子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「ザ・シークレットマン」:ディープ・スロートの苦悩

2018年03月11日 19時55分14秒 | 映画(新作レヴュー)
フライヤーの上部に「『96時間』シリーズ 主演リーアム・ニーソン」とぶち抜かれた上に,タイトルが「ザ・シークレットマン」とくれば,政府の暗部と身体を張って闘うスーパー・エージェントのアクションを想起した人は多かろう。私もその一人だった。しかし本作のニーソンは家族を守るため,飛び交う銃弾をかいくぐって,相手の脳天に空手チョップを見舞う代わりに,ワシントン・ポストの記者に政府の陰謀を囁く。地味といえばこれ以上ないほど地味なアクションなのだが,その囁き声は後々ニクソンを退陣に追い込むほどの破壊力を持った一撃となる。そう「ザ・シークレットマン」は,原題「MARK FELT」が示すように,ウォーターゲート事件の情報提供者「ディープ・スロート」こと,FBI副長官マーク・フェルトを描いた実話の映画化作品なのだった。

邦題と原題に大きな相違が見られるケースのうち,そのほとんどは恣意的な,一定のファンに錯誤を生じさせることを狙ったものだと私は考えているのだが,「ザ・シークレットマン」の場合は「96時間」ファンを狙って,「96時間」ファンとはまったく重ならないコアな「ノン・フィクション」追求派の動員を逃す,という失策を犯してしまったのでは,と危惧している。もしこの作品の内容が事実に即したものであるならば,「大統領の陰謀」に拍手した知識層は,その認識のかなりの部分を書き換えなければならなくなる。何故なら,同作でロバート・レッドフォードが演じたワシントン・ポストの熱血記者ウッドワードは,危険を顧みずに行った自発的な取材の成果ではなく,フェルトから直接伝えられた情報をただ文字に起こすという行為によって,事件の核心を炙り出したに過ぎなくなってしまうのだから。

そんな,FBI内部の権力闘争を利用しようとする政権側との駆け引きも含めて,描きようによってはかなりスリリングな政治劇になり得た題材なのだが,残念ながら映画としては極めて凡庸な出来に留まってしまった。
監督のピーター・ランデズマンの前作「パークランド ケネディ暗殺,真実の4日間」も,新たな事実を拾い集めて事件を再構築しようとする野心的な試みだったが,やはり平板な事実羅列で終わってしまったのと同じ轍を,本作でもまた踏んでいる。歴史の検証劇において重要な役割を果たす「人間の業」を,フェルトの出世欲と組織への忠誠のみに収斂させるだけでは,ドラマとしての深みは出なかった。何より政治スリラーの4番打者ブルース・グリーンウッドを使い切れなかったのが最大の失点か。
★★☆
(★★★★★が最高)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。