第一章
私は作家・瀬戸内寂聴さんから、書物を通して幾度も教示されきたので、
このサイトに於いても、数多く綴り投稿してきた・・。
たとえば、2005(平成17)年7月17日で、
【 こだわり・・。 】
と題して、投稿していた。
【・・
昨日の読売新聞で、『編集手帳』というコーナーがあるが、
色々と考えさせられた・・。
無断であるが、転記させて頂く。
《
瀬戸内寂聴。
村上春樹。
よしもとばなな。
いずれ劣らぬ当代の人気作家には、共通点がある。
文壇の登竜門といわれる芥川賞も、
流行作家への通行手形である直木賞も受賞していない。
昨年、19歳と20歳の芥川賞作家が誕生して話題になった時、
瀬戸内さんが本紙に寄せた一文は、
縁のなかった両賞への思いを語って印象が深い。
「この二つの有名な賞を受賞してなくても、
作家にはなれるという標本としての希少価値をひそかに誇っている」。
二つの賞が創設されて今年で70年になる。
第1回の石川達三(芥川賞)、川口松太郎(直木賞)以来、
受賞者の錚々たる顔ぶれがあればこそ、瀬戸内さんの言う無冠の「希少価値」も一層輝くのだろう。
(略)
心ひそかな矜持を語った瀬戸内さんの言葉には続きがある。
「(芥川賞と直木賞の)授賞式には、
どんな好意を持っている受賞者がいても出席したことはないし、
これからも出席しないであろう」と。
すでに独自の文学世界を築き、
仏につかえる心静かな境地にいる人の胸にも、
小さなわだかまりを刻印する。
伝統の魔力だろう。
》
以上が新聞記事であった。
私が東京オリンピックが過ぎた翌年の頃、
このお方が、瀬戸内晴美であった頃、私はひとつの小説を友人間で絶賛した。
1963(昭和38)年に発表した『夏の終り』であった。
そして、この作家の『花芯』、『女子大生・曲愛玲』等を読んだりした。
確かに《瀬戸内晴美・初期全集?》あった、と記憶する。
そして、『・・本は3000部程度が、純文学の世界だし、
それ以上売れた場合は、文学評価と違った要素である』、と綴られていたので、
私はびっくりした。
この人の昨今まで、新聞記事のように、
ある程度の世界を築かれても、わだかまり、があるのには、驚きを禁じえない。
人は、幾つになっても、達観が難しい、と今更ながら考えさせられた。
・・】
この後は、2006(平成18)年6月7日に於いては、
【 時が過ぎて・・♪ 】
と題し、投稿していた。
【・・
家内と10時前に自宅を出て、駅前まで出かけた。
川べりの遊歩道を歩き、隣接した処は区立の公園となって、季節の花で彩(いろど)っている。
家内は歯科医院で治療を受けている間、
私は『ドトール』でアイス・コーヒーを飲みながら、持参した1冊の本を読み始めた・・。
過日購入した水上 勉、瀬戸内寂聴の両氏の対談集が主体の『文章修行』(岩波書店)である。
水上 勉・氏に関しては、推理小説を5冊ほど除けば、殆どを愛読している。
35年前頃、私は成城学園の住宅街の外れにある古本屋に行く時に、
車椅子に乗ったお嬢さんを彼は車を押しながら前方から近づいてきた。
私は愛読者のひとりの立場であったが、
敬愛の意味で、思わず目礼をした。
氏も面識があったかしら、と想いだすかのような表情で目礼をした。
瀬戸内寂聴・女史に関しては、初期の作品は愛読していた。
1967(昭和42)年頃まで、確か瀬戸内晴美の名で作品を発表されていた。
こうした2人に対する想い、文学に対する真摯な対談、
と思われたので購入した一冊の本であった。
『ドトール』でアイス・コーヒーを飲み、煙草を喫いながら、読み込んだ。
両者は純文学からスタートし、やがて中間小説で著名となり、流行作家になったが、
その後、純文学に回帰する過程、動機に冠する発言に、思わず涙ぐんだりした。
帰路、家内と遊歩道を歩いていたら、
サクランポウの樹木が多く植わっている処を通り過ぎる時、
風が吹いており、豆粒ほどのサクランボウの実がはらはらと落ちて来た。
遊歩道は赤紫色の実が数多く散乱していた・・。
水上 勉・氏は故人となり、あの世に行かれたが、
彼が残こされた作品は、私は今後も数年おきに読んだりするだろう。
・・】
昨年の2008(平成20)年6月29日らになると、
【 改めて、瀬戸内寂聴さんから、教示され・・♪ 】
と題して、投稿している。
【・・
私は石原慎太郎、瀬戸内寂聴の両氏に寄る『人生への恋文~往復随筆~』(文春文庫)を読んでいるが、
