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映画「へルタースケルター」:「本物の女優誕生!」と持ち上げるマスコミの見識を本気で疑う

2012年09月22日 16時41分50秒 | 映画(新作レヴュー)
話題の女優,沢尻エリカをこれまでスクリーンで観たことはなかった。デビュー当初にTVドラマの難病ものに出ていたのを拾い見していたくらいで,私の印象は絶世の美少女ではあるのだろうが,女優としてはこじんまりとまとまった標準レベル,という程度のものだった。TV放送された「パッチギ!」を観た時も,世評ほどに才能があるという感想は浮かばなかった。だから,例の映画の公開挨拶における「別に…」発言でワイドショーを騒がせた時も,「へぇー」と一言口に出しただけで(勿論,実際に発声はしなかったのだが),その後の離婚騒動もワイドショーでやっているのを完全な傍観者的態度でちらちらと眺めるだけだった。
そういう訳で,いまだに彼女が離婚できたのかどうかも正確なところは知らないまま,初めて大スクリーンで彼女の裸身と対面した。

初めてと言えば,監督である蜷川実花の作品に接するのも,これが初めてだった。写真家から映画監督への転身というと,古くは「スケアクロウ」のジェリー・シャッツバーグ,最近では「コントロール」や「ラスト・ターゲット」のアントン・コービンが思い浮かぶが,蜷川の映画面での才能は,これらの先達に比べると残念ながら「トラバーユ」(もはや死語か?)は大失敗,と言わざるを得ないレヴェルのものだった。

写真家としての本領を発揮しようと意気込んだはずの冒頭のフラッシュバックからして,複数のカットがつなぎ合わされて生み出されるはずのリズムが皆無で,フラッシュバック自体の長さも冗長としか言いようがなく,のっけから観客は監督の小手先だけの映像感覚に2時間余付き合わされる覚悟を求められることになる。
脚本の責任も重い登場人物の平板な性格描写や,大森南朋扮する検事の部屋のつくりに象徴される,リアリティを端から放棄したような粗雑な美術には目を瞑ったとしても,動く被写体を捉えたショットの連続が紡ぎ出す呼吸のようなものには頓着しない演出は,私の忍耐の限度を超えるものだった。

沢尻エリカは,演出の拙さを考慮しても,お世辞にも「女優」と呼べるような技術はなかった。一本調子の台詞回しには,このヒロインにこそ必要な微妙なニュアンスはどこにも見当たらない。確かに身体は美しかったが,脱いだという行為がマスコミにここまで評価されるのであれば,彼女の倍近い年齢にも拘わらず,身体の線の崩れもお構いなく堂々と裸になり続けるジュリアン・ムーアやケイト・ウィンスレットなどには,毎回アカデミー賞を贈らなければならなくなるだろう。

ただ,主人公をきちんと描けなかったとしても,今話題の「整形」を掘り下げることで,社会派ドラマとして作品を成り立たせる逃げ道はあったはず。それでも監督がショットの表面的な美しさにこだわり,寺島しのぶを使い捨てた時点で,ドラマの骨格はりりこの身体よりも素速く崩壊したのだった。

(★★★★★が最高)


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