伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

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2015-08-09 23:18:36 | 戦争遺跡

8月9日。

日本に2発目の原爆が落とされた日。

なぜ?

その「なぜ?」は

 落とした訳。

 第一候補の京都が外されたことについて調べた理由は8/6に記した。

 その京都と広島と長崎に共通していることは、

    当時の人口は日本全国では多かったこと。(現在の政令指定都市の仙台、千葉よりも多かった。)

    三菱製鋼所や三菱兵器工場などの軍需工場施設、当時の主力産業の造船があったため。

 その造船も、零戦を開発した三菱重工業(三菱造船と三菱航空機が合併)の手になるものだ。 

 十分に候補地になる要素を満たしている。

 

ただ、軍需工場を破壊するだけならば原子爆弾の必要性はない。

また、ヒロシマの戦果(アメリカにとって)を確認しているのだから、普通ならば爆弾の威力は落とすだろう。

使用されたファットマンは、リトルボーイの1.5倍の威力を持っていたこと。

そしてその構造がリトルボーイがウラン濃縮型(ガンバレル型)だったのに対し、プルトニウムを使ったインプロージョン方式という小型化と核分裂の効率図るための方式が採用された。

もっともヒロシマ意外は核実験も含めて、インプロージョン方式が使われたという。

ヒロシマについては投下前の実験がされていないことから、事実上の爆破実験だったといえる。

組み立ては簡単だが、大量のウランを必要とすることから、爆破検証実験で使用する余裕がなかったとされる。

 

前に、ヒロシマの戦果を見てから、ファットマンを組み立てて、より一層の破壊を図ったと書いたが、新しく知った事実からみてそれもどうやら違うようだ。

インプロージョン方式の核爆弾実験は1945年の7月16日に行われていたのだ。

 

さて長崎の投下では、第一目標の小倉で爆撃経路進入に3回失敗している間に天候も悪くなり迎撃機も確認されたことから目標を長崎市に変更したという。

ファットマンを積んだボックスカーはテニアン島を離陸する時から、燃料予備タンクのポンプが故障していたので、残燃料に余裕がなかったという。

よって爆撃航程をやり直す余裕はなく、1回目の爆撃航程の際に雲の切れ間から目視できた地点に原爆を投下した。

それが浦上だ。



長崎の原爆公園。グラウンドゼロ(爆心地)  2011.08.05 → Map



爆心地脇にある浦上天主堂遺構


私は日本人として、唯一被爆国になってしまった時の遺構は残して欲しかった。 

ヒロシマのようにありのままの形で遺構を残すことができなかったことが悔やまれる。

もっとも、広島の新聞は「自分のアバタ面を世界に誇示し同情を引こうとする貧乏根性を、広島市民はもはや精算しなければいけない」

として取り壊しの意見も多かったようだ。



遺構の一つ、一本足鳥居



鳥居の吹き飛んだ部分は、傍に集めて屋外展示されている。


解説板



長崎には広島にあるような原爆慰霊碑はないようだ。平和記念像がそれにあたるか・・・


広島の石碑前面の文を使わせていただくが

   「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから

ではなく、今を生きる私たち、そして後の人たちの糧にしなくてはならないということである。

曖昧模糊とされている歴史的事実を学ぶ機会が訪れることを願っている。

コメント
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