5月26日放送のNHK「歴史探偵」は1867年のパリ万博だった。
慶応3年、幕府の権威がダダ下がり真っ只中のなか、今一度徳川幕府こそが日本唯一の政権であることを世界に知らしめるため、そして日本は欧米列強に負けない文明、文化がある国であることをアピールするため、パリ万博へ出展することになったのだった。
結果として、欧米に負けない文明、文化のある国であるアピールは成功する。
実際、日本のパビリオンは大人気で、ジャポニスムブームの火付け役となる。
しかし徳川幕府ここにあり、というアピールは失敗に終わる。
なぜなら、薩摩藩が薩摩琉球国として、まるで一個の独立国家であるようなイメージを持たれてしまうのである。
このときの幕府側の関係者に渋沢栄一もいたらしい。
万博が終わってからもしばらくパリに滞在していた栄一たちだが、日本国内では大政奉還が行われるなど混乱が極まり、仕送りもなくなり資金が底をついたという。
そのため資金繰りに奔走し、すでにこのとき商才を発揮している。
結局、栄一たちが帰国したころにはすでに徳川幕府はなくなっており、最後の将軍である徳川慶喜は謹慎していた。
幕府の命運をかけた渡仏だったのに叶わなかったわけだが、そのかわりヨーロッパ文明を目の当たりにするというかけがえのない経験が、後に生かされることになったようだ。
慶応3年、幕府の権威がダダ下がり真っ只中のなか、今一度徳川幕府こそが日本唯一の政権であることを世界に知らしめるため、そして日本は欧米列強に負けない文明、文化がある国であることをアピールするため、パリ万博へ出展することになったのだった。
結果として、欧米に負けない文明、文化のある国であるアピールは成功する。
実際、日本のパビリオンは大人気で、ジャポニスムブームの火付け役となる。
しかし徳川幕府ここにあり、というアピールは失敗に終わる。
なぜなら、薩摩藩が薩摩琉球国として、まるで一個の独立国家であるようなイメージを持たれてしまうのである。
このときの幕府側の関係者に渋沢栄一もいたらしい。
万博が終わってからもしばらくパリに滞在していた栄一たちだが、日本国内では大政奉還が行われるなど混乱が極まり、仕送りもなくなり資金が底をついたという。
そのため資金繰りに奔走し、すでにこのとき商才を発揮している。
結局、栄一たちが帰国したころにはすでに徳川幕府はなくなっており、最後の将軍である徳川慶喜は謹慎していた。
幕府の命運をかけた渡仏だったのに叶わなかったわけだが、そのかわりヨーロッパ文明を目の当たりにするというかけがえのない経験が、後に生かされることになったようだ。