今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

スウェーデンボルグが見てきた霊界(天国・地獄)

2025年03月09日 | パワー・スピリチュアル

史上最も詳しく霊経験をしたスウェーデンボルグによる霊界の様子は、キリスト教会で教えられていたものとも、また(彼自身は言及しなかったが)仏教界で教えられているものとも違っていた。
以下、スウェーデンボルグが記した霊界の様子を記す(私が信じているわけではない)。


まず、この世で生命を終えた死者は、肉体から離れて霊だけとなる(生者=肉体+霊)。
この部分は、古代ギリシャの霊肉二元論や古代中国の魂魄論と共通だが、この先がこれらとも異なる。

死んだばかりの霊が行く先は、精霊界という、いわば未決囚の待機所のような場所。
そこで霊は人間から霊として完全に切り替わった後、本来の行き先である天界か地獄(界)に行く。

すなわち、霊界は、精霊界・天界・地獄界の3界構成になっている点が従来の”思想”と異なる。
精霊界の霊は仏教での”未成仏霊”に相当する。
そして、次がポイントだが、天界か地獄に行くのを決めるのは、神でも閻魔様でもなく、霊自身である点。
すなわち、意に反して地獄に落とされるのではなく、好んで地獄を選ぶ霊たちがいるのだ。
その理由は、既存の宗教が想定しているような、生前に犯した罪に対する罰として地獄があるのではなく、生前の人間性によって、悪や争いを好む性向になった霊が、その性向に合った世界として地獄を選ぶのだ(地獄で責苦にあうのではなく、その劣悪な世界が快適なのだ)。

ちなみに天界は上位の天国と下位の霊国に分かれ、それぞれがさらに3層に分かれている。
地獄も大きく3層に分かれているため、計9段階の霊の行き先があるという。
これって仏教の極楽往生の九品(くほん)(上品上生〜下品下生)が偶然にも対応している感じ。

そして霊界の最上部である天国の上に、神に由来する太陽が輝き、その熱(愛)と光(知恵)が霊界全体に降り注ぐが、最下層の地獄にはほとんど届かない。
神的な眩いばかりの光体も「無量光仏」すなわち阿弥陀如来を彷彿させる。
この太陽からの光と熱すなわち”霊流”が霊界の霊たちのエネルギー源である。

天国の霊は、天使となる。
天使は、元人間のうち最も神に近づけた霊で、人間的な自己愛をまだ持っているものの、隣人愛を具現している。
まさに利他に生きる「菩薩」に相当する。
天国は互いに隣人愛を具現し合う所なので、人間が想像するような自己愛を満たす楽園ではない。

以上が霊界の基本構造である。
ここで大切なのは、生前(人間)時代の行為(業)が、天国・地獄を決めるのではない、という点。
そこには、生前の信仰も含まれている。
すなわち、「敬虔なキリスト教徒だけが天国に行ける」などは盲説であり、霊界は生前の宗教信仰とは無関係で、スウェーデンボルグはキリスト教に嫌悪感を持った中国(清国)人とも地獄でない霊界で会っている。
大切なのは特定の信仰ではなく、普遍的な善行であるから。
むしろ、生前、敬虔なフリをして人々に盲説を振りまいた宗教家たちこそ地獄に落ちている。
霊界のあちこちを案内されたスウェーデンボルグ自身、パウロとルターを地獄で見たという
※:霊界での経験に基づいて独自の聖書解釈をしているスウェーデンボルグにとっては、人間界でのカトリックもプロテスタントも聖書を自分たちの都合のいいように曲解しているという。

人は死んで精霊界に行くと、肉体を維持する必要も、世間に合わせて自分を取り繕う必要もなくなるため、生前の自分の本質(本性=霊的部分)があらわになるという。
なので、口先だけで隣人愛を説いて、その実世間的な欲に満ちていた聖職者などは、霊界に行くとその本性だけとなるため、地獄の世界が本人に合っていることになる(本人は天国に行けると思っていたが、天使たちに拒否される)。

ただし霊界にいるのは人間だけで、動物はいない。
霊という存在に達したのは人間だけらしい
※:アダム以前の人たちが霊界(天界)にいるという。語学堪能なスウェーデンボルグによれば、ヘブライ語の創世記にはアダム以前の人たちの存在が示唆されているという。
木々はあるが、風景としてあるだけで、どうやら霊たちの表象力で映像化されたものらしい。
また霊界の霊たちは服を着ているが、それも自己表現として映像化したものらしく(相手に応じて着替えることも可能)、あえて裸でいる霊の集団もある。

以上からまずキリスト教で説かれるように、人は死んで最後の審判が訪れるまでは、天界に行くかどうか未定というものではなく、人は死んですぐに霊界に行き、地獄に行く者はその人間性によって自ら地獄を好むという。
仏教などのインド宗教が想定している”輪廻”は存在しない(ただし仏教は輪廻から脱するのが目標)
弥陀の極楽浄土も弥勒の兜率天もない(ただし風景的には天国は極楽浄土の描写と一致)。
ということは、霊界は死者が増える一方ということになる(スウェーデンボルグは天界で古代のアリストテレスやキケロとも会った。ちなみにいずれも非キリスト教徒)。
でも霊界(天界と地獄界)と人間界は空間を共有していて、霊は物理的空間を占有せず、界が違えば互いに見えないため、密度は増していない。
むしろ、最近(18世紀)は天国まで来る霊が減ったという。
近代になって物質的な欲に生きる人間が増えたせいらしい。


以上、霊界の基本構成を記した。
この中でもスウェーデンボルグが知らない仏教との照合もいくつか可能だった(偶然の一致と思われる)。
次回は、霊と人間との接触や現代の日本の霊能者たちの話との照合などしてみたい。

参考資料
スウェーデンボルグ(今村光一抄訳・編)『霊界I』、『霊界II』、『霊界III』 中央アート出版社