今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

加曽利貝塚を見学

2025年03月30日 | 東京周辺

関東において、郷土博物館的視点でフラリと出掛けるなら、この地域に豊富にある縄文遺跡か古墳時代の埴輪が選択肢にあがる。
双方ともにあがるなら、時代順で縄文遺跡にしよう。

ということで、千葉県は千葉市にある加曽利(かそり)貝塚に行くことにした。

加曽利と言えば、関東では縄文土器の型式名になっているほどの特徴ある土器の産地で、貝塚としても国内最大級で国の特別史跡に指定されている。

千葉市では、以前県立と市立の博物館巡りをしたが(→千葉の博物館巡り)特に前者が充実しすぎて、加曽利に足を伸ばす暇がなかった。
なので、今回は残った加曽利貝塚だけとなる。


この加曽利に行くには、千葉駅から路線バスと総武線+モノレールの選択肢があるが、頻度も料金も加曽利までの歩く距離も大差ないので、その場の都合に合わせてよい。

私の場合、乗った電車が内房線の君津行きだったので千葉駅で降り、そこ始発の総武線には時間があったのでバスにしようと改札を出て、目の前の観光案内所で加曽利までのバスの路線と乗場を尋ねると、加曽利へのアクセスの印刷資料とともに情報をくれた。
近くの9番のバス停で、20分おきに出るバスに乗る(待ち時間は10分だったので総武線経由よりも早く着く)。
「桜木町」でバスを降り、少し進んで、看板通り右折して東に向かうと、あとは1本道で「加曽利貝塚縄文遺跡公園」に着く(写真:後ろの建物は観覧施設)。

公園に入ると、そこに立っていたボランティアのおじさんが案内を申し出てくれたが、私は、まずは公園で持参した太巻き寿司の昼食を食べたいので断った。
そう、公園内部・付近には食事処はなく、ベンチだけはある。
そこに腰掛けて太巻き食べ、まずは園内の博物館に入る(無料)。

展示はもちろん、ここ加曽利貝塚から出土した土器や石器それに人骨。
そもそも、縄文時代の貝塚は、地域では関東が群を抜いて多く、関東の中では千葉県が最も多く、その中では千葉市が最も多いという。
東京湾沿いの遠浅の海に近い台地上で(津波の心配もない)、海産物だけでなく、木の実や動物も獲れる。
それに当時は今より温暖だったので、一年中快適に過ごせる。
ちなみに南関東の貝塚や縄文遺跡は、千葉から東京〜神奈川にかけて広がっており、まさに縄文時代も”首都圏”は賑わっていたのだ(縄文時代から首都圏になる兆候があった?)。

加曽利貝塚からは、縄文早期前半(11000年前)から晩期中頃(3000年前)の土器が出土し、貝塚そのものは中期後半(5000年前)に北貝塚、晩期中頃に南貝塚がそれぞれ形成された。
まさに加曽利式土器(中期は加曽利E式、晩期は加曽利B式)の時代で、世界史的には古代エジプト王朝の時代に相当。
実用的な土器以外に、用途不明の土器や女性を模った土偶も出土している(写真)。

貝塚は、文字通り地層に貝殻が厚く敷き詰めらたものだが、その貝の大半はイボキサゴというごく小さな巻貝で、食用には適さないという(不可ではない)。
すなわち、貝塚は、当時の人がふんだんに食べた貝の貝殻を捨てた跡、というわけではなく、存在理由が実ははっきりしていない。
さらに、他の貝塚でもそうだが、人や犬の骨が埋葬された形で貝塚から出土するので、墓地でもあったのだ。
すなわち、貝塚=食べた後(残飯)のゴミ捨て場、という発想は、飽食の現代人の発想で、むしろ生と死とを共存させる神聖な空間だったのかもしれない(一緒に出土する土偶が必ず女性像である点も何かを示唆している)。

博物館の外の、縄文中期の北貝塚には貝層断層面観察施設と竪穴住居群遺跡観察施設、縄文晩期の南貝塚には同じく貝層断層面観察施設と復元集落(2棟)がある。
貝塚敷地内を歩くと、今でも地面に白い貝殻が散らばっている(持ち帰り禁止)。
かように空間的にも時間的にも規模の大きい貝塚で、名前はより有名な東京の「大森貝塚」(→記事)とは見学対象としても雲泥の差。


帰りは、北上してモノレールの「桜木」駅まで歩き、そこからモノレールを1駅分乗り、都賀でJR総武線に乗り換え、快速で東京に戻れた。
桜木駅近くにはスーパーとコンビニがあるので、公園で食べる弁当を買うにはこちらから行った方がいい。

千葉県にはこの後、埴輪の里と古墳群を訪れる予定。


名刺交換後の名刺の扱い

2025年03月29日 | 作法

3月29日のYahoo!ニュースに、「名刺入れの上に名刺を載せるな!」というビジネスマナーの記事が載っていて、その作法の根拠に小笠原流礼法が挙げられていた。→元記事

だが、このマナーに対するコメントに「(武家礼法である)小笠原流礼法の時代には名刺がなかったはず」というものがあったという。
確かに、室町時代に書かれた小笠原流礼法の礼書にはビジネスシーンでの名刺の扱いは載っていない。

