子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「buy a suit スーツを買う」:揺るがなかった世界を見つめる眼

2009年10月13日 20時40分34秒 | 映画(新作レヴュー)
「この世界は過酷で,生きていくことは大変な仕事だ」。
チラシには「市川準監督,最初で最後のプライベートフィルム」と書かれているが,この小さな作品に込められたそんな思いは「病院で死ぬということ」や「大阪物語」など,死を扱ってきた諸作に通底するものだった。街の喧噪に邪魔されて,おぼろげにしか聞こえてこない台詞に耳をそばだてているうちに,観客はいつの間にか小さな声だけが持つ真実の響きに共鳴していく。

音信不通になっていたらしい兄を訪ねて,関西から初めて上京してきた若い女が,兄の大学での後輩と会って兄宛の手紙を受け取る。女は兄を訪ねて行き,彼がホームレスになっていたことを知る。兄の生活を立て直すべく,元妻と引き合わせるが,二人は元の鞘には収まらない。
市川のCMの仕事仲間によって演じられたこの半日の出来事を,ヴィデオによる47分間の中編,というフォーマットにまとめた作品が,昨年急逝した市川準監督の遺作となった。

チラシには「HDcam」と記載されてはいるものの,実際はかなり粒子の粗いヴィデオ画面は,私達が住む現代の日本の肌触りのようなものを生で伝える役割を果たしている。
一方で,東京の中でも秋葉原と吾妻橋という,そこに暮らす人間の体温が傍からでも感じられる街を舞台としながらも,敢えて人を寄せ付けない都会の厳しさが前面に出てくるような結末としたところに,市川準という人の本質があるような気がする。

フィルモグラフィーの中に,大ヒットと呼べるような作品はなかったはずだが,それでもこれだけ多くの作品を残せたのは,市川作品に共通する,人が生きることの寂しさのような感触を共有できる人たちが,多くはなくとも一定数存在したことの証だ。
エンターテインメントに仕立て上げられる題材を選び,その技術も持っていた市川に,そういった方向に動かなかった理由を尋ねたならば,この作品で主人公が妹から「何でこんな生活になったん?」と問いかけられた時の答をそのまま返されるかもしれない。「そんなん,エディット・ピアフに,何でシャンソン歌うのかと訊くようなもんちゃう?」。
最後まで作家魂を貫いた市川準に,改めて合掌。
★★★☆
(★★★★★が最高)


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