今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

スウェーデンボルグ終了

2025年03月17日 | 作品・作家評

卒業式が終わって実質的にも春休みに入ったので、スウェーデンボルグについての20年にわたる霊界経験の日記をじっくり読もうと思った。
全十巻に及ぶ『霊界日記』は昭和55年に邦訳されている(柳瀬芳意訳 静思社)。
こういう大量の資料は、国会図書館で読むに限る。

ということで、国会図書館に行き、デジタル資料となっていたので、館内のパソコン画面でまずは第一巻を閲覧した。

眠気に堪えて読んだ結果、第二巻以降を読むことは取りやめ、これ以上彼に付き合うこともやめることにした。


なぜなら、第一巻で彼の霊界での具体的な経験を追っていたら、ヨーロッパ人以外のイスラム教徒やアフリカや西インド諸島の偶像崇拝者の霊界でのあり様までは普通に読めたが、それに続いて、なんと木星人が登場したのだ。
木星人は、地球人と同じ形態で、地球人より美しいという。
その木星人の記述がやたら長く、我慢の限界を超えたので読むのを放棄した。
これ以上の読書は時間の無駄だから(時間の無駄と思う行為は即刻中止すべき)。
第二巻以降、他の惑星人、月の住人も登場するはず。

18世紀は地動説に基づく太陽系についての知識は常識化していた(ただし木星の大気までの知識は無し)。
なので、この世と霊界を統べる”神メシア”(本書の表現)(=キリスト)は、リアルな意味で宇宙神でなくてはならない。
そのため、当時の視野でいうと太陽系の諸惑星にも神メシアの威光が届かなくてはならない。
なので木星人もキリスト教徒となるべきのだ。

そもそもスウェーデンボルグはいかにして霊界を経験したかというと、彼がいう「死の技術」、すなわち自分の霊を自分の体から離脱させるテクニック、いわゆる”幽体離脱”による。
彼によると、離脱した体が見えることがポイントで、慣れるにつれて霊界が徐々に見えてくるという。
これはすなわち彼が特殊な覚醒水準の状態(≒睡眠)になっている時の経験である。


実はスウェーデンボルグの霊界経験について、当時の大哲学者カントが論評している。
二人は奇しくも同世代でしかも同名(Immanuel)で、互いに活躍は耳にしていた。
カントは論評を著すに当たってスウェーデンボルグとの面会を打診したが、スウェーデンボルグの方で断ったという(彼はドイツ語は話せるが、彼の方でカントに会う意味を見出せなかったという)。
そのカントの論評を読むと、もって回った言い回しながら、スウェーデンボルグの霊界経験を夢想と解釈している。
なので論評のタイトルはズバリ『視霊者の夢』(金森誠也訳 講談社)
これは霊視認現象についての現代科学での見方と同じ。

私の解釈は、いわゆるレム睡眠での夢の経験ではなく、もっと覚醒状態に近い意識的な空想に近いものだと思う。
なぜなら彼自身の意識レベルの価値(宗教)観が濃厚に投影されているから。
だから彼の意識にない、日本人や太陽系外の宇宙人は登場しない。
離脱を伴う状態では、夢のように身体ごと空想の世界に入ることができたのだろう。
これは離脱経験固有の状態といえる。

言い換えると、私が研究対象としている通常の覚醒時に風景の中で霊を視る”霊視認者”とは異なる。
この意味でも関心を失った。


ということで、スウェーデンボルグの霊界経験について、昨今の霊能者の言との照合などをやるつもりでいたが、前者が価値を失ったので取りやめにする。
また彼の宗教観に内在する二元論バイアス(西洋思想そのものに胚胎)を批判する予定もあったが、批判する価値すら無くなったのでこれも取りやめ。
※:ヘレニズム・ヘブライズム双方による、自他二元論を前提とする自己愛と対象愛(隣人愛)の峻別。愛は存在レベルの現象で、そのレベルに自他の区別はない。東洋思想はそれ(二元論バイアス)を乗り越えている(陰陽思想、空、不二一元論)。