ではなぜ、言及が可能かというと、礼法(作法)の基本原理(文法)の適用によるもの。
武家礼法、とりわけ小笠原流礼法は作法体系の論理構造が明瞭で(→作法・礼法講座)、
数学や物理学のように、目の前の事象に対して、基本原理を適用できるのだ(個々の作法を丸暗記しなくてよい)。

上の記事でもその原理にもとづいて説明してあるが、今一度ここで説明する。


まず名刺の作法的意味づけをする。
名刺は、その人の基本情報(氏名、職業、連絡先)を記したモノである。
すなわち、情報原としての意味と、モノとしての意味がある。

初対面での自己紹介として渡された情報源だから、まずは氏名を覚えるのが目的だが、
今後の付き合いとしては、さらに氏名と顔を一致させることが必要。
ということは、受け取った名刺を一瞥して名刺入れにしまうのは(名刺交換の儀だけで終わる関係ならそれでもよいが)、ビジネスの面談の場でそれをやると、目の前の相手への関心の低さを示すことにもなる。
となると、対面中は名刺をしまわずに自分の見える所に置いて
(手に持ったままいじくりまわさないこと)、顔との連合記憶に使用するのがよい。

問題はどこに置くかだ。
名刺入れの上に置くというのは、直置きでない配慮をしたつもりだろうが、あえて外気にふれて汚れる外側に載せることは、モノとしてのそれを軽んじていることになる。

そもそも直置きはよくないのか。
床でなく会議用の卓上であれば、他の物品と同じく問題ない
(武家礼法にあてはめると、人の代わりとしての”扇”に相当)。

なら卓上のどこに置くといいか。
名刺を相手からもらったモノ、あるいは(おおげさに)相手の分身と考えると、それなりに敬意を表した方がいい。
敬意は置く位置で表現できる(作法には敬意を表現する文法があり、それに従えばいい)。
すなわち自席の左右のうちの上座(じょうざ)側に置く。

上座は、小笠原流礼法では空間基準と人基準があり(→関連記事)、
空間基準でいうと、床の間など上座ポイントがある場合は、その方向。
ない場合は、出入口を下座ポイントとして、その対角線上の反対側を上座と見なす。
人を基準とすると、その場の最上位者の位置(の方向)が上座となる。
両基準が不一致の場合、小笠原流礼法では人の基準を優先する。

ついでに、自分の正面は書類や入力マシンの置き場となる。
自分の持ち物(たとえば名刺入れ)を置く時は下座(げざ)側に置く。
※:対面相手の名刺が入っているなら、上座に置いた方がよい。
また、筆記具などは上座下座の基準ではなく、利き手側でよい(仕事場面であり、儀式場面でないので※)。
※:適した行為は一律ではなく、場面に応じて異なる、とするのが真の作法。

つまり、名刺入れのに名刺を置くことは、作法の文法上、”敬意の表現”にはならないのである。


実が虚になる物理現象

2025年03月28日 | パワー・スピリチュアル

先の記事で、複素数の共役を利用して、虚(数)が実(数)に化ける妙を紹介した。
その化ける過程を一般化すれば、
①Aにある操作を加えて変換する。これをA'とする。
②AとA'とを合成する。
というシンプルな手順となる。

実は、上と逆過程の、「実が虚に化ける」ことも可能、いやすでに現実化している。


存在の基本様態である”波動”を使う。
ハイデガー哲学と量子論を合わせて表現すると、
存在者(在るモノ)が粒子ならば、その存在者を可能にする存在(在るコト)は波動である。

粒子(物質)について、その物資に対して上の過程をほどこすには、①に”反物質”なる不可思議なモノを用意する必要があるが、少なくとも私は用意できない。
ところが波動に対しては、上の過程をほどこして波動を”虚”にすることが、私でもタダで”例示”できる。
それをこれから示す。


具体的な波動として、音(波)を使ってみる。
音は空気の振動という”実”エネルギーである。
振動の時間幅すなわち「波長」、これを実用的に表現し直した「周波数」は、振動の頻度(波の密度)であり、
振動の上下幅、すなわち「振幅」は振動エネルギーの強さである。
音波の場合は、周波数は”音の高さ”(Hz)、振幅は”音の大きさ”(dB)を示す(波の高さは、音の高さでなく、音の大きさである)。

今から例示する現象は、パソコンで簡単に経験できるので、できたら以下の操作を実行してほしい。
音波を自由に編集(操作)できるAudacityというパソコン用のフリーアプリがあるので、それを使って説明する(→Win版、Mac版があり、それぞれ日本語版のダウンロードサイトがあるのでググってほしい)。

先ず、メニューの生成>トーンから、440Hzのサイン波(純音)を素材音として生成する。
※:>はメニューの選択過程
鳴らすと、プーという電子音がラの高さでデフォルトの振幅(0.8dB)と30秒間鳴るのを確認(鳴らす時間は10秒程度でいい)。
画面の波形表示を拡大して(○に+のアイコンを押し続ける)、下図のように波の形が視認できる状態にする。

