閉山ということで,日立鉱山は遺構になってしまったのである。
ところが,こういう記念館があれば当時の様子を知ることができてありがたい。
さて,展示は建物のなかだけではないようだ。
お父さんと一緒に,ゆっくりと回って見たことを思い出す。
まずは,創業者の久原房之助(くはらふさのすけ)氏に触れてみたいと思う。
閉山ということで,日立鉱山は遺構になってしまったのである。
ところが,こういう記念館があれば当時の様子を知ることができてありがたい。
さて,展示は建物のなかだけではないようだ。
お父さんと一緒に,ゆっくりと回って見たことを思い出す。
まずは,創業者の久原房之助(くはらふさのすけ)氏に触れてみたいと思う。
日鉱記念館入り口
なんとも趣向を凝らしたモニュメントである。
ここは,お父さんの子供の頃の思い出が詰まっているのである。
今から110年以上前に創業した日立鉱山の中でお父さんは育ったのである。
もっともここを訪れたのが2008年12月だから10年も前になるが,それでも100年経っているのである。
この時,お父さんは定年を迎えて1年経っていた。
いつも柔和なお父さんだが,拳法の達人でもある。
どうしても自分の故郷を見せたいという思いから,ゆきたんくに声をかけていただいて光栄である。
日本四大銅山(足尾…栃木,小阪…秋田,別子…愛媛)の一つとして,1981年の閉山までの76年間、日本の近代化と経済成長に貢献してきたのだ。
そして実際には大煙突だけの手柄ではなかったが,「理化学的手法による亜硫酸ガス処理の完成」により,煙害問題を終結させた功績は輝かしいものであった。
これこそ,教科書に載せてこれからの子どもたちに希望を持たせることの一助になるのではないだろうか。
そして,「世界一」もキーワードの一つだろう。
茨城県日立市の旅は,日立が故郷であるココフカメンバーのお父さんのリクエストで行ったのである。
子どもの頃の思い出が,大煙突でありアホ煙突なのだ。
また,氏の勧めで日鉱記念館に足を運んだ。
そこまでの道中にある杉も幼い時の思い出だという。
名前は「本山の一本杉」という。
これを登下校の時に見ていたんだと。
道路の真ん中に立っているのが良い。 → Map
そう,このような文化財として残すのが保存には良い。
注連縄までしてあって,地元の方々の愛情を感じる。
かつての高さ世界一の大煙突
能書きばかりで大煙突の話があまりないではないか。
と言われている訳ではないが,その通りである。
かつて世界一を誇った日鉱の大煙突の写真を見てほしい。
いまでこそ,日本には世界一の高さを誇るスカイツリーがあるが,これは大正初期のお話。
昭和,平成ときてもうその平成も終わろうとしている,そんな前のお話だ。
1993年までは,この状態で立っていた。
生で見たかったものである。
これも松戸市旭町。
旧六和クリーンセンターの煙突がまた短くなっていた。
ゆきたんくがいつもガソリンを給油する松戸市七右衛門新田のスタンドからの風景である。
短くなった2本の煙突。 → Map
よく見ると周囲の建物も撤去が進んでいるようだ。
こんな煙突だったんだよな。
今日は土曜日。
拙ホームページの子ページ,「旅たんく」の写真整理をし,ギターの練習をした後は友人とお茶。
ざっかけない話が,日頃の疲れを取ってくれる。
何気にコメダファン
寒くなってきたので,温かいたっぶりカフェオレをいただく。
そして帰り道。
自宅までの動線に両親宅があるのでそこを通る。
松戸市旭町の狭い道を通ってね。
あっ両親宅ってお墓のことなのである。
これで3回目の出来事に出会ってしまった。
夜道を照らしドライビングのゆきたんく。「ん・・・?」
いたいた。
一応,飛び去るのを待って,この道を通った。
よくよく待ち伏せされているのね。
いやいや,この鳥さんの生活圏をゆきたんくが自動車で走っているだけなのだね。
前回はアホまでしか書かなかったので,今回は正式名称を載せる。
いや,正式名称は「第三煙突」であった。
小学校の子供達も煙害による咳で苦しんでいた。
政府の命令によって建設されたこの煙突は、農商務省に提出された計画書内では第3煙突という名称が付けられていた。
しかし,その名前で呼ばれることはほとんどなかった。
ずんぐりしたその形状から「タンク煙突」,「ダルマ煙突」、また政府の命令によって建設されたため「命令煙突」と呼ばれた。
しまいには政府の命令に従って日時と費用を費やして建設したのにも関わらず、全く煙害軽減に役立たなかったために「阿呆煙突」と呼ばれるようになった。
阿保煙突は大煙突の使用開始後に廃止された。
廃止後、第3煙突は神峰煙道とは異なり、取り壊されること無く残っている。
久原房之助像…日鉱記念館 2008.12.28
久原房之助(くはら ふさのすけ)は日立製作所,日産自動車,日立造船,日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)の創業者だ。