両氏から人生の哲学のようなことを数多く学んでいる。
特に先程読んだ中で、瀬戸内寂聴さんの一節が深く心に残り、
温かみのある助言を頂ただけた、と私は感謝している。
私は瀬戸内寂聴さんとは、未知の人であり、
東京オリンピックの頃には、瀬戸内晴美の初期短編集を読み終え、
『夏の終り』の作品は、友人等に絶賛したひとりである。
その後、1945(昭和45)年に大手の民間会社に中途入社する時までは、
ある程度このお方の作品を読んでいたが、
その後は私なりに企業戦士の一員となり、このお方の作品から離れていた。
定年退職した後、水上 勉との共著の『文章修業』(岩波書店)で、
両氏の純文学の熱く深い思いを改めて学んだりしたのである。
このような決して愛読者とはいえない私であるが、
読んでいる一節に深く考えさせられ、限りない人生の助言を頂けた、
と思っているのである。
無断であり、引用させて頂ければ、
《・・
人間はひとりひとりがこの世に自分ひとりしか持っていない、
かけ替えのない個性と資質に、誇りを持って、世俗の常識に巻きこまれず、
わが道を独りでも行くという気概を失わないことが大切だと、
わたしもかねがね思っていました。
お釈迦さまの教えの中にも
「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
というのがあります。
わたしはの大好きなことばです。
・・》
「心に光を」ページ224から引用
注)原文よりあえて改行を多くした。
この一節の文章から、私は年金生活の4年生の身であるが、
残された人生の日々に陽光を頂いた、と思ったりしたのである。
そして、玄関の軒下で小雨降る情景を眺めていると、
ときには小雨は限りなく優しい、と確信を深めたりしている。
・・】
この後は、やはり昨年の2008(平成20)年9月19日におき、
【 40数年ぶりに、瀬戸内寂聴の小説を読みだし・・♪】
と題して、投稿している。
【
私は昨日の午後より、瀬戸内寂聴・著の『秘花』(新潮社)を読み始めて、
本日のひとときも読み、第四章の数ページで、小用の為にやむえず中断している。
私は民間会社を定年退職後、年金生活の身で、もとより能の素養がないが、
中世で能の大成者と知られいる世阿弥に興味を持ったのは、
東京オリンピックの頃からであった。
8月の初旬に3泊4日で、佐渡島に滞在旅行をする前、
瀬戸内寂聴・著の『秘花』を遅ればせながら本屋で購入したが、
あえて私なりの流刑となった世阿弥の佐渡の時代を思いを馳せたく、
未読としていたのである。
私は東京オリンピックの開催された頃、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしていた。
この当時の頃、瀬戸内晴美の『夏の終り』を読み終えて、
友人らに絶賛したりし、初期の作品の『女子大生・曲愛玲』、
『花芯』などの短編小説集を読み耽ったりしていた。
この後、『女徳』などで大衆文学を精力的に発表された後は、
私は瀬戸内晴美の小説から離れた。
私が25歳から民間会社に中途入社した後、
『美は乱調にあり』を本屋の店頭で見かけたが、タイトルの命名に魅了されたが、
購入する意志はなかったのである。
その後は、瀬戸内晴美は仏門に入った、と月刊総合雑誌などで知り、
私は有数の小説家なのにどうした心境なのか、と思ったりしていた。
そして、のちに晴美から寂聴と改名され、
私は少し寂しさを隠し切れなかったのである。
私は2004(平成16)年の晩秋に民間会社を定年退職をし、年金生活に入った頃は、
瀬戸内寂聴ご自身は、既に20年近く法話などされて、賞賛された人となり、
稀(ま)れな著名人となっていた。
私の年金生活は、身過ぎ世過ぎの日常であるが、
小説、随筆、現代史、歴史書などを読む時間を優先としているので、
本屋に寄ったり、ときおり古本屋を訪ねたりすることが多いのである。
数年前、本屋の店頭で、
水上 勉との対談集『文章修行』(岩波書店)を見かけ、購入し、
両氏の純文学の深い思いに、思わず涙を流したのである。
その後、石原慎太郎との往復書簡の『人生への恋文』(文春文庫)を読み終え、
瀬戸内寂聴の人生の軌跡を改めて知った上、日常の思いも知り、
数多くの人生の機敏を学んだのである。
ただ、このお方の真摯な数多く発表された中期、後期、そして近年作の小説は、
私は本の愛好家のひとりとし、無念ながら未読となっている。