次にアプリで以下の操作を施す。
①新規トラックを作り(トラック>新規追加>モノラルトラック)、波形全体をコピペして同じ周波数のサイン波を2トラック作成する。
2トラックはステレオ効果として普通に使うもの。
②その1つのトラックを選んで、メニューからエフェクト>インバート(位相を反転)を選ぶ。
その結果、選んだ方のトラック(右図の下のトラック)は位相(波の上下)が反転される。
③片方ずつ「ソロ」で再生してみる(他方が「ミュート」される)。
それぞれのトラックは周波数も振幅も同じなので、同じ音が鳴るのを確認する。
④「ソロ」を解除して同時に二つ再生する。
どうなるか。
音が消える(何も聞こえない)。


④でいったい何が起こったのか。
ある位相の波とその逆位相の波が合わさると、波の山と谷が合成されることになり、すなわち+1と-1を足した状態になり値が0となる。
実エネルギーのある二つの音が、位相が反対という理由によって、たがいに波を打ち消し合って、波が生滅するのだ(波動固有の現象)。
これが、実が虚に変換される過程。
すなわち、片方の位相を逆転するという操作①
そして、双方を合わせるという操作②

結果としての無音は、音が”無い"(0)のではなく、二つの”実”が波動的理由で打ち消し合った結果なので、存在するが聞こえないという”虚”というべきもの。
数学的に言えば+1と-1の合成としての0だが、物理的には-1の音はなく、2つの(位相の異なる)同じエネルギーの音が実在している。

これはなにもコンピュータというデジタル空間の現象ではない。
実際の環境音を打ち消す装置が実用化されている。
そう、私がずっと愛用しているノイズキャンセリング・ヘッドホン。
ノイズキャンセリングはこの原理を使っている。

存在の基本様態が波動であるなら、すべての存在にこの原理は適用できるはずだ。
例えば、この原理を使うと”大津波を消す”ことも理論的には可能。


武蔵府中の古墳巡り

2025年03月27日 | 東京周辺

平日ながら、春休みなので、東京府中の古墳巡りに行った。

都内の古墳は、東西に流れる多摩川の北岸沿いに点在しており、
とりわけ武蔵国の国府があった府中市には二つの古墳群がある。
言い換えれば、関東では一般に縄文遺跡なら豊富にあるものの、
大和〜奈良時代の古代になると史跡はグッと減るのだが、さすが”府中”は古代の史跡に満ちている。


京王線に乗り、府中の1つ先の分倍河原(ぶばいがわら)で降りる(この地名で多摩川に近いことがわかる)。
分倍河原は、新田義貞と北条幕府軍が戦った中世の古戦場もあるのだが、そこは碑があるだけなので省略。

まずは駅の東側出口に出て、近くで昼食をと、チェーン店ながら手頃な値段で私の定番”五目焼きそば”を食せる「れんげ食堂Toshu」に入る。
ここは「そば少なめ」とか「エビ抜き」とかも選べる。
私が食べたいのは”五目”部分なので、糖質を減らすため「そば少なめ」を選んだ(30円引き)。


さて、ここからスマホのGoogleマップのナビを頼りに、古墳巡りを開始。
古墳群は、京王線の西側にある。
最初に訪れた「首塚古墳」は、民家脇の空き地の盛土の上に稲荷の鳥居と祠が建っているだけで、古墳には見えない。
南下してJR南武線の踏み切りを越え、高倉塚古墳(市史跡)に達する(写真)。
ここは明確な円墳で、石段がついていて、てっぺんまで登れる。
ただ、人様の墓の上を土足で歩くってあまりいい気分でない。
この古墳は付近の古墳群の代表で、それを高倉塚古墳群という。

往路を戻って、地元鎮守の八雲神社に参拝。
訪れた地の鎮守社には必ず挨拶することにしている。

そこから北上して達した高倉20号墳は、日本通運の敷地内なので入れず、
遠くからの目視で済ませる。
古墳群というものの、実は宅地化で消失したものが多く、墳として残っているのは数えるほどで、
残っていても私有地内にあったりする。

西に進んで、南武線の西府駅前にあるのが御嶽塚古墳(市史跡)。
江戸時代以降、頂上に御嶽(みたけ)神社の祠が置かれて、多摩川上流の武州御岳山登拝の代わりとなっていたようだ(写真)。
※御岳山の頂上に御嶽神社がある。

ここは緩い円墳で、古墳というより小丘で周囲ともども公園化している。
この付近にも古墳が点在し、合わせて御嶽塚古墳群という。

その公園でトイレを借りて、南武線を地下道でくぐって北上し、
甲州街道に出ると目の前に熊野神社がある。
神社の奥に目指す古墳があるのだが、神社の手前にその古墳についての立派な展示館があるので、まずはそこに入る(もちろんトイレ完備)。
なんで立派な展示館があるかというと、ここの古墳が「国史跡」に指定されているから。