卒業式(2024)に思う

2025年03月15日 | お仕事

本日、勤務先の大学で卒業式🎓が、昨年に続いて大学キャンパスで挙行された。
あいにくの雨天ながら、卒業生は皆、華やかな袴姿で、会場内を明るくしてくれた。
私も今日だけは(年に一度の)スーツ姿。
式典が終われば、着飾ったゼミ生たちとの記念撮影。

毎度思うことは、実際には学生たちとの(ほとんど永遠の)”別離”の場なのに、
笑顔で「おめでとう」と言わねばならないこの矛盾。
感情的には矛盾(ジレンマ)だが、学生を送り出すことが学校の使命だから、
無事使命を果たしたという達成感にひたってもいいのか。

そうならば、卒業生たちのその後の姿を見たいものだが、それは叶わない。
なのでやっぱり、もやもやは残る。
そう、卒業式って(歓迎一色の入学式と違って)感情的には複雑なのだ。


郷土博物館めぐり:愛知県豊田市・みよし市

2025年03月12日 | 名古屋周辺

名古屋宅にいるが今日は何も用事がない。
そこで、”郷土博物館めぐり”の愛知編を実行したい。

選んだのは名古屋の東に愛知第二の都市として存在感を示す豊田市と、その途中にあるその名も知られていない「みよし市」
※:漢字の「三好市」はすでに徳島県にあるため。
後者は途中にあるという理由だけでなく、常滑訪問時に知った、愛知の焼き物のルーツ・猿投窯(さなげよう)の展示に期待。
ただしここは鉄道から外れているので、自家用車で回ることにする。


自宅から下道40分ほどで、広い高台(童子山)にある豊田市立博物館に着く。

今年開館したばかりで真新しく、規模も大きい。
特別展もやっているが、この後まわる所があるので、私が最も見たい常設展だけにする(市外者は300円)
まずは「とよたモノ語り」と称して、豊田市の様々なモノが飾られている巨大な四面の展示棚を目の前にする(写真:左側にトヨタ車の展示もある)。
「ものづくり愛知」の一角を占める、いや愛知を代表する市にふさわしい壮大な展示。
そもそも「博物館」て、博(ひろ)を展示する館のこと。
実際ここも、石器、土器、古墳の副葬品、そして産業製品との展示が拡がる。

豊田はもちろん豊田自動織機に始まるトヨタグループ本社が市名の由来で、本来の地名は挙母(ころも)だった。
県内最大の市域には、徳川氏の元である松平氏発祥の地があり、尾張名古屋から信州飯田に達する中馬街道(塩の道)が通っていた。
そして、ここの地質は、陶器やガラスの原料としてすぐれ、トヨタ車の窓ガラスは今でもそれで作られている。
そのほか、あの横濱崎陽軒の「シウマイ弁当」に入っている瓢箪型の陶器「ひょうちゃん」(私もそれとなく集めている)もここの土が原料だという。

愛知が「ものづくり」のメッカになったのは、優れた素材(もの)の産地だったから、という至極真っ当な理由だったのだ。

このほかに豊田市の自然風景のジオラマがあり、ミュージアムショップもなかなか面白い。
館外には、移築された古民家や横穴式の古墳もある。

さらに、高台を南に豊田市美術館に向かう。
博物館と美術館の間にある木々のまばらな植え込み地帯(写真)は、私が研究対象とした霊視認者が霊的にとても気持ちがいいと言っていた所。
また美術館一帯は挙母藩の挙母城跡であり、石垣の上に屋根のある櫓が復元されている。


