5月19日放送のNHK歴史探偵は、長篠の戦いの真相に迫るものだった。
長篠の戦いはご存知1577年、織田信長が武田勝頼を打ち破った戦いで、戦国最強を謳われた武田騎馬軍団を鉄砲隊が撃破した戦いとして有名である。
司馬遼太郎の「国盗り物語」では「世界史上初の鉄砲による一斉射撃が行われた」と書かれ、映画「影武者」ではまるで「長篠合戦図屏風」を実写化したみたいな合戦の様子が再現された。
その他、大河ドラマとかでもよく取り上げられる有名な戦いである。
ただしよく考えると、当時の火縄銃の射程距離、命中率、騎馬隊のスピードなどを考えると映画やドラマみたいな、一瞬にして騎馬軍団全滅みたいにはならないと思われる。
けっこう昔から専門家からは指摘されていて、おそらく司馬遼太郎も黒澤明もそんなことは百も承知だっただろう。
でも、戦国最強の軍団が新兵器の登場により、革命的に敗北する方がよほどドラマチックなので、新しい歴史の始まりを予感させる従来型のシーンを採用したと思われる。
ではまず従来型の定説をおさらいしておこう。
・信長は三段撃ち(一人目が狙って撃つ間に二人目と三人目は玉込めなどの準備をし、一人目が撃ったら速やかに後ろに下がって準備に入る。二人目が狙って撃つとまた後ろに下がり、三人目が撃つ、これを繰り返す)を考案し、鉄砲の効率の悪さを改善した
・武田勝頼は鉄砲を軽視し、騎馬軍団が最強だと信じて疑わなかった
・騎馬軍団は突撃してするたびに鉄砲隊になぎ倒されて全滅した
まず、当時の火縄銃は射程50メートル。
三段撃ちは二発目を打つまで20秒以上かかる。
また一斉射撃を行うには一番遅い人を待ってからでなければならず、時間がかかる。
対して騎馬軍団の速度は速く、射程の50メートルをわすが4秒で走る。
実際の合戦を想定してシミュレーションした結果、鉄砲隊は準備の出来た人から次々と撃っていくスタイルではなかったか?とされ、専門家の間にでもその説を推す人が多いらしい。
また武田勝頼は鉄砲の有効性を理解していて、ちゃんと武田軍にも1000人ほど鉄砲隊がいたという。
ただし弱点があり、地域的に鉛が入手困難だったため、玉の原料として銅銭を溶かして作っていたとされ、これだと生産力が大幅に悪いようだ。
また、合戦の直前に長篠城の戦いがあり、かなり玉の消耗があったとされ、鉄砲隊一人当たり50発くらいしかなかったという。
対して織田軍の鉄砲隊は、鉛の玉を一人当たり300発準備してあった。
織田軍の鉄砲隊は3000人、それぞれ300発づつ合計90万発に対し、武田軍は1000人50発合計5万発、この時点で大差がついていた。
さらに戦力でいうと、織田軍には徳川家康の軍もついていて合計3万8000人、兵数としては武田軍1万5000人の倍以上いたのだ。
つまり、戦う前から勝敗が決まってるようなものだったのだ。
実際の戦いは、両軍の鉄砲隊による撃ち合いから始まったとされる。
映画やドラマのようは広大な平原ではなく、川を挟んだ田園地帯で、攻め手である武田軍は街道沿いを中心に攻撃を行った。
劣勢の武田軍は想像以上に善戦していて、織田軍の被害も大きかった。
それでも武田軍が突破出来ないのは、実は織田軍は決戦前に夜戦築城を行っていたのだった。
川を堀代わりとし、騎馬軍団を防ぐ馬防柵を三重に張り巡らし、さらに馬防柵の前には逆茂木(切った木を設置して敵の侵入を防ぐもの)まで置かれていたのだ。
こうして午前6時頃から始まった戦いは午後2時頃に勝敗が決したのだった。