ここの古墳は、方墳の上に円墳が乗った全国的にも珍しい「上円下方墳」(方円墳)で、
しかもその方円墳の中では最古で最大だという。
石積みの頑丈な古墳はしっかり残っていて、玄室のある内部も堅牢に作られていて、
その再現版が資料館の隣にあって、玄室まで入れる(上写真)。
ということで技術的にも当時最高度の古墳で、地元府中の相当な有力者の墓だったようだ。

資料館を出て熊野神社を参拝して、拝殿・本殿(ともに市有形文化財)の奥に、ご神体のごとく鎮座する武蔵府中熊野神社古墳を周囲から眺める(写真:中には入れない〕。
もちろんここが府中古墳巡りのハイライト。

この後は、車で混雑している甲州街道(国道20号)を西に進み、国立(くにたち)に入る。
20号が日野バイパスとして左に折れて旧甲州街道と分かれる所に、下谷保(やほ)古墳がある。
地図上では2号墳、1号墳、8号墳と並んでいるが、実際に行けるのは1号墳だけ。

古墳巡りはこれで終了だが、ここまで来たのだから少し先の谷保天満宮に足を伸ばす。
谷保天満宮は、国立市分寺と川の間の地という意味)周辺では最も有名な神社で、
菅原道真を祀る天満宮としては東国第一という(文京区の湯島天神より格上)。
江戸時代、口さがない江戸市民からは「やぼてん」と呼ばれていた。

ここから、説明板以外何もない仮屋上史跡群を見て、JR南武線谷保駅に着く。
そこから分倍河原で京王線に乗換えて帰宅した。

もともと古墳巡りが目的だったので以上のルートにしたのだったが、
帰宅して地図を見返したら、もう少し西に歩けば「くにたち郷土文化館」があった。
郷土資料館を1つ行き損なった。


霊を虚数とすると

2025年03月26日 | パワー・スピリチュアル

高校時代に習った数学(文系なので数IIまで)の中で、虚数とそれを使った複素数というのが、一番ピンとこなくて、その存在理由がわからなかった。
後になって、虚数は電磁気学で使われ、さらには量子力学でも使われることを知った。
でも相変わらず、物理現象の記述になぜ虚数が必要なのかよくわからなかった。
ちなみに、電磁気学と量子力学に共通する使用法は、(粒子でない)波動の記述である。

私も、実在がはっきりしないあやふやな存在に対して、虚数を当てはめる可能性を考えていた。
そんな折、複素数を使った存在論を目にした。
小林康夫『存在とは何か—〈私〉という神秘—』 (PHP研究所  2023 年)である。


氏は存在を実在的な部分だけでなく、「霊」などのイメージ的なものとして捉えてきた人類の思考を複素数として記述することを提案した。
複素数の実部(実数部分)が実在・実存(従来の存在論)。
それに対して、虚部(虚数部分)が虚在・虚存は実在でない存在、すなわち霊(と言われてきたもの)が相当する
※:本当は複素数を4項で表現する(四元数)もう少し複雑なもの。

すなわち、存在を実部分と虚部分からなるとして、複素数によって存在をトータルに表現できるというもの。
複素数の適用として、これは注目に値する。

だが、上の分類で終わっているのが残念。
発想がデコスラ=セールという文化人類学者の四元論をベースにしているだけに、既存の観念をまとめるだけで、そこに止まっている。
※:故あって私は文化人類が嫌い。なのでどうしても低評価の表現となる。
そして実部と虚部が互いに独立(直交)で並列しているだけで、相互関係が想定されない。

私は一歩先に進めたい。
数学の世界は演算によって展開する。
演算しないと意味がない。


複素数にとって、ミソなのは”共役”だ。
ある複素数 x+iyという値に対して、x-iyという値が共役の関係にある
※:”共役”も高校で複素数を習った時に紹介されたが、それがどうしたという感じで、これも存在価値がわからなかった。
共役がミソなのは、共役関係にある2つの複素数の積をとると、面白いことが起きるから。

これを式で示すと、(x+iy)(x-iy)=x^2-xiy+xiy-iy^2となる(^は累乗のネットでの表記、x^2はxの2乗)
ここで第2項と第3項は足して0となり、そしてiy^2は、i^2=-1だから-y^2となってiが消える。
すなわち、虚部が消えて実部のみとなる!
わけのわからん複素数が実測可能な実数のみになるのだ。
x^2に追加されたy^2部分が虚部の値で、本来のyの値はy=√(y^2)と簡単に導出できる。

幾何学的に示すと、複素数平面における共役は実軸対称の関係である。
すなわち実在部分のxはそのままで、観念だけでなんかとなるy部分を符号変換すればよい。

これって霊的世界の要素を特定方向に機械的に変換して、それをもとの値と合わせると、
存在の霊的部分を実在化(y)できるということか!

