5月13日、「中山道と近江商人を訪ねるドライブ」に行きました。
乗せてもらって行くドライブなので、どこをどう走っているのか詳しくはよくわからないうちに、彦根を通ってまもなく、旧中山道らしき道に入り、古い家並みや松並木のある街道を走って、やがて着いたのは、高宮の宿から間(あい)の宿。
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あたりにはあちこちに中山道の名残を残す遺跡が残されていました。
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その近くにあったのは、丸紅創始者伊藤忠兵衛の旧家。
見越しの松に黒塀の家です。
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記念館となって公開されていますが、あいにく日曜日は休館でした。
伊藤忠兵衛は、滋賀県犬上郡豊郷町に生まれ、1858(安政5)年に近江麻布の持下り行商を始めたので、この年が丸紅の創業の年となっています。
明治になって、大阪に店を構え、店の暖簾に丸の中に「紅」と記したので、社名を「丸紅」というようになりました。
大正、昭和と幅広く事業を拡大し、やがて丸紅と伊藤忠商事の両社へと発展していくのです。
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その近くに広大な空き地があり、「くれない園」という名で伊藤忠兵衛の顕彰碑が立てられています。
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隣に忠兵衛の兄、長兵衛の屋敷跡もあります。
長兵衛も呉服卸商から財をなし、豊郷病院創設に資金援助をしています。
豊郷町の旧中山道沿いの地に、天秤棒をかついで行商をしていた近江商人から現代の総合商社へ、大躍進を遂げた丸紅のルーツをほんの少し垣間見ることができました。
丸紅の沿革について詳しくはこちらに。
明治3年(1870)「紅長」伊藤長兵衛の死後6代長兵衛(忠兵衛の兄)は、本家の地場小売商合廃業により忠兵衛の持下り商合に加ったが、待遇が不満で「紅屋長兵衛」の家号一本で持下り商合を始めるも、うまく行かず、明治3年長兵衛の申出により、身代・屋号を旧に戻し兄弟は独立して営業することになった。伊藤長兵衛商店、馬関・北九州を得意場とする持下り商を進める。
明治5年(1872)伊藤忠兵衛、本家と得意場(商圏)の分割を行う。伊藤長兵衛は、京都に店舗開設、博多に呉服卸商(○に千)伊藤長兵衛商店を開設、販路を韓国方面まで拡げる。
明治11年(1878)伊藤長兵衛商店、京都に仕入店として(○に千)京店を設けた。
と、こんなん出ました。
長兵衛さんと忠兵衛さん、それぞれ商いの仕方がちょっと違ったのでしょうか。競い合ったのでしょうか。
兄弟といえども、商いの道は厳しいですよね。