私は机の中の引き出しに、一冊のノートがあり、
8月27日 詩人・童話作家の宮沢賢治の生誕の日、
と綴られていた。
そして、この下段には、
==>嵐山光三郎・著の『追悼の達人』(新潮文庫) 最重要
と記していた。
私は宮沢賢治が遺(のこ)された作品の多くは、
40数年前頃、文学青年の真似事をしていた時代、人並みに読んだりしていたが、
それ程、感銘を受けない人であったが、何かしら気になる人であった。
定年退職前の数年前、雪の降る時節に、花巻温泉に2泊3日であったが滞在して、
その折、宮沢賢治記念会館に行ったり、
付近を散策し、遺(のこ)された偉業は実感できたが、
何かしに不可解な面が残ったりしていた・・。
その後、一昨年の秋に、
遅ればせながら嵐山光三郎・著の『追悼の達人』(新潮文庫)を読み、
私は嵐山光三郎に導かれ、私なりに宮沢賢治の人生の軌跡を学んだのである。
そして、『無名な宮沢賢治が亡くなった後・・♪ 』
と題して、あるブログ・サイトに、投稿したりしている。
特にこの中で教えを受けたのは、
宮沢賢治は追悼によって世に出た、
と読んだ時は驚いたりした。
著作者の嵐山光三郎の格調たかい名文を無断であるが、引用させて頂く。
【・・
昭和8年、花巻で無名の詩人が急性肺炎で死んだ。
・・・
(宮沢)賢治の死は、詩人仲間の草野心平の手で友人たちに知らされたのみであった。
・・・
没後、唯一、次郎社より「宮沢賢治追悼」雑誌が出た。
草野心平が逸見猶吉と企画した同人雑誌「次郎」が形を変えて出版された追悼集で・・・
この薄い一冊の追悼文集に寄り、宮沢賢治への評価の起爆剤となった・・・
・・】
生前の彼は、『春の修羅』、そして童話集『注文の多い料理店』を自費出版したが
まるで出廻らず、殆どの人はこの詩人の名を知っている人は少なかった、
と記載されている。
これは文学的な評価の側面であった。
そして、もうひとつ驚かされたのは、
宮沢賢治の人そのものであった。
【・・
賢治は花巻の富豪宮沢商会の息子である。
・・
東京を嫌いつつ東京にあこがれて9回も上京している。
農民を大切にしつつも「農民から芸術は生まれない」と言っている。
・・
理想主義者の裏に「お坊ちゃん」のわががまがある。
それらは賢治文学を理解するうえの条件であり、
賢治もまた矛盾だらけの人間である。
その「教育癖」ゆえに賢治を嫌う人もいる。
・・・
賢治にとって、生身の自分がさらされないことは幸運であった。
・・
詩人にとって死は有効であり、虚構に生きようとした賢治は、追悼によって生き返った。
詩人は裏技の魔法を使い、死者をよみがえらせてみせる。
・・
】
そして、著作者の嵐山光三郎は、
いまの日本詩壇に、無名詩人を発掘する第二の草野心平がいるだろうか・・
と結びの文として綴っている。
私は著作者の 嵐山光三郎の書物については、数多く発刊されているが、
ある程度は読んで折、愛読者のひとりである。
その上、現存されている作家の中で最も感銘を受け、
信頼を寄せている作家の方でもある。
私は俳句を詠(よ)んだり、詩を綴ったりする素養はないので、
やむえず散文で綴っている。
散文の世界といっても、確固たる根拠もなく、
独断と偏見が多い中、屈折した日々の半生を歩んできたが、
拙(つたな)いなりに、表現者のひとりとして、
ブログ等に投稿しているに過ぎないのである。
ときおり、宮沢賢治を思い浮かべたりする時、
私はあるサイトで知り得た人の詩に思い馳(は)せる時もある。
私はこの人の詩を読み、感じながら、
励まされたり、表現者のひとりとして喚起されたりしている。
その人も孤独で魂まで響きせながら自己格闘の中で、
ときおり、たぐい稀(ま)れ詩を表現している。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki
私は無名で無力な年金生活の身であり、
拙(つたな)い感性と感覚の持ち主であるが、
少なくとも、この方からは、私は宮沢賢治以上に感銘を受ける時がある。