このように、霊的世界の実在(可視)化という、一見無理そうな変換作業が可能であることが、数学的に表現されることになる。
これこそが複素数を使う意味といえまいか。


となると、次にすべきことは、
(複素)存在の共役状態とは何か、を確定すること。
そして元の存在と”掛け合わせる”とはどういう相互関係を意味するか、の確定である。
例えば、霊視認者は、この共役演算を無自覚のうちにやっているのかもしれない。

実が虚になる物理現象


篤胤が記した生まれ変りの証言

2025年03月24日 | パワー・スピリチュアル

霊界について、神道の立場からそれを理論化したのは19世紀の国学者・平田篤胤だが、
篤胤自身、構築した霊界論『霊の真柱』(たまのみはしら)には事実的な根拠が不足しているのを痛感していた(吉田,2017)。
そこで得たのが、生まれ変わりを経験したという八歳の勝五郎少年の証言。
その面談記録を『勝五郎再生記聞』(文政六年:1826)として著した。
私が興味あるのは、霊界論という想像だけで創作できる”物語”ではなく、霊界の体験談という一次データである。
なので『霊の真柱』ではなく、『勝五郎再生記聞』を紹介する。


生まれ変わりの証言者は、八歳の男児・勝五郎。
前世は、武蔵国多摩郡小宮領程久保村(現、東京都日野市程久保)の百姓の子・藤蔵で、六歳の時(文化七年)に死去(知行所にて事実確認済)。
その六年後の文化十二年、同中野村(現、東京都八王子市東中野)の百姓家に勝五郎として生まれ、
※:計算では五年後だと思うが、本書に「六年後」とある。年忌では死んだ年を含めるためか。
八歳(文政五年)の時に、姉に前世のことを話したのがきっかけで、世間に知れ渡り、篤胤らが面談するに至った。→勝五郎生まれ変わり物語(日野市郷土資料館)
以下、篤胤らが記した面談記録からピックアップしたもの。

前世の藤蔵は、六歳の時、疱瘡(天然痘)で死んだ際の記憶として、絶命する時は、苦しみはなかったが、その後しばし苦しかったこともあった。がその後は苦しいことはなかった。
納棺の時、(体から)飛び出で遺体の傍にいた。
山への葬送(土葬)の時は、白く覆った棺おけの上に乗った。

すなわち、納棺の時に遺体から魂が抜け出て、自分の葬儀に同行したのだ。
その後は、不可視の魂として、この世にとどまり、
家では机の上にいたが、人に物を言っても聞こえないようだった。
食べ物を食べることはできなかったが、暖かいものはその匂いでおいしく感じた。

そして、長い白髪で黒い着物を着た翁が手招きしたのでついていき、きれいな場所で遊んだ。
この翁は、後の話と総合すると産土神(熊野権現)らしい。


まず死後に、この世に止まってる点がはっきりしている。
すなわち、霊界に行かない。
これはスウェーデンボルグの説と合わないし、死者が行くとした篤胤の「幽冥界」にも該当しない。
夭折したから再び人間をやり直させるのかもしれないが、篤胤自身そのような解釈をしていない。
翁は、神道的神の様相である。
これは篤胤の思想世界と整合し、いいかえればスウェーデンボルグ的世界とも仏教的世界とも異なる(かように”論”の世界はバラバラ)。


そして6年後、翁がきて連れて行かれ、「あそこの家に入って生まれよ」といわれた。
まずはその家の庭に三日いて、家に入ってから竃(かまど)のそばにまた三日いた。
その家の母が遠くに行くことを父と話し合っていた(実際に奉公に出る予定で、夫婦間でのみ話合った:勝五郎が知っているわけがない)。
その後、母の胎内に入ったと思うが、その過程はよく覚えていない。
胎内では、母が苦しむときは、脇に寄っていたことを覚えている。
生まれる時はちっとも苦しくなかった。
ちなみに生まれ変わるまでの六年間は、”しばしの間”程度の感じだったという。

勝五郎は、人は皆前世を覚えているものと思って姉に話したが、それは自分だけだと知った。
彼の再生譚は家族に共有され、周囲にも知れ渡った頃、祖母と一緒に程久保村の前世の家に行くことにした。
勝五郎は、生まれて初めて尋ねる元の家に迷わずに達した
※:両地の間は今の中央大学八王子キャンパスで、キャンパス内に当時の道が発見されたという。
感激の再会をした折り、勝五郎が藤蔵の時にはなかった向かいの煙草屋の屋根と木を指摘したが、それは事実だという。


再生記の記録部分は以上で終えるが、これだけでは篤胤が最も知りたい「霊の行方」についての情報に乏しい。

そこで同書(岩波文庫)に所収されている『仙境異聞』の主人公寅吉に登場してもらう。
寅吉は、天狗の世界(仙境)にしばらく住んでいた十五歳の少年で、勝五郎同様に篤胤らが面談した。
この少年は百姓の出ながら、賢く、異界での経験が豊富で、弁も立つので、篤胤らとその後も行動を共にし、なんと勝五郎の面談にも同席していた。

篤胤が寅吉に魂の行方について尋ねた際の返答は、
人の魂は、凝り固まるので、消えることない、
悪い魂は、妖魔の群れに入って、神明の罰を受け、
善い魂は、神明の恵みを受けて、無窮に世を守る神となる、
固まらない場合は、散じて消えるが、他の魂と混ざって、人にも物にも生まれ変わる、
というもの。
勝五郎として再生した魂は、固まらない魂だったのかもしれない。
ちなみに、鳥獣の魂は、遂に消える。強いものは天狗になるが、これもいずれ消える。
※:天狗(山人)は神由来、人間由来、鳥獣由来の3種があるという。天狗という名称は鳥獣由来のもの。
スウェーデンボルグの霊界も人間だけだった。

