読書自体が苦痛だった。
そもそも、日本の文学で満足しないで、世界の最果ての文学を読んでみたいという発想で、選んだのが本書である。デヴィッド・ボウイをはじめ、アンダーグラウンドな精神を持ったミュージシャンたちからも評価が高く、とにかくブッ飛んでいることで有名な、ウィリアム・バロウズ、1959年の著である。購入して10ページくらい読んだが、もう無理だと思って放置していた。それから、1年くらい経ってから、とにかく最後まで読んでみようという強い意志を持って、1カ月半くらいかけてなんとか読み切った。しかし、しんどかった。読んで何か自分の役に立つとはとうてい思えない。読むことが時間の無駄だとしか感じられない。それくらい、マイナス側に振り切れた本だと言えるかもしれない。
内容は、ジャンキーのドラッグ摂取と中毒、売人、ホモ行為、人間の悪意、人種差別、愉快殺人、汚物、そうしたものが配された支離滅裂で悪ふざけなストーリーがぶつ切れに並べられた小説である。米国の怪奇的なアングラ映画に近い世界かもしれない。しかし、まだそうした映画のほうがまともで優しいものである。
私はそのような感想しか持てなかったので、名の通った評論家によるあとがきから講評を引用しておく。
まずは、訳者である鮎川信夫氏によって1965年に書かれたあとがきから:『バロウズの作品は現代世界文学の最前衛における台風の目のような存在になってきている。その彼も、「裸のランチ」が出版されるまでは、英米読書界の一部をのぞいてそれほど知られていなかったのであるから、本書の出現は大きな文学的事件として記憶されるに足るものと言えるだろう。・・・いかなる人間もジャンキーと変わりないものだという認識は、現実を回避したがる多くの人びとに嫌悪を催させ、身慄いさせるかもしれない。・・・いずれにしてもバロウズが自分の感覚の前にあるものとして再現してみせたものは、すぐれた幻視者にとってのみ見ることの可能な現代の地獄図なのである。』
つぎに、山形浩生氏による1992年の解説から:『原著の刊行からほぼ30年がたった現在、本書はすでに20世紀の古典としての地位を確立している。かつては単なるきわもの的な部分ばかりがとり沙汰されていたが、そうした部分の衝撃性が相対的に薄れ、カットアップや折り込みという技法への過度の期待もやっと沈静化した今日「裸のランチ」を筆頭とするバロウズの世界そのものに対する共感なり反発なりが、ようやく表面に出てきているのだ。・・・視覚的であるよりは聴覚/嗅覚/触覚的、具体的であるよりは抽象的な世界。人間関係の構造だけが顕在化した、まるで神話のような世界。』
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