阿保煙突を残したのも,「無能な政府の所業を残せ。」という久原の一言があったからだという。
足尾銅山と異なり,この後の大煙突の登場により煙害は激減した。
もっとも大煙突だけでなく,その他の工夫もあったのだ。
それは後で述べることにする。
「酒保」って,現在はほとんど使われていない言葉だから知っている方は少ないだろうな。
酒保(しゅほ)というのは,「兵営内・艦内にある兵士相手の日用品・飲食物などの売店。」のことを言う。
ゆきたんくは戦争遺跡おたくでもある。
そして,同好の士に一緒に旅行する仲の良い奴もいる。
その彼の家の近くに,自動販売機がある。
ここはゆきたんくの通勤経路でもある。
友人宅は勝手に友人の名前を付けて「○○基地」とか呼んでいるのだ。
そうそう酒保の話だった。
先の自動販売機は○○基地の近くにある。
また友人の名前を取って○○酒保と名前を付けているのだ。
〇〇酒保。お値段少し安めの自動販売機。
ここのお値段は少し安めだが,実際に酒保も「日用品・嗜好品を安価で提供していた」のであるから,共通点はある。
水分補給にはもってこいである。
いいねぇ。
自分のデスクに戻ると置いてある。
ありがたいね。
キーボードの上には自分で置いたのですよ。
はっきり言って,見ただけで疲れが取れるんだ。
心から感謝。
銅精錬における煙害とは,鉱石中の硫黄が亜硫酸ガスとして排出され,周辺の農地山林に被害を与えた。
この時は八角煙突という低煙突が使用されていた。
その排煙の中には,鉱石,金属の粉末化したものも混じる。
つまり,銅の生産拡大が,そのまま煙害を激化させたのだ。
それは,鉱山周辺の1町8村に及んだ。
そして当時は足尾鉱毒事件が社会問題として取り上げられたいたこともあり,日立鉱山側は早期の被害補償に当たった。
煙害を防ぐには,亜硫酸ガスの濃度を被害が出ない程度にまで薄めるか除去するかが必要だ。そしてこの2つの排煙防止策を進めた。
日立鉱山では1911年(明治44年)6月に排煙中の亜硫酸ガスから硫酸製造が可能となった。
しかし当時はまだ化学工業が未発達であり、硫酸を使用する工場(化学肥料・化学繊維)も日本国内には無かったため、硫酸は思うように売れなかった。
明治末期から大正初期に撮影された神峰煙道と八角煙突。 2008.12.28日鉱記念館にて
排煙中の亜硫酸ガス濃度を低下させるために排煙を空気で薄めて排出することが考えられた。
1911年(明治44年)5月に神峰煙道という,総延長約1630メートルに及ぶ、高さ約2.1メートル、幅約3.6メートルの鉄筋コンクリート製の排煙施設を作った。
煙道中に送風機を設けて排煙を送り込み、煙道に開けられた十数か所の穴から排出させることで薄めるのだ。
ところが排煙が空気よりも重かった。
煙は住民を襲ったのだ。
日立銅山(久原鉱業所)の総師,久原房之助は頭を抱えた。
アイディアはあったのだが,政府から「排煙ガス濃度制限命令」が出され、政府の意向に沿った排煙対策を実施せざるを得なくなったためだ。
そしていよいよアホ煙突(第三煙突)の登場である。
日本の高度経済成長期に「公害」による住民への大きな被害が発生した。
ゆきたんくが10歳の頃,水俣病,第二水俣病,四日市ぜんそく,イタイイタイ病という名前をよく聞いた。
それらは四大公害病と呼ばれていたのだ。
それより,65年前に日立鉱山の銅精錬による煙害が起こっていた。
それを防ぐために建設されたのが煙突である。
手前(第三煙突…アホ煙突)とかつて155mあった煙突(現在54m) 2008.12.28
第三煙突ができる前には,神峰煙道、八角煙突が造られていたが,煙害を減らすことはできなかった。
そして大正初期に第三煙突が造られたのだ。
なぜ,第三煙突がアホと呼ばれ,大煙突がヒーローなのか。
仕事はお休み。
そう三連休だ。
金土日とお休み。
そんな時,夕方に仕事を終えた友人からお誘い。
友人「リバーサイド行こう。」
ゆきたんく「ん?」
なんのこっちゃ。
川岸?
友人「お店だよ~」
ゆきたんく「じゃ,行こう。」
車で40分くらい。
カナディアンハウスかな。 → Map
良い雰囲気のお店。
メニューはみんな胃袋格闘技のような・・・
そう量がすごいのだ。
そして味もよろしい。
そうそう友達が食べたメニューがね。
ナポリタンとチキンライスで2㎏・・・
もっと若い時に知りたかったな。
秋川高等学校12期の聖地になったであろうに。
今日も仕事が終わった。
少し寿命が縮まった感じ。
最も,1日は寿命が縮まっていることは確かなのだ。
ただ,十分に有意義に過ごせたと思う一日だった。
充実した仕事ができた。
そう思っていると空も綺麗に見える。
西の空は赤い・・・
ところで誰だ。
こんなきれいな夕焼けを引っ掻いた奴は・・・