寅吉は全てを心霊的に解釈するようなことをしない。
例えば、寅吉の師の杉山山人(山人=天狗)の山は信州の浅間山なのだが、
その浅間山の噴火について、それは神の怒りではなく、硫黄が多いためだと科学的な回答。
また地獄は、師によれば、愚なる者を威すために、後人の作言したものという(スウェーデンボルグと同意見)。
さらに地震の原因は、「地下に大鯰がいて、鹿島の要石が云々」というのは盲説だと聞いたという。
このように当時の庶民の常識レベルより上をいっている。

ただ寅吉の話には眉唾的なものもある。
例えば、異国の人間としてあり得ない習俗はもとより、月に接近した時の様子として、
兎の餅つきといわれる場所は、二つ三つ穴があいていて、その穴から月の後ろの星が見えたという。
また 他の星については、近づくほどぼーっとした気に見え、その中を通り抜けた事もあったという。
これについては、面談同席者でオランダ経由で当時の天文学の知識を持っていた佐藤信淵が以下の反論をした。
「星は地球と同じ組成なので、通り抜けられない
惑星の光は、自分で光っているのではなく、太陽の反射だ」
それに対する寅吉の弁明部分については、資料が欠落している。
まさにこのような点が18世紀のスウェーデンボルグの惑星人の話と同じく、19世紀以降の科学知識と矛盾し、一挙に信憑性を落とす。
 
ここでは紹介していないが、勝五郎も寅吉も、篤胤自身の価値観(仏教嫌いの神道理論)と不自然なまでに一致している点も気になる。
それは彼らの生の証言が、篤胤によって著作化された過程で変容したためであろうか。
ということで、資料(データ)としての価値が劣るのが残念だ。
 
ちなみに勝五郎は、その後、まっとうな人生を送り、明治2年まで生きたらしい(上のリンクサイトによる)。

文献
⚫︎平田篤胤 『仙境異聞・勝五郎再生記聞』 子安宣邦校中・解説 岩波書店 2000
⚫︎吉田真樹 『平田篤胤—霊魂のゆくえ』 講談社 2017 電子版

再び5ヶ月ぶりの高尾山

2025年03月23日 | 山歩き

寄る年波で、半年ほど山に行ってないと、脚力が不安となる。
そこで脚力のチェック用に行くのは小学生の遠足の地・高尾山(599m)。
ところが、その後また半年ほど空きができてしまうということを繰り返して、
チェック用の高尾山を3回連続行く羽目となった。→前回

言い換えると、高尾山は幾度行っても飽きない。
気楽にふらりと行けて、混雑はしているが、それなりに山に入った気分(下界とは別世界)に浸れる。
昔からの霊山ゆえ、自然林が残っているためでもある(奥多摩の山は植林)。
また、山中に信仰のポイントが点在しているのも、歩行を飽きさせない。
さらに山上に茶屋があるので、昼食持参なしで行けるのもいい。

水曜に思わぬ降雪があったので、高い山は積雪だろうが高尾山なら安心。


新宿9時1分発の京王線に乗り、10時前に高尾山口に降り立つ。

いつも通り、ケーブル駅を横に過ぎて、高尾病院の坂を登り、本格的な山道である琵琶滝道を登る。
本日は25℃になるというので、下着を兼ねた山用の長袖シャツ1枚(半袖でもいい)。
さらに2号路を進んで、舗装された1号路に出、ケーブルカー利用の観光客たちと合流。

いつもは緩斜面の女坂を行くが、今日は久しぶりに男坂の長い石段を登り、薬王院境内に入る。
ここで母の土産にかりん糖を買う。
本堂と上の飯綱権現堂は参拝者の列に並ばずに、遠くから軽く合掌して通り過ぎ、
さらに石段を登った奥の院(不動堂)では一人立ち止まって、不動明王の印を結んで真言(マントラ)を唱える。
そしてその奥の境内で最も高い所にある富士浅間社にも「南無浅間(あさま)大菩薩」と唱えて参拝する。
この2つのパワースポットが私の参拝対象
※:パワーの計測に基づいた認定→その時の記事
これらの配置を見て分かる通り、奥の院が本尊(不動明王=大日如来)であり、
また高尾山自体が富士(富士浅間大菩薩)の遥拝所を形成している
※:江戸〜多摩の地からは、ここに登らずとも普通に富士を拝めるが。

正午前に混雑した山頂に着く。
外国人のカップルやグループが目につく。
ここまで雪はほとんどなかった(境内に残雪が少し)。
ここより千メートル高い丹沢は見事に雪をかぶっている。
その右奥の富士はモヤがかかって見えにくいが、山体は真っ白。