豊田市美術館にも入る(常設展のみ300円)。
常設展のスペースは小さいが、エゴンシーレ、クリムト、ココシュカ、それに私が好きなミロの作品(各1点)が展示されており、自分のスマホからネット経由で音声の説明を聴ける。
美術館は、建物自体と広場も作品なので、館外も歩き回る。
ついでに、庭のある茶室(童子苑:美術館と同じ設計者)でお茶をいただく(菓子付き450円)
ここの庭にも水琴窟(多分常滑焼)があったが、地面下からの水滴音のエコーが聞きにくかったので、常滑にあったように耳に当てる竹竿があるといいとアドバイスしておいた。


次はみよし市立歴史民俗資料館
道沿いに目立つ三好稲荷の隣に入り口と駐車場があった。
ここは無料で、受付で市外に○と人数を記入するだけ。
資料館は大きくなく建物も古く、豊田市と比ぶべくもないが、研究紀要をきちんと発行していて、一般向けの資料冊子も販売している。
一階が常設展示で、二階は雛人形の企画展示だった。

みよし市は先史時代の遺跡が少ないが、5世紀以降の猿投窯の遺跡が市内に160箇所もあるという。
ということで、期待通り猿投窯が展示の中心だ。
それに展示の説明が全て載ってあるパンフレットがありがたい。
それによると、猿投窯は、日本に焼き物が伝わった5世紀の間に、愛知県の猿投山の南西麓に展開された。
その中で最も古いのは名古屋市千種区の東山公園付近で(ブラタモリでも紹介)、そこから東漸してみよし市に達したのが8世紀半ば以降。
ただ、平安時代(9世紀)になると、猿投から分離した瀬戸と常滑が発展して、10世紀後半には一旦ほとんど消滅するが、11世紀末から復活し、「中世猿投窯」として碗や小皿が大量生産される。
だが13世紀の末には再び消滅し、それっきりとなる。
その頃の猿投窯の工人たちはどうなったのかというと、それまで美濃風だった瀬戸焼が13世紀に猿投風になったことから、猿投の工人たちは猿投山を越えた瀬戸窯に移り、最終的には瀬戸焼(古瀬戸)に吸収されたらしい。
ということで猿投山に一番近いみよし市で、猿投窯の歴史を、実物とともに「学ぶことができた。

かように「ものづくり」愛知を堪能できるのが愛知の郷土博物館だ。


赤肉が不健康なことを認めない心

2025年03月10日 | 健康

健康関連の研究結果に対するネットの反応を見ると、
赤肉(獣肉)自体が不健康食であることを理解せず、加工肉にした場合の添加物が問題だと思い込む人が多い。
例えばソーセージやベーコンが健康に悪いという情報に接しても、
その原因を原材料の赤肉ではなく添加物のせいと書き込む(記事ではちゃんと赤肉が悪いと書いてあるのに)。

この頑固な思い込みは、赤肉は体を作るのに必須という文明開化期以降の発想と、
化学添加物は悪という高度成長期以降の発想がミックスして固定した状態(赤肉は善、添加物は悪)といえる。

赤肉は、ガンを含む成人病の要因となることは医学的にはすでに常識となっている。
なので大抵の医師や栄養士は、動物性タンパク質として白肉(鶏胸肉)や魚、あるいは鶏卵を勧める。
もちろん、致死的な悪影響ではないため、過剰に摂取しなければ、
食生活の一部として味わうことは構わない。
私自身、赤肉を忌避しておらず、特に豚肉はビタミンB類の効率的な摂取のため意識的に食べる。
ただ、動物性タンパク質を赤肉だけに頼る食生活(欧米人に多そう)はしない方がいい。
バーベキューが好きな人、外食が牛丼中心の人は要注意だ。
たんぱく質の取りすぎは腎臓にも負担をかけるし。

それと食品添加物を全て悪とみなすのも単純すぎる。
もし食品添加物(特に保存料)が全くなかったら、食中毒や食事を介した感染症が、昔のように激増するだろう。
※:過去、人類を一番殺してきたのは感染症をもたらす細菌だ。お釈迦様も徳川家康も食中毒で命を落とした。細菌は最も恐ろしい人類の敵であったことを忘れてはならない。
簡単にいうと、失う命より救う命の方が多い(=平均寿命を伸ばす)。
尤も、食の保存法は、添加物のような化学的方法のほかに、缶詰やレトルトのような物理的方法もあるので、添加物に頼りすぎないという選択肢は重要(昔からある”塩漬け”という方法は副作用があるので現代では不要)。

