子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「昭和八十四年」:カメラは不屈の魂を切り取ることが出来たのか?

2011年12月26日 20時57分33秒 | 映画(新作レヴュー)
大正生まれ。「大東亜戦争」においてニューギニアで行った行為により「巣鴨プリズン」に収監される。釈放後結婚して子供をもうけるが,二人目の子供(長男)が母親がつわりを軽減するために飲んだサリドマイドの影響で,両腕に障害を持って生まれてくる。国と製薬会社を相手に起こした薬害訴訟の事務局長として,被害者の意見調整と被告側との協議に奔走し,ついには和解を勝ち取る。しかし成長して結婚した長男とはささいな諍いから往き来を断つうちに,C型肝炎(死後に判明)で長男を失ってしまう。そんな境遇の中,86歳(撮影当時)にして福祉協会の理事職を務めながら,BC級戦犯の一人として戦争の実態を後世に残すべく今も執筆活動に勤しむ。
「1億3千万分の1の覚え書き」という映画の副題のとおり,歴史に名を刻むような著名人ではないにも拘わらず,昭和のど真ん中を信念を貫き通して生きた(ている)飯田進さんを描いたドキュメンタリーだ。

映画の終盤で,飯田さんの娘が「とにかく家では怖い人だった」と語るのが嘘のように,飯田さんは怒濤の人生を静かに,穏やかに,淡々と語る。
ニューギニアで実際に起こったこと,獄中の活動,長男への想い,おそらくは戦争時から続いていたのであろう薬害訴訟における国との闘い。語り続けるうちに,当時の生々しい感触が胸に去来したことは間違いないはずなのに,感情の高ぶりを抑えて事実を咀嚼しながらゆっくりと話す飯田さんの語り口は,そんな過酷な歴史に縁遠い私をも強く静かに揺さぶる。

だがドキュメンタリーの対象となる人や事件の印象や大きさと,それを伝える媒体である「映画作品」としての評価は全く別物だ。
ひたすら同じアングルで飯田さんを捉え続けるだけで,何の工夫も感じられないキャメラ・ワーク。語りに被せる写真や資料の乏しさ。映画の冒頭に出てくる,巣鴨プリズンの研究をしているという女子大学院生の論文を読んだ飯田さんの感想が,結局最後まで語られないという構成。
物語を観客の心のより深い場所に語りかけるための努力は,ほとんど何もなされないに等しい。
観客を素材へ「惹きつける」ために,作り手がマイケル・ムーアのように自ら前に出てくる,もしくはエンターテインメントとして重層的に立ち上げる必要があるかどうかは疑問だが,ドキュメンタリーとして対象に迫る基本的な姿勢の部分で,あまりにナイーブ,悪く言えば粗雑な印象は免れない。
羽田澄子さん,それに今は大学の教師として後輩を指導する立場にあるという原一男「先生」,完成度はともかく,皆さんを越えんと奮闘する軌跡が窺えるような作品を観たいのですが…。
★★
(★★★★★が最高)


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