私は山頂で休むことなく、山頂を越えて少しだけ奥高尾(観光地でない山域)に入る。
人はグッと減って、ほとんどが登山の格好、少なくともジーンズ(山の素人の典型服)姿はいない。
一旦くだって、ゆるく登り直した所が”もみじ台”で、
ここにも茶屋(細田屋)がある。
山頂にある3軒の茶屋はいつも満席だが、ここなら空きを期待できるのだ。
ここで、丹沢を見ながら(写真)山菜そば(1000円)を食べる。
※:山の茶屋では山の幸を堪能すべく山菜そばを選ぶ。
ここが今日の目的地のようなもの。


ここから引き返すが、なんと予定していた稲荷山道は、倒木のため通行止めとのこと(降雪の日に倒れたようだ)。
仕方なしに山頂を巻いて一周する5号路から山の南面をトラバースする3号路に出て、
途中で薬王院に向かう道に入る。

この道、実はメインの1号路が山頂に伸びる前は、薬王院から山頂への正式な道だったらしく、
道幅は広く(車両通行可)、道脇に古い石垣が続く(写真)。
石垣をよく見ると、なんと気泡の跡がある溶岩。
高尾山は火山でないので、富士の溶岩を敷き詰めたのだ。
そして奥の院にあった浅間神社は、元はこの道沿いにあったという(この地で山崩れに遭ったため移転)。
すなわち、高尾山自体が富士塚(溶岩で富士を模り、富士登拝とする)でもあった。
この道を「富士山道」というのは、高尾(模富士)山頂で本物の富士を遥拝するための道だから。

薬王院の庫裡裏に達すると、弁天窟がある。
参拝する価値のある場所だが、1号路で薬王院本堂を通る人はここまで足を運ばない(存在を知らない)。
この富士山道を通るなら道沿いにあって立ち寄りやすい。

ここから薬王院に戻り、そのまま1号路を下る(どうせなら登りと違う道)。


無事、登山口に着き、そのまま駅のコンビニで缶ビールとカニカマを買い、
川沿いの整備された広場に座って無事下山の祝杯。
この場所、公園風に整備され、座る所が増えたのはいいが、日陰が全くない。
前回は日傘を持参したが、片手を傘に奪われるとリラックスしてビールを飲みにくい。
そこで夏日が予想された今回は、傘ではなく笠形の折りたたみ日傘(秋葉で買った)を持参して、それを頭にかぶる。
見た目は滑稽だが、両手があいてしかも体がすっぽり日陰に入るのでとても快適。
街では使えないが、山では人目も気にならない。

さて、次の山はいつになるやら(また5ヶ月後だったら高尾山)。


心の進化としての霊性

2025年03月20日 | 心理学

心を単一の現象ではなく、物質代謝レベルを含む多重構造の現象とみなす視点が私の「心の多重過程モデル」である。
そこには心身一元論も心身二元論もそれぞれの特定のサブシステムにおいて妥当とされ、
”心身一元論か心身二元論か”という高次の二者択一ジレンマが解消される。
※:今のところ、システム0〜システム4の五重構造
同様に、心についての多様な視点、すなわち脳科学、精神分析、行動主義、ゲシュタルト、ヒューマニスティック、そしてトランスパーソナルの学派の視点・理論も、それぞれ特定のサブシステムにおいて妥当とされる(言い換えると、これら単独では統合システムとしての”心”を捉え損なう)

そもそも生物の基本活動は、物質代謝を利用した情報活動である
(その最も本質的な活動は、遺伝情報のコピーによる個体の複製)。

心の進化として重要なポイントは、思考・表象・自我機能のシステム2である。

ホモ・サピエンスはシステム2(高度な情報処理能力)を極限まで発達させた。
すなわちおのれの能力を超える情報処理装置を開発し、それに委ねることで、処理の進化を飛躍的に高めることに成功した。
これは生物としての進化の方向転換の契機を意味する。

実はシステム2が新たに切り開いた存在次元に霊性がある。
これは従来の生物学的存在とは別次元の、新たな存在論的方向を意味する。

言い換えれば、システム2レベルのサピエンスは、それまでの進化の過程で保持してきた動物的な志向性(生理的〜社会的欲求)と、新たに見出した脱動物的な超越的志向性(システム3以降)の2つの選択肢を得た。

多くのサピエンスは、いまだ前者の性的〜経済的欲求(システム1-2)の充足に人生を費やし、
それによって互いに傷つけ合い、争って、生物レベルの過酷な”生存競争”段階(暴力、殺人、戦争)に留まっている。

そういう従来型の生物的生き方ではなく、せっかく目覚めた霊性(システム3以降)にウエイトを置く生き方に移行してもいいのではないか。
そう気づいたサピエンスが2500年前に出現したが、その教えは時間経過に伴って変質してしまい、ほとんどのサピエンスにとっての実行困難さもあって、単なる物語となってしまった。

そこで今一度、現代的視点で、サピエンスなら誰でもが霊性を高められる方法を探求していきたい
(システム3を作動させるテクニックは「マインドフルネス」としてすでに流布している)。

ちなみに霊性の本質は”愛”である。
愛は動物起源の欲求に由来しながら、それを超越する力をもっている。
その超越とは、まずは自己から他者への超越であり、やがては人間から絶対者への超越につながる。
なので愛を実現するのに自己否定の難行に苦しむ必要はなく、
「煩悩即菩提」・「自利利他」という、連続性を前提とした質的転換(愛着・性愛→慈悲・隣人愛)を目指せばよい。