ちなみに、私個人は、もともと赤肉は好きでなく(幼少期は全くダメだった)、かといって鶏肉は今でも一番ダメで、魚もあまり好きでないので、自炊での動物性タンパク質は、鶏卵とチーカマが主。
両者の長所は、保存が効くのと、いろいろな料理に加えられる点(それに値段も手頃)。
後者は魚肉だが、まさに添加物と塩分が入っているのが難点。
ただ、原材料の点で赤肉由来のソーセージよりはマシかと思っている(添加物と塩分は同等)。
一方、植物性タンパク質は、大豆製品(納豆、豆腐、厚揚げ、味噌、枝豆)が大好きなので、こちらは充分に摂取している。


スウェーデンボルグが見てきた霊界(天国・地獄)

2025年03月09日 | パワー・スピリチュアル

史上最も詳しく霊経験をしたスウェーデンボルグによる霊界の様子は、キリスト教会で教えられていたものとも、また(彼自身は言及しなかったが)仏教界で教えられているものとも違っていた。
以下、スウェーデンボルグが記した霊界の様子を記す(私が信じているわけではない)。


まず、この世で生命を終えた死者は、肉体から離れて霊だけとなる(生者=肉体+霊)。
この部分は、古代ギリシャの霊肉二元論や古代中国の魂魄論と共通だが、この先がこれらとも異なる。

死んだばかりの霊が行く先は、精霊界という、いわば未決囚の待機所のような場所。
そこで霊は人間から霊として完全に切り替わった後、本来の行き先である天界か地獄(界)に行く。

すなわち、霊界は、精霊界・天界・地獄界の3界構成になっている点が従来の”思想”と異なる。
精霊界の霊は仏教での”未成仏霊”に相当する。
そして、次がポイントだが、天界か地獄に行くのを決めるのは、神でも閻魔様でもなく、霊自身である点。
すなわち、意に反して地獄に落とされるのではなく、好んで地獄を選ぶ霊たちがいるのだ。
その理由は、既存の宗教が想定しているような、生前に犯した罪に対する罰として地獄があるのではなく、生前の人間性によって、悪や争いを好む性向になった霊が、その性向に合った世界として地獄を選ぶのだ(地獄で責苦にあうのではなく、その劣悪な世界が快適なのだ)
※:仏教の六道に当てはめると、罪を犯した者が行く地獄だけでなく、本能的欲求のまま生きる畜生、特定の欲求の追求を生きる目的にした餓鬼、他人を蹴落としたがる修羅の四道が相当する。多くの人間が当てはまりそうだ。六道の残りは我々が今生きている人間(じんかん)と、その一段上の。せっかく今回人間として生まれたのだから、次回は天に行きたい。

ちなみに天界は上位の天国と下位の霊国に分かれ、それぞれがさらに3層に分かれている。
地獄も大きく3層に分かれているため、計9段階の霊の行き先があるという。
これって仏教の極楽往生の九品(くほん)(上品上生〜下品下生)に偶然にも対応している感じ。

そして霊界の最上部である天国の上に、神に由来する太陽が輝き、その熱(愛)と光(知恵)が霊界全体に降り注ぐが、最下層の地獄にはほとんど届かない。
神的な眩いばかりの光体も「無量光仏」すなわち阿弥陀如来を彷彿させる。
この太陽からの光と熱すなわち”霊流”が霊界の霊たちのエネルギー源である。

天国の霊は、天使となる。
天使は、元人間のうち最も神に近づけた霊で、人間的な自己愛をまだ持っているものの、隣人愛を具現している。
まさに利他に生きる「菩薩」に相当する。
天国は互いに隣人愛を具現し合う所なので、人間が想像するような自己愛を満たす怠惰な楽園ではない。

