この頃の私は独身であった上、アルバイトをしながら文学青年の真似事をしていたせいか、
社会人の一員にも中途半端な身でもあった。
こうした体験をしていたいか、夫婦の機敏な深淵を描いた『静物』(1960年)の作品は、うわべしか理解していなく、
作者自身が練馬区の住宅街から東京郊外の多摩丘陵に新居を構え、その周辺の情景、
家族がこの地に馴染んでいく牧歌的うつろいの『夕べの雲』(1965年)に素直に魅了されたのである。
しかし私は庄野潤三氏の文学には、この程度であり、
むしろ同じ第三の新人と称される遠藤周作、阿川弘之、安岡章太郎、北杜夫などの各氏の文学作品に魅せられる方が多く、
他の世代の作家の数多い作家に圧倒的に魅了されていた。
私は1970(昭和45)年の春、ある民間会社の大手に何とか入社できて、
文学青年の真似事を断念して、遅れた社会人として私なりに清進した。
私はサラリーマンをしていたが、ときおり他の作家の小説、随筆を本屋で見かけると、
購入して読んだりしていた。
1988(昭和63)年の春、本屋の棚に庄野潤三氏の『インド綿の服』の単行本を偶然に見て、
私は読みながら強く魅せられたのである。
作者のあとがきの後半にに明記されている通り、
《・・
「インド綿の服」が『群像』に載ったのが昭和56年10月で、
「足柄山の春」が昭和62年10月だから、まるむ6年たった。
長女一家が南足柄市へ越して行ったのは「インド綿の服」の出る前の年の春であるから、
長女一家からいえば、雑木林のなかの家で新しい環境に馴染みながら過した最初の7年間の生活が物語の背景となっている。
はじめは夫婦と三人の子供で出発したものが、途中から子供となった。
昭和62年12月
庄野潤三
・・》
注)作者の原文にあえて改行を多くした。
作者のご夫妻が、ご長女一家が南足柄市の雑木林の多い中で、新居を構えて、
たくましく日々を過ごされるを交流を描写されるのであるが、
私はご長女の感性に魅せられたのである。
そして作者自身が多摩丘陵で新居の生活をはじめた昭和30年代のなかば頃と思いを重ねて、
私も昭和53年の春に実家の近くに新居を構え、苦楽の日々も体験したので、
ご長女一家の日々を秘かに応援団のような心情となり、
心酔しがら精読したのである。
この後、私は庄野潤三氏の本を見かけるたびに、購入し、愛読したのである。
(つづく)
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社会人の一員にも中途半端な身でもあった。
こうした体験をしていたいか、夫婦の機敏な深淵を描いた『静物』(1960年)の作品は、うわべしか理解していなく、
作者自身が練馬区の住宅街から東京郊外の多摩丘陵に新居を構え、その周辺の情景、
家族がこの地に馴染んでいく牧歌的うつろいの『夕べの雲』(1965年)に素直に魅了されたのである。
しかし私は庄野潤三氏の文学には、この程度であり、
むしろ同じ第三の新人と称される遠藤周作、阿川弘之、安岡章太郎、北杜夫などの各氏の文学作品に魅せられる方が多く、
他の世代の作家の数多い作家に圧倒的に魅了されていた。
私は1970(昭和45)年の春、ある民間会社の大手に何とか入社できて、
文学青年の真似事を断念して、遅れた社会人として私なりに清進した。
私はサラリーマンをしていたが、ときおり他の作家の小説、随筆を本屋で見かけると、
購入して読んだりしていた。
1988(昭和63)年の春、本屋の棚に庄野潤三氏の『インド綿の服』の単行本を偶然に見て、
私は読みながら強く魅せられたのである。
作者のあとがきの後半にに明記されている通り、
《・・
「インド綿の服」が『群像』に載ったのが昭和56年10月で、
「足柄山の春」が昭和62年10月だから、まるむ6年たった。
長女一家が南足柄市へ越して行ったのは「インド綿の服」の出る前の年の春であるから、
長女一家からいえば、雑木林のなかの家で新しい環境に馴染みながら過した最初の7年間の生活が物語の背景となっている。
はじめは夫婦と三人の子供で出発したものが、途中から子供となった。
昭和62年12月
庄野潤三
・・》
注)作者の原文にあえて改行を多くした。
作者のご夫妻が、ご長女一家が南足柄市の雑木林の多い中で、新居を構えて、
たくましく日々を過ごされるを交流を描写されるのであるが、
私はご長女の感性に魅せられたのである。
そして作者自身が多摩丘陵で新居の生活をはじめた昭和30年代のなかば頃と思いを重ねて、
私も昭和53年の春に実家の近くに新居を構え、苦楽の日々も体験したので、
ご長女一家の日々を秘かに応援団のような心情となり、
心酔しがら精読したのである。
この後、私は庄野潤三氏の本を見かけるたびに、購入し、愛読したのである。
(つづく)
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