スウェーデンボルグ終了

2025年03月17日 | 作品・作家評

卒業式が終わって実質的にも春休みに入ったので、スウェーデンボルグについての20年にわたる霊界経験の日記をじっくり読もうと思った。
全十巻に及ぶ『霊界日記』は昭和55年に邦訳されている(柳瀬芳意訳 静思社)。
こういう大量の資料は、国会図書館で読むに限る。

ということで、国会図書館に行き、デジタル資料となっていたので、館内のパソコン画面でまずは第一巻を閲覧した。

眠気に堪えて読んだ結果、第二巻以降を読むことは取りやめ、これ以上彼に付き合うこともやめることにした。


なぜなら、第一巻で彼の霊界での具体的な経験を追っていたら、ヨーロッパ人以外のイスラム教徒やアフリカや西インド諸島の偶像崇拝者の霊界でのあり様までは普通に読めたが、それに続いて、なんと木星人が登場したのだ。
木星人は、地球人と同じ形態で、地球人より美しいという。
その木星人の記述がやたら長く、我慢の限界を超えたので読むのを放棄した。
これ以上の読書は時間の無駄だから(時間の無駄と思う行為は即刻中止すべき)。
第二巻以降、他の惑星人、月の住人も登場するはず。

18世紀は地動説に基づく太陽系についての知識は常識化していた(ただし木星の大気までの知識は無し)。
なので、この世と霊界を統べる”神メシア”(本書の表現)(=キリスト)は、リアルな意味で宇宙神でなくてはならない。
そのため、当時の視野でいうと太陽系の諸惑星にも神メシアの威光が届かなくてはならない。
なので木星人もキリスト教徒となるべきのだ。

そもそもスウェーデンボルグはいかにして霊界を経験したかというと、彼がいう「死の技術」、すなわち自分の霊を自分の体から離脱させるテクニック、いわゆる”幽体離脱”による。
彼によると、離脱した体が見えることがポイントで、慣れるにつれて霊界が徐々に見えてくるという。
これはすなわち彼が特殊な覚醒水準の状態(≒睡眠)になっている時の経験である。


実はスウェーデンボルグの霊界経験について、当時の大哲学者カントが論評している。
二人は奇しくも同世代でしかも同名(Immanuel)で、互いに活躍は耳にしていた。
カントは論評を著すに当たってスウェーデンボルグとの面会を打診したが、スウェーデンボルグの方で断ったという(彼はドイツ語は話せるが、彼の方でカントに会う意味を見出せなかったという)。
そのカントの論評を読むと、もって回った言い回しながら、スウェーデンボルグの霊界経験を夢想と解釈している。
なので論評のタイトルはズバリ『視霊者の夢』(金森誠也訳 講談社)
これは霊視認現象についての現代科学での見方と同じ。

私の解釈は、いわゆるレム睡眠での夢の経験ではなく、もっと覚醒状態に近い意識的な空想に近いものだと思う。
なぜなら彼自身の意識レベルの価値(宗教)観が濃厚に投影されているから。
だから彼の意識にない、日本人や太陽系外の宇宙人は登場しない。
離脱を伴う状態では、夢のように身体ごと空想の世界に入ることができたのだろう。
これは離脱経験固有の状態といえる。

言い換えると、私が研究対象としている通常の覚醒時に風景の中で霊を視る”霊視認者”とは異なる。
この意味でも関心を失った。


ということで、スウェーデンボルグの霊界経験について、昨今の霊能者の言との照合などをやるつもりでいたが、前者が価値を失ったので取りやめにする。
また彼の宗教観に内在する二元論バイアス(西洋思想そのものに胚胎)を批判する予定もあったが、批判する価値すら無くなったのでこれも取りやめ。
※:ヘレニズム・ヘブライズム双方による、自他二元論を前提とする自己愛と対象愛(隣人愛)の峻別。愛は存在レベルの現象で、そのレベルに自他の区別はない。東洋思想はそれ(二元論バイアス)を乗り越えている(陰陽思想、空、不二一元論)。


卒業式(2024)に思う

2025年03月15日 | お仕事

本日、勤務先の大学で卒業式🎓が、昨年に続いて大学キャンパスで挙行された。
あいにくの雨天ながら、卒業生は皆、華やかな袴姿で、会場内を明るくしてくれた。
私も今日だけは(年に一度の)スーツ姿。
式典が終われば、着飾ったゼミ生たちとの記念撮影。

毎度思うことは、実際には学生たちとの(ほとんど永遠の)”別離”の場なのに、
笑顔で「おめでとう」と言わねばならないこの矛盾。
感情的には矛盾(ジレンマ)だが、学生を送り出すことが学校の使命だから、
無事使命を果たしたという達成感にひたってもいいのか。

そうならば、卒業生たちのその後の姿を見たいものだが、それは叶わない。
なのでやっぱり、もやもやは残る。
そう、卒業式って(歓迎一色の入学式と違って)感情的には複雑なのだ。