今朝、洗面を終えた後、玄関庭の軒下で、
西方の長崎に向いながら、手を合わして黙祷をした・・。
過日、6日の早朝のひととき、
旅先の宿泊先の観光ホテルの庭園で、
西方の広島に向かい、私は手を合わせた後、
そっと黙祷をしたのであった。
私は敗戦記念日の1年前に東京郊外で生を受けた身であり、
国民のひとりとして、被爆され、尊い命を亡くされた方にご冥福を、
或いは、被爆を受けて長き歳月に心身共に深く傷を受けられた方たちに、
少なくとも国民の責務として、秘かな黙祷をしている・・。
私は先程、買物と散策を終え帰宅した後、
昨年の今頃は・・とサイトに投稿した綴りを読み返していた・・。
【 『長崎の鐘』を聴くときには・・。】と題し、8月27日に投稿している。
私は昭和19年9月に東京の郊外で生を受けた。
昭和25年の頃に、自宅のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。
♪こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 】
私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。
♪なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 】
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。
翌年の夏、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この頃の時代は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。
近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』であった。
母に連れられて、初めて観た映画だった。
帰路、満天の星空が綺麗だった、ということが今でも残っている。
映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎の歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。
私は後年になると、作詞はサトウハチロー、作曲方は古関祐而と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井 隆は無知であった。
その後、このお方の人生経路を知り、涙で曇った。
♪召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 】
ここまで転記させて頂いているが、著者の永井 隆の人生を思い馳せると、
また瞼(まぶた)が熱くなってしまう。
国家の国益という怜悧の中、アメリカは広島に続き、
長崎にも原子爆弾を投下した。
思えば、7月26日に於いて、アメリカ、イギリス、ソビエトの首脳により、
『ポッタム宣言』で日本に降伏を勧告したが、
日本政府と軍の首脳部が混迷し、黙殺した結果となり、
8月6日に広島に続き、9日に長崎に投下された。
こうした事実を少しづつ知りはじめると、
なお一層、この歌は悲劇を通り過ぎて、悲惨な過去の実態にうっすらと涙を浮かべる。
私は年を重ねた62歳の身であるが、
ここ10数年、8月15日の敗戦日になると、
昼のひととき『長崎の鐘』を聴いて、平和の大切さをかみ締めている・・。
私は読み返して、拙(つたな)い綴りに恥らうが、
深い思いは変わらないのである。
そして、私は日本人のひとりとして生を受けたので、
多分ボケるまでは、沖縄戦が事実上集結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『敗戦記念日』だけは、
手を合わした後、黙祷をするのが、責務と確信しているので、
持続する意向である。
尚、8月15日は、『終戦記念日』と、どなたが名付けたかは無知であるが、
私はまぎれなく『敗戦記念日』と確信しているひとりである。
西方の長崎に向いながら、手を合わして黙祷をした・・。
過日、6日の早朝のひととき、
旅先の宿泊先の観光ホテルの庭園で、
西方の広島に向かい、私は手を合わせた後、
そっと黙祷をしたのであった。
私は敗戦記念日の1年前に東京郊外で生を受けた身であり、
国民のひとりとして、被爆され、尊い命を亡くされた方にご冥福を、
或いは、被爆を受けて長き歳月に心身共に深く傷を受けられた方たちに、
少なくとも国民の責務として、秘かな黙祷をしている・・。
私は先程、買物と散策を終え帰宅した後、
昨年の今頃は・・とサイトに投稿した綴りを読み返していた・・。
【 『長崎の鐘』を聴くときには・・。】と題し、8月27日に投稿している。
私は昭和19年9月に東京の郊外で生を受けた。
昭和25年の頃に、自宅のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。
♪こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 】
私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。
♪なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 】
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。
翌年の夏、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この頃の時代は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。
近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』であった。
母に連れられて、初めて観た映画だった。
帰路、満天の星空が綺麗だった、ということが今でも残っている。
映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎の歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。
私は後年になると、作詞はサトウハチロー、作曲方は古関祐而と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井 隆は無知であった。
その後、このお方の人生経路を知り、涙で曇った。
♪召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 】
ここまで転記させて頂いているが、著者の永井 隆の人生を思い馳せると、
また瞼(まぶた)が熱くなってしまう。
国家の国益という怜悧の中、アメリカは広島に続き、
長崎にも原子爆弾を投下した。
思えば、7月26日に於いて、アメリカ、イギリス、ソビエトの首脳により、
『ポッタム宣言』で日本に降伏を勧告したが、
日本政府と軍の首脳部が混迷し、黙殺した結果となり、
8月6日に広島に続き、9日に長崎に投下された。
こうした事実を少しづつ知りはじめると、
なお一層、この歌は悲劇を通り過ぎて、悲惨な過去の実態にうっすらと涙を浮かべる。
私は年を重ねた62歳の身であるが、
ここ10数年、8月15日の敗戦日になると、
昼のひととき『長崎の鐘』を聴いて、平和の大切さをかみ締めている・・。
私は読み返して、拙(つたな)い綴りに恥らうが、
深い思いは変わらないのである。
そして、私は日本人のひとりとして生を受けたので、
多分ボケるまでは、沖縄戦が事実上集結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『敗戦記念日』だけは、
手を合わした後、黙祷をするのが、責務と確信しているので、
持続する意向である。
尚、8月15日は、『終戦記念日』と、どなたが名付けたかは無知であるが、
私はまぎれなく『敗戦記念日』と確信しているひとりである。