以上が霊界の基本構造である。
ここで大切なのは、生前(人間)時代の行為(業)が、天国・地獄を決めるのではない、という点。
そこには、生前の信仰も含まれている。
すなわち、「敬虔なキリスト教徒だけが天国に行ける」などは盲説であり、霊界は生前の宗教信仰とは無関係で、スウェーデンボルグはキリスト教に嫌悪感を持った中国(清国)人とも地獄でない霊界で会っている。
重要なのは特定の信仰ではなく、普遍的な善行であるから。
むしろ、生前、敬虔なフリをして人々に盲説を振りまいた宗教家たちこそ地獄に落ちている。
霊界のあちこちを案内されたスウェーデンボルグ自身、パウロとルターを地獄で見たという
※:霊界での経験に基づいて独自の聖書解釈をしているスウェーデンボルグにとっては、人間界でのカトリックもプロテスタントも聖書を自分たちの都合のいいように曲解しているという。

人は死んで精霊界に行くと、肉体を維持する必要も、世間に合わせて自分を取り繕う必要もなくなるため、生前の自分の本質(本性=霊的部分)があらわになるという。
なので、口先だけで隣人愛を説いて、その実世間的な欲に満ちていた聖職者などは、霊界に行くとその本性だけとなるため、地獄の世界が本人に合っていることになる(本人は天国に行けると思っていたが、天使たちに拒否される)。

ただし霊界にいるのは人間だけで、動物はいない。
霊という存在に達したのは人間だけらしい
※:アダム以前の人たちが霊界(天界)にいるという。語学堪能なスウェーデンボルグによれば、ヘブライ語の創世記にはアダム以前の人たちの存在が示唆されているという。
木々はあるが、風景としてあるだけで、どうやら霊たちの表象力で映像化されたものらしい。
また霊界の霊たちは服を着ているが、それも自己表現として映像化したものらしく(相手に応じて着替えることも可能)、あえて裸でいる霊の集団もある。

以上からまずキリスト教で説かれるように、人は死んで最後の審判が訪れるまでは、天界に行くかどうか未定というものではなく、人は死んですぐに霊界に行き、地獄に行く者はその人間性によって自ら地獄を好むという。
仏教などのインド宗教が想定している”輪廻”は存在しない(ただし仏教は輪廻から脱するのが目標)
弥陀の極楽浄土も弥勒の兜率天もない(ただし風景的には天国は極楽浄土の描写と一致)。
ということは、霊界は死者が増える一方ということになる(スウェーデンボルグは天界で古代のアリストテレスやキケロとも会った。ちなみにいずれも非キリスト教徒)。
でも霊界(天界と地獄界)と人間界は空間を共有していて、霊は物理的空間を占有せず、界が違えば互いに見えないため、密度は増していない。
むしろ、最近(18世紀)は天国まで来る霊が減ったという。
近代になって物質的な欲に生きる人間が増えたせいらしい。
すなわち地獄が大繁盛している。


以上、霊界の基本構成を記した。
この中でスウェーデンボルグが知らない仏教との照合もいくつか可能だった(偶然の一致と思われる)。
次回は、霊と人間との接触や現代の日本の霊能者たちの話との照合などしてみたい。

→しかし スウェーデンボルグ終了

参考資料
スウェーデンボルグ(今村光一抄訳・編)『霊界I』、『霊界II』、『霊界III』 中央アート出版社
※:終了後に思えば、この抄訳の選択が良すぎた。


霊界経験者スウェーデンボルグから出発

2025年03月08日 | パワー・スピリチュアル

霊の研究に対する私のスタンスは、経験に基づく現象学的探求であって、
頭でこしらえた”物語”、すなわち既存の宗教的・神話的言説には目もくれず、
霊現象についての経験のみをデータとする。