8月27日 詩人・童話作家の宮沢賢治の生誕の日、
と綴られていた。
そして、この下段には、
==>嵐山光三郎・著の『追悼の達人』(新潮文庫) 最重要
と記していた。
私は宮沢賢治が遺(のこ)された作品の多くは、
40数年前頃、文学青年の真似事をしていた時代、人並みに読んだりしていたが、
それ程、感銘を受けない人であったが、何かしら気になる人であった。
定年退職前の数年前、雪の降る時節に、花巻温泉に2泊3日であったが滞在して、
その折、宮沢賢治記念会館に行ったり、
付近を散策し、遺(のこ)された偉業は実感できたが、
何かしに不可解な面が残ったりしていた・・。
その後、一昨年の秋に、
遅ればせながら嵐山光三郎・著の『追悼の達人』(新潮文庫)を読み、
私は嵐山光三郎に導かれ、私なりに宮沢賢治の人生の軌跡を学んだのである。
そして、『無名な宮沢賢治が亡くなった後・・♪ 』
と題して、あるブログ・サイトに、投稿したりしている。
特にこの中で教えを受けたのは、
宮沢賢治は追悼によって世に出た、
と読んだ時は驚いたりした。
著作者の嵐山光三郎の格調たかい名文を無断であるが、引用させて頂く。
【・・
昭和8年、花巻で無名の詩人が急性肺炎で死んだ。
・・・
(宮沢)賢治の死は、詩人仲間の草野心平の手で友人たちに知らされたのみであった。
・・・
没後、唯一、次郎社より「宮沢賢治追悼」雑誌が出た。
草野心平が逸見猶吉と企画した同人雑誌「次郎」が形を変えて出版された追悼集で・・・
この薄い一冊の追悼文集に寄り、宮沢賢治への評価の起爆剤となった・・・
・・】
生前の彼は、『春の修羅』、そして童話集『注文の多い料理店』を自費出版したが
まるで出廻らず、殆どの人はこの詩人の名を知っている人は少なかった、
と記載されている。
これは文学的な評価の側面であった。
そして、もうひとつ驚かされたのは、
宮沢賢治の人そのものであった。
【・・
賢治は花巻の富豪宮沢商会の息子である。
・・
東京を嫌いつつ東京にあこがれて9回も上京している。
農民を大切にしつつも「農民から芸術は生まれない」と言っている。
・・
理想主義者の裏に「お坊ちゃん」のわががまがある。
それらは賢治文学を理解するうえの条件であり、
賢治もまた矛盾だらけの人間である。
その「教育癖」ゆえに賢治を嫌う人もいる。
・・・
賢治にとって、生身の自分がさらされないことは幸運であった。
・・
詩人にとって死は有効であり、虚構に生きようとした賢治は、追悼によって生き返った。
詩人は裏技の魔法を使い、死者をよみがえらせてみせる。
・・
】
そして、著作者の嵐山光三郎は、
いまの日本詩壇に、無名詩人を発掘する第二の草野心平がいるだろうか・・
と結びの文として綴っている。
私は著作者の 嵐山光三郎の書物については、数多く発刊されているが、
ある程度は読んで折、愛読者のひとりである。
その上、現存されている作家の中で最も感銘を受け、
信頼を寄せている作家の方でもある。
私は俳句を詠(よ)んだり、詩を綴ったりする素養はないので、
やむえず散文で綴っている。
散文の世界といっても、確固たる根拠もなく、
独断と偏見が多い中、屈折した日々の半生を歩んできたが、
拙(つたな)いなりに、表現者のひとりとして、
ブログ等に投稿しているに過ぎないのである。
ときおり、宮沢賢治を思い浮かべたりする時、
私はあるサイトで知り得た人の詩に思い馳(は)せる時もある。
私はこの人の詩を読み、感じながら、
励まされたり、表現者のひとりとして喚起されたりしている。
その人も孤独で魂まで響きせながら自己格闘の中で、
ときおり、たぐい稀(ま)れ詩を表現している。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki
私は無名で無力な年金生活の身であり、
拙(つたな)い感性と感覚の持ち主であるが、
少なくとも、この方からは、私は宮沢賢治以上に感銘を受ける時がある。