尚、このお方の真摯な『秘花』を拝読を終えた後は、
単なる感想文でなく、大人の評論を掲載する予定である。
】
この後の私は、昨年の2008(平成20)年9月24日に於いては、
【 瀬戸内寂聴・著の『秘花』 】
と題して、評論形式として投稿しているが、
今回は、《序章》だけを再掲載する。
【
日本の中のひとつとして、瀬戸内山脈があるが、
50数年前に突然に隆起して形(かたち)づくられた山なみである。
ひとりの女性が小説家を目指し、少女小説や童話を発表されながら、
ひたすら純文学の世界を目標とされていた。
こうした折、純文学の雑誌に佳作を発表されたが、
文壇の有力な文藝評論家から、手厳しい批判にさらされ、
大衆文学を公表しながら、発表のあてない純文学の作品を書き続けていたのである。
そして、純文学のふたつの作品を発表され、
文壇はもとより、多くの文学青年・少女から高い評価を得て、
著名な文学賞を獲得した後は、地下水脈から溢れる泉水のように、
精力的に作品を発表され、次々と本が発刊され、またたくまに流行作家として地位を確立された。
こうした人気もあり、流行作家として確固たる人が、
突然に仏門に入り、修行しながら、作品を発表され、文壇以外の多くの人々を驚ろかせた。
その後、大衆文学を主軸とした流行作家を自ら捨て、再び純文学に回帰し、
岩手の天台寺で青空説法と称せられた法話をされ、
この寺の境内で、この方の法話と言動を多くの人たちに感動を与え、
うらぶれていた寺を再興させたのである。
そして法話はもとより、講演、随筆などで、各地の多くの人びとに、
心の救済、そして生きがいを導いたのである。
この間、文壇の大家の証(あかし)のひとつとされている『源氏物語』の
現代語訳の大作を発表されたりしていた。
そして、近年に文化勲章も受章され、数多くの国民から賞賛され、
現代に至っている。
このように平地に住む年金生活の無名な男は思って、
そびえる瀬戸内と命名された高き峰峰を眺めてきたのである。
】
私はこのような思いで、作家・瀬戸内寂聴さんを眺めてきたのである。
《つづく》
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私は作家・瀬戸内寂聴さんから、書物を通して幾度も教示されきたので、
このサイトに於いても、数多く綴り投稿してきた・・。
たとえば、2005(平成17)年7月17日で、
【 こだわり・・。 】
と題して、投稿していた。
【・・
昨日の読売新聞で、『編集手帳』というコーナーがあるが、
色々と考えさせられた・・。
無断であるが、転記させて頂く。
《
瀬戸内寂聴。
村上春樹。
よしもとばなな。
いずれ劣らぬ当代の人気作家には、共通点がある。
文壇の登竜門といわれる芥川賞も、
流行作家への通行手形である直木賞も受賞していない。
昨年、19歳と20歳の芥川賞作家が誕生して話題になった時、
瀬戸内さんが本紙に寄せた一文は、
縁のなかった両賞への思いを語って印象が深い。
「この二つの有名な賞を受賞してなくても、
作家にはなれるという標本としての希少価値をひそかに誇っている」。
二つの賞が創設されて今年で70年になる。
第1回の石川達三(芥川賞)、川口松太郎(直木賞)以来、
受賞者の錚々たる顔ぶれがあればこそ、瀬戸内さんの言う無冠の「希少価値」も一層輝くのだろう。
(略)
心ひそかな矜持を語った瀬戸内さんの言葉には続きがある。
「(芥川賞と直木賞の)授賞式には、
どんな好意を持っている受賞者がいても出席したことはないし、
これからも出席しないであろう」と。
すでに独自の文学世界を築き、
仏につかえる心静かな境地にいる人の胸にも、
小さなわだかまりを刻印する。
伝統の魔力だろう。
》
以上が新聞記事であった。
私が東京オリンピックが過ぎた翌年の頃、
このお方が、瀬戸内晴美であった頃、私はひとつの小説を友人間で絶賛した。
1963(昭和38)年に発表した『夏の終り』であった。
そして、この作家の『花芯』、『女子大生・曲愛玲』等を読んだりした。
確かに《瀬戸内晴美・初期全集?》あった、と記憶する。
そして、『・・本は3000部程度が、純文学の世界だし、
それ以上売れた場合は、文学評価と違った要素である』、と綴られていたので、
私はびっくりした。
この人の昨今まで、新聞記事のように、
ある程度の世界を築かれても、わだかまり、があるのには、驚きを禁じえない。
人は、幾つになっても、達観が難しい、