黄金博物館」が運営と管理に当たり、九份の歴史を紹介するドキュメンタリー映像やレトロな映画の上映を行う無料シアターとなり、観光客も自由に見学することができます。

切符売場。1日4回上映していたのがわかります。

上映していた映画のポスターなどが貼られていて、日本映画もたくさんありました。


二階席もあります。

上映に使われた機械です。

売店もありました。

なつかしい昭和の名画座を訪ねたような感覚を覚えました。
2015年台湾旅行(5)に続く。
台北から東北方向へ、マイクロバス→路線バスと乗り継いで、およそ90分で九份(きゅうふん、チウフェン)に着きました。九份では土日は交通規制があるため、マイクロバスから路線バスに乗換えなければなりませんでした。
この辺りは台湾の一番東北角にあたる地点で、1890年に金鉱が発見され、東洋随一の鉱山として賑わいました。戦後は金鉱が閉山し、一気に衰退しましたが、そのため古い時代の雰囲気がそのまま残り、芸術家達が集まり、創作活動をしたり、観光客が集まるようになり、人気が出てきました。

駐車場からしばらく歩いた道は、昔金鉱石を運ぶトロッコが走った線路の跡で、軽便路と呼ばれる道でした。

やがて、海の見える高台にやってきました。湾の向こう側に昔からの港町、基隆(キールン)があり、東方の海のかなたには日本の南西諸島があります。

急斜面に家が貼りついて建っている山の様子、

日が暮れると、このように美しい夜景が見られるようになります。

おおっ!これぞまさしく台湾観光のハイライト、九份の夜景です。
正面は「阿妹(アメ)茶楼」。「千と千尋の神隠し」の湯婆ーばの館のモデルと間違えられる風景です。

狭くて急な石段の両側にお店が並んでいます。この石段の辺りが九份観光の中心地で、狭い道は行きかう人で渋滞しています。

石段の右側の家の一階は昔風靴屋さん、二階のお店は、

台湾映画「悲情城市」に「黄金酒家」として出ていたお店で、今は「悲情城市」という名前に変わっていて、そこで韓国ドラマ「オンエアー」も撮影されたそうです。

三階建てのレストラン「九戸茶語」。ここも「オンエアー」のロケ地です。


石段を上がって直角に交わる狭い通路は、両側に食堂やお土産屋や占いや、様々なお店がごちゃごちゃと並んでいて、基山街と言います。

臭豆腐が売られていましたが、ものすごく臭くて、とても食べられそうにありませんでした。

階段の上から見下ろしたところ。

階段の石段に嵌め込まれていた道案内のプレート。
「台陽礦業所九份派出所」「五番坑口 頌徳公園」「城隍廟 汽車路」などの文字が見えます。「汽車」は自動車のことで、「汽車路」は石段の下にある幅の広い道路の名前です。

金を採鉱していた時の様子を表す像がありました。
石段の横の見晴らしのよいレストラン「海悦楼」で台湾郷土料理の夕食をいただきました。

くらげ料理。

台湾ビールも。
2015年台湾旅行(4)へ続く。

この巨大な建物は蒋介石を記念して建てられたメモリアルホール「中正記念堂」です。
年中無休で無料です。


巨大な蒋介石像。

前の広場はイベント会場として使用され、右に音楽ホール、左に劇場があります。

広い敷地の向こう側はビル街です。
次に連れて行ってもらったのは、台湾茶セミナー。

干した果物などのお菓子をいただき、

目の前で台湾茶を淹れてもらい、いただきました。

香りのよい烏龍茶を味わえて、よい体験になりましたが、ビルの地下にあるショッピングのためのお店のようで、わけもわからないままに終わりました。
2015年台湾旅行(3)に続く。