近江商人を訪ねる旅、次に訪ねたのは東近江市小田苅町にある「近江商人郷土館」。
元は豪商小林吟右衛門の店舗と屋敷だったのを財団法人にして公開し、商用具、家具、古文書等を展示しています。
入館料 大人500円(資料館、生活館両方見れます)
開館10時~16時
月曜、12月~2月休館
蔵を利用した資料館。
昔のお店の様子を再現したところ。
「小林」の名前入り千両箱があります。
商いの旅に使った道中合羽と天秤棒、帳面類・看板その他の商用具類が展示されています。
小林家がシンボルとしたのは香辛料の丁子、このマークがいろいろなところに使われています。
丁子屋林吟右衛門から「ちょうぎん」と号し、やがてチョーギン株式会社に発展しました。
元は1798(寛政10)年に創業、織物卸業、金融業を江戸、大阪、京で営み、伊井家御用達となり、苗字帯刀を許され、伊井家の本陣ともなりました。
幕末には、桜田門外の変の様子を江戸店から京店に連絡し、伊井家にも知らせた文書が残っています。
小林家は河川、道路などの公共事業や教育、福祉などへの貢献も努め、明治になってからは近江鉄道の計画にも参与し、その資料も展示されています。
何棟もの大きな蔵と屋敷が軒を連ねています。
近江商人恐るべし! スケールの大きさにびっくりしました。
面白そうなものを拾うと、
文化1年(1804)丁吟初代となる吟次郎が、本家兄源左衛門から田畑、山林得意先への売掛金を分与されて分家独立した(菅笠販売を生業とし、蓑笠、紅猪口を行商していたという)
天保2年(1831)小林吟右衛門(2代)、32歳で約1万両の元手金をもって江戸堀留町2町目に江戸店開設、呉服太物を商い、家号を丁子屋吟次郎と称する。行商から店舗営業に移行し、先進の問屋株仲間に伍して独自の商策により、関東・奥羽・松前まで商圏を広めた。
寛政8~文政12年(1796~1829)丁吟のこの期間の店卸勘定を整理すると、寛政8年の純資産は13両余り。文政12年は5600両余り。経営資本の不足分は、血縁者などからの比較的低利や無利子での借入金で調達されていた。
安政3年(1856)小林吟右衛門家では彦根藩への調達金2500両を江戸で納めた。安政5年京店では彦根藩調達金1500両を納付。安政7年江戸店は、井伊直弼暗殺により、彦根藩からの再三の急な調達金要請で、4日間で5020両を納付し、営業を自粛した。慶応1年桜田門外の変の不首尾を理由に、井伊家は10万石の上地となり、小田刈は幕府直轄領となった。これにより、丁吟と彦根藩の関係は断ち切られた。
安政3年(1856)小林吟右衛門家江戸店では、社会情勢が不安定になっているので、商いの現金取引を励行している。
文久・元治頃(1861~1864)小林吟右衛門江戸店、貧民徒党に白昼強奪を受ける。文久3年(1863)洋反物を商う小林吟右衛門家は、文久3年9月より外国貿易中止を要請されていたが、後志士浪人の目を眩ますため、店名を三文字屋萬次郎又は沢田政七等と改称して営業を続けた。10月当家の手代吉兵衛、志士浪人に天誅を加えられ、店頭の商品を強奪された
こんなのがありました。
面白くて長くなりました。スミマセン
天保12年(1841)薩摩治兵衛(豊郷四十九院で天保2年生)、10歳で江戸に出て、商家(小林吟右衛門)に奉公
慶応3年(1867)この年薩摩治兵衛が丁吟の別家となる(弘化4年入勤)。丁吟から別家開店祝儀として、暖簾・たばこ盆3つ(1両2歩)・そろばん3挺(72匁)
薩摩治兵衛ってパリで有名だったバロン薩摩の関係者でしょうね、きっと。
天誅された事件の文書も展示されていましたが、天誅に名を借りた物盗りだったのではないかという説明文が書かれていました。
桜田門外の変以後幕府直轄領になったのは知りませんでした。
美っちゃんさんはここには行かれましかた?
近江商人を知るには絶対はずせない場所ですね。
是非行きたいですね。
丁吟の154件よりすごいのは、中井源左衛門274件、外村家210件(与左衛門家105件・宇兵衛家80件)、西川419件などです。
北海道の場所請負をしていた藤野家〔屋印・又十(またじゅう)〕はなんと510件。しかしこれは北海道の市町村史の数が非常に多く、比較的よく採録したと最初の北海道開拓者たちですから市町村史にデータが多く掲載されてただけです。