銅精錬における煙害とは,鉱石中の硫黄が亜硫酸ガスとして排出され,周辺の農地山林に被害を与えた。
この時は八角煙突という低煙突が使用されていた。
その排煙の中には,鉱石,金属の粉末化したものも混じる。
つまり,銅の生産拡大が,そのまま煙害を激化させたのだ。
それは,鉱山周辺の1町8村に及んだ。
そして当時は足尾鉱毒事件が社会問題として取り上げられたいたこともあり,日立鉱山側は早期の被害補償に当たった。
煙害を防ぐには,亜硫酸ガスの濃度を被害が出ない程度にまで薄めるか除去するかが必要だ。そしてこの2つの排煙防止策を進めた。
日立鉱山では1911年(明治44年)6月に排煙中の亜硫酸ガスから硫酸製造が可能となった。
しかし当時はまだ化学工業が未発達であり、硫酸を使用する工場(化学肥料・化学繊維)も日本国内には無かったため、硫酸は思うように売れなかった。
明治末期から大正初期に撮影された神峰煙道と八角煙突。 2008.12.28日鉱記念館にて
排煙中の亜硫酸ガス濃度を低下させるために排煙を空気で薄めて排出することが考えられた。
1911年(明治44年)5月に神峰煙道という,総延長約1630メートルに及ぶ、高さ約2.1メートル、幅約3.6メートルの鉄筋コンクリート製の排煙施設を作った。
煙道中に送風機を設けて排煙を送り込み、煙道に開けられた十数か所の穴から排出させることで薄めるのだ。
ところが排煙が空気よりも重かった。
煙は住民を襲ったのだ。
日立銅山(久原鉱業所)の総師,久原房之助は頭を抱えた。
アイディアはあったのだが,政府から「排煙ガス濃度制限命令」が出され、政府の意向に沿った排煙対策を実施せざるを得なくなったためだ。
そしていよいよアホ煙突(第三煙突)の登場である。