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映画「クローバーフィールド」:これが「グエムル-漢江の怪物-」に対するハリウッドの返答なのか?

2008年04月06日 23時09分31秒 | 映画(新作レヴュー)
「ブレアウィッチ・プロジェクト」で使われた,ヴィデオカメラに残された映像記録の再生,という手法を再利用して作られた,話題の怪獣映画。どうしてもアイデア自体に使い古し感が漂うにも関わらず,あえて制約の多いフォーマットに挑んだ制作陣には,映像の斬新さで勝負できるという目算があったのだろう。
しかし致命的な脆弱さを抱えた脚本と,「自由の女神像」の頭部が飛んでくる予告編以上に迫力のある絵に乏しく,ひたすらぶれ続ける映像には,「グエムル-漢江の怪物-」を凌駕しようというような高い志を感じることは出来なかった。
これなら,悪評紛々だったローランド・エメリッヒ版「ゴジラ」が相手でも,僅差の勝負になってしまうかもしれない。

やはり作品の肝は,脚本だったと思う。起こっている事件に関する情報がヴィデオカメラのフレームに入る映像しかない,という切羽詰まった状況下で,未知の何者かから如何に生き延びるかという,シンプルなストーリーこそが,この制約を逆手にとって恐怖を募らせる方法だったはずだ。
しかしそこに,導入部の冗長なパーティー場面から続く,主役の恋愛を絡めてしまったことによって,あれが何者なのか?という根源的な関心と恐怖が薄れてしまっている。未知の恐怖から生き延びることの重さを越えるような行動を話の主軸に据えるためには,「グエムル…」のような周到な仕掛けが欠かせなかったはずだ。

更に,途中で一行が「何物か」の幼虫のようなものに襲われるエピソードも,「何物か」の怖さを増幅させる方向には機能しない代わりに,「グエムル…」における病院での隔離騒動を想起させてしまい,観客に既視感しか与えない。
ヴィデオカメラに残された記録という制約を活かすようなストーリーという点でも,朝出発した場所と夕暮れに着いた場所が同じだったことを映し出すことによって,1日歩き回って結局振り出しに戻ってしまった恐怖を,多少なりとも味わわせた「ブレアウィッチ…」さえをも,越えることは出来ていない。

高層ビルが破壊されて傾き,隣のビルに寄りかかって立っている,という本来なら衝撃的な映像も,マンハッタンを跋扈する「何物か」と同様に,闇夜に紛れてしまい,衝撃を与えるような使われ方をしていない。実際,メタファーとしての「9.11」を押しのけるような力を持った映像は,「何物か」の姿が明らかになる最後の映像を除けば,冒頭に記した像の頭部が飛んでくるショットと,最初の爆発を捉えたロングショットだけ,というのはいただけない。
確かに,最後に明らかになる「何物か」の造形と,それがヴィデオを覗き込むショットの力強さは出色だが,それだけでは結局初代「ゴジラ」が目指した,観客にショックを与えるための方法論との間に,何らかの違いを見出すことは難しい。
既に続編の制作が決まったようだが,次作では是非とも「ゴジラ」の出現以来の,半世紀の歩みを感じさせるようなアプローチを期待したい。


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