卒業式が終わって実質的にも春休みに入ったので、スウェーデンボルグについての20年にわたる霊界経験の日記をじっくり読もうと思った。
全十巻に及ぶ『霊界日記』は昭和55年に邦訳されている(柳瀬芳意訳 静思社)。
こういう大量の資料は、国会図書館で読むに限る。
ということで、国会図書館に行き、デジタル資料となっていたので、館内のパソコン画面でまずは第一巻を閲覧した。
眠気に堪えて読んだ結果、第二巻以降を読むことは取りやめ、これ以上彼に付き合うこともやめることにした。
なぜなら、第一巻で彼の霊界での具体的な経験を追っていたら、ヨーロッパ人以外のイスラム教徒やアフリカや西インド諸島の偶像崇拝者の霊界でのあり様までは普通に読めたが、それに続いて、なんと木星人が登場したのだ。
木星人は、地球人と同じ形態で、地球人より美しいという。
その木星人の記述がやたら長く、我慢の限界を超えたので読むのを放棄した。
これ以上の読書は時間の無駄だから(時間の無駄と思う行為は即刻中止すべき)。
第二巻以降、他の惑星人、月の住人も登場するはず。
18世紀は地動説に基づく太陽系についての知識は常識化していた(ただし木星の大気までの知識は無し)。
なので、この世と霊界を統べる”神メシア”(本書の表現)(=キリスト)は、リアルな意味で宇宙神でなくてはならない。
そのため、当時の視野でいうと太陽系の諸惑星にも神メシアの威光が届かなくてはならない。
なので木星人もキリスト教徒となるべきのだ。
そもそもスウェーデンボルグはいかにして霊界を経験したかというと、彼がいう「死の技術」、すなわち自分の霊を自分の体から離脱させるテクニック、いわゆる”幽体離脱”による。
彼によると、離脱した体が見えることがポイントで、慣れるにつれて霊界が徐々に見えてくるという。
これはすなわち彼が特殊な覚醒水準の状態(≒睡眠)になっている時の経験である。
実はスウェーデンボルグの霊界経験について、当時の大哲学者カントが論評している。
二人は奇しくも同世代でしかも同名(Immanuel)で、互いに活躍は耳にしていた。
カントは論評を著すに当たってスウェーデンボルグとの面会を打診したが、スウェーデンボルグの方で断ったという(彼はドイツ語は話せるが、彼の方でカントに会う意味を見出せなかったという)。
そのカントの論評を読むと、もって回った言い回しながら、スウェーデンボルグの霊界経験を夢想と解釈している。
なので論評のタイトルはズバリ『視霊者の夢』(金森誠也訳 講談社)。
これは霊視認現象についての現代科学での見方と同じ。
私の解釈は、いわゆるレム睡眠での夢の経験ではなく、もっと覚醒状態に近い意識的な空想に近いものだと思う。
なぜなら彼自身の意識レベルの価値(宗教)観が濃厚に投影されているから。
だから彼の意識にない、日本人や太陽系外の宇宙人は登場しない。
離脱を伴う状態では、夢のように身体ごと空想の世界に入ることができたのだろう。
これは離脱経験固有の状態といえる。
言い換えると、私が研究対象としている通常の覚醒時に風景の中で霊を視る”霊視認者”とは異なる。
この意味でも関心を失った。
ということで、スウェーデンボルグの霊界経験について、昨今の霊能者の言との照合などをやるつもりでいたが、前者が価値を失ったので取りやめにする。
また彼の宗教観に内在する二元論バイアス(西洋思想そのものに胚胎)※を批判する予定もあったが、批判する価値すら無くなったのでこれも取りやめ。
※:ヘレニズム・ヘブライズム双方による、自他二元論を前提とする自己愛と対象愛(隣人愛)の峻別。愛は存在レベルの現象で、そのレベルに自他の区別はない。東洋思想はそれ(二元論バイアス)を乗り越えている(陰陽思想、空、不二一元論)。