となると、霊界に幾度も往復してその経験を記したという18世紀のスウェーデン人、エマヌエル・スウェーデンボルグ(右肖像(Wikiより))を無視できない。
※:現地読みではエマヌエル・スヴェーデンボリ
それどころか、霊界についての最も緻密な記録として、最も重要な資料になるくらいだ(霊界の挿絵も描いている)。→スウェーデンボルグという先駆者

ただ今から300年前の人なので、一般論として頭の中が科学よりは宗教に偏っている可能性があり、言説の信憑性が気に掛かる。
確かに彼の父はスウェーデン教会の大司教だが、彼自身は、科学者として数々(ノーベル賞級)の業績を残しており、とりわけ大脳皮質の機能の研究については先駆的で、現代で言えば第一級の脳科学者だ(心は脳に宿るという発想から出発)。

その彼が、自身の後半生を霊界についての著作に捧げたのは、彼自身の長く深い霊界経験による。
その経験によると、霊界は既存のキリスト教が語っているもの(=物語)とは全く異なっており、そのため、人が死後に天国か地獄に分かれて行く本当の理由を人々に知らしめる使命を感じたからだ(この話題は次回の記事で)。

その理由と結果的には繋がるのだが、私はスピリチュアルの世界に接近したことで、自分の生き方のスタンスが変化し始めている。
それは晩年を迎えた者にとっての「生きる目的」の再構成の問題である。
まず、若い時のような「現世での目標達成」ではなくなる(あるものは達成し、あるものは諦めた)。
その結果、現世しか視野にないと、生きる目的を喪失しそうになるのだが、
霊的現象と関わった結果、生きる目的が、死後を見越した「霊的成長(霊格の向上)」に固まってきた。

そしてスウェーデンボルグの霊界での体験談を読むと、現世の人間の生き方が死後の霊格を左右することがわかった(これは単純な業(カルマ)の論理ではない)。
※霊は生前も死後も人間の本体であり、生前は肉体が付与しているが、死後は霊だけとなる。

今後、スウェーデンボルグの体験談をベースに、現代の霊能者たちの言説を交えて、霊現象についての考察を進めていきたい。
ただし、私は霊界の存在を信じているわけではない。
先入観としての信不信を保留して、虚心に現象に立ち向かってみるのだ。
これは「計測マン」としての態度と同じ。

ウェーデンボルグが見てきた霊界


東京の国会図書館であんかけスパ

2025年03月07日 | 東京周辺

東京にいるときは、午前中から(国会議事堂の隣にある)国会図書館に通っている。
昼食は館内にある3つの店のうち、ほとんどの場合は旧館3階の「NORTH CAFE」を利用する。
ここはスープカレーを筆頭とした北海道テイストの定番メニューに加え、毎日3種類のランチがあり、バリエーションが豊かだからだ。

そして本日のパスタ、Cランチ(700円)は、なんと「名古屋風あんかけスパ」!
私が一番好きな名古屋メシである”あんかけスパ”が、東京の、しかも毎日通っている図書館で食べられるなんて!
それを知った昨日から楽しみにしており、今日は早めに入館して、開店時間早々に店へ向かった。

Cランチなので、最初にいつものスープとサラダが運ばれてくる。
それらを食べていると、鉄皿に盛られた焼きたてのあんかけスパが到着。
そう、あんかけスパは、まずスパゲッティをフライパンで軽く焼くのが特徴だ。
その上に特有のあんと具材が載っている。
具材はウインナー・マッシュルーム・玉ねぎなどで、これは名古屋のあんかけスパの定番「ミラカン」風だ(私の好み)。

本来はあんはスパの下に敷かれて、スパの上は具だけなので、あんかけ”風”スパか。
ただフォークでスパと具にあんを絡めて口に運ベば結果は同じ。

──しかし、味が違う。

名古屋のあんかけスパは、「ヨコイのソース」という専用ソースがベースになっているのだが、ここのあんにはその風味がまったく感じられない。
既存のナポリタンを粘り気のあるソースで絡めたような味わいで、あんかけスパ独特のコクがない。
このようにベースの味付けが独特なため、名古屋ではあんかけスパは専門店のメニューとなる。
しかも、あんかけスパだけで豊富なバリエーションが成立する。
あんかけスパが、ほかのパスタとは一線を画す、独自の領域であることを改めて実感した。

あんかけスパに挑戦した店の意気込みは称賛したいが、見た目を名古屋風に寄せるのが精一杯だった。
やはり、本物のあんかけスパは名古屋でしか味わえないようだ。

次回は、ここでお気に入りの「北海道チーズのオムナポリタン」を食べることにしよう。


確定申告終了

2025年03月05日 | 生活

昨日帰京し、雪上がりの冷たい雨が降る東京の自宅で、確定申告を済ませた(今年の締切は3月17日まで)。
毎年記事にしていることだが、最近はe-Taxというネット申告ができるので(スマホとパソコンとマイナンバーカードが必要)、とても楽でしかも間違えが起こらない(昔は自分で計算して申告書類に記入したので、間違えると後日、税務署から連絡が来た)。
※:以前の紙で税務署に提出していた頃に比べると「とても楽」だが、スマホアプリの「マイナポータル」でマイナンバーカードを読み取り、パソコンのe-Tax画面と連携させるのに手間取った。問題はマイナポータル(アプリの評価ランクが1点台と低い!)の画面の使いづらさで、e-Tax画面にあるチュートリアル映像を見ながら操作するといい。

個人事業主でなくなり、単なる単一給与生活者になって数年になるが、その間一度も休むことなく、毎年確定申告をしている。
なぜなら、毎年「還付金」をゲットできるから。

普通のサラリーマンであっても、私のように医療費控除と生命保険控除、寄附金控除の対象者は、勤務先が代行してくれる「年末調整」で終わらせるのではなく、きちんと確定申告すれば、その分、お金が手に入る(本当は天引きで取られすぎた税金の一部が戻ってくるだけ)。

私のように扶養家族の老母がいると、二人合わせて支払った医療費(薬代も含む)が毎年10万円を超える。
それに私個人の生命保険控除と寄附金控除を加えると、今年は5万円弱の還付となった
(還付金は4月にこちらが指定した口座に振り込まれる。この仕組みを知らない=確定申告をしたことがない人が、還付金詐欺に遭う)。

医療費の場合は一年分の領収書を対象機関別に集計してファイル添付する必要があるので、それらの準備作業はあるが、寄附金などは相手先から確定申告用の書類があらかじめ送られてくる。
これらの準備を含めても、申告作業自体がとても簡単になったので、時給1万円のネット入力バイトをしたようなもの(ネット申告なら、こちらが時間がある時に申告できる)。

なので、やらないともったいない(きちんと納税している国民の権利)。
だから皆さんに勧めるためにも、こうして毎年記事にしている→みんな確定申告すればいい


新たな霊探知機を装備

2025年03月04日 | 計測

私は、目に見えないものを測る「計測マン」でもある
※:”目に見えないものは存在しない”という主観主義とは正反対の、科学的かつスピリチュアル的態度。

主な計測対象は、大気状態、放射線、電磁波、水質(温泉)、人の心、パワースポットのパワー(とやら)、そして霊。

もちろん、それぞれに対する相応の計測器が武器だ。

その中で、霊については、「ばけたん」(お化け探知機)がメインで、
また音で探知する「スピリットボックス」も装備済み。

そして今回、新たにラジオ波マイクロ波(〜3.5GHz)を計測する装置が加わった。
これは、いわゆる電磁波計の一種。
もともと霊は電磁波と干渉するようだが(経験済み)、通常の家庭内の電磁波(ELF:超低周波)ではなく、より高周波のラジオ波(RF)やマイクロ波のほうが霊と相性がいいらしい(上のスピリットボックスもラジオ波帯で霊の声をキャッチするもの)。
言い換えればELF対象の電磁波計だと、電気製品(50-60Hz)に反応してしまう一方、霊を捉えるには周波数が低すぎるようだ。

ELFと赤外線の間のマイクロ波は、携帯電話(800MHz-2GHz)や電子レンジ(2.45GHz)の周波数帯に該当する。
そこで電子レンジを作動させて扉近くでマイクロ波を測ったら、針が振り切れた(アナログ的表現)。
これから電子レンジ以外で、針が反応する場所を探してみたい。


追記:この装置をONにして外出してみた。
屋外では、磁界も電界も計測されなかったが、RF/マイクロ波モードでは常に一定以上の値を上下していた(5mW/m^2以下なら問題ないが、時には10mW/m^2を超えて警告が出る)。
携帯電話の電波が飛びかっているためだろう。
とりわけ地下鉄のホームで高かった。


恵那峡国際ホテルの温泉計測

2025年03月03日 | 温泉

東濃の恵那峡の辺(ほと)りにある「恵那峡国際ホテル」は、このブログでも2度も見直した評価上昇の宿なのだが、
その高評価の一番のポイントである温泉の”濃さ”ついて、その指標の1つの電気伝導度の値は、過去の記事では当時使っていた水質検査器の都合で”計測不能”だった結果のままになっていた。→その記事
※:「湯快リゾート」という安宿チェーンの1つだったが、そこが「大江戸温泉物語」と合併して「大江戸温泉物語」のチェーンの1つとなった。サービスに大きな変更はないがビュッフェバイキングは質素になった感。

その時の測器は通常(低張性)の温泉用で、ここのようにとりわけ濃い(高張性)と桁が違って計測範囲外となってしまうのだ。

そこで、計測範囲が広い水質検査器を購入し、本日、年度末の慰労の温泉旅としてこの宿に投宿したので、早速、大浴場の湯口でサンプルを取り、その計測結果を示す。
まず温泉の泉質は「カルシウム・ナトリウム塩化物泉」。
大抵”高張性”の温泉はナトリウム泉だ。

実際、湯に口をつけると、それだけで塩っぱさを感じる。
なのでまず知りたい塩分濃度は1.68%(計測時の水温は28.8℃)。
この濃度は味噌汁だと濃すぎる値(煮物に匹敵)。

酸化還元電位(ORP)は、+803mV と酸化側に傾いている。
ただ酸度(pH)は7.16とど真ん中で中性(源泉は弱アルカリ性なのでこれらは殺菌のための塩素混入効果だと思われる)。

そして前回計測不能だった電気伝導度(EC)は、通常の単位のμSではなく、その千倍のmS単位に自動変換されて28.9と出た。
すなわち他の温泉と同じ単位で示すと、28900μSとなる(他所より1桁多い)。

温泉の濃度は溶存物質の量で決まるので、その値である総溶解固形物(TDS)は、これも通常の単位ppmではなくその千倍の単位で14.4pptと出た。
ppmで示すと14400ppm(これも1桁多い)。

以上の温泉の濃さの指標(EC,TDS)では、ここの温泉の濃度は、私が気に入っている同じ東濃の中津川温泉より5倍は濃い。
日本の温泉で最も多い「単純泉」、すなわちそこらの日帰り温泉の10倍は悠にある。
簡単に言うと、”味噌汁より濃い”温泉なのだ。
ただ、注意してほしいのは、同じ”恵那峡の温泉でも宿ごとに源泉をもつため、宿によって濃さが全然違う。
私があえて宿名をタイトルに挙げているのはそれが理由。

温泉がここまで濃いと、浸透圧がすこぶる高いので、湯の成分(カルシウム、ナトリウムなど)が肌から体内に浸透していく。
というわけで温泉目当てなら、あえてここに泊まる価値がある
※:ただし食事は(バイキング)については、伊豆・関東中心の安宿チェーン「伊東園」に逆転され、さらに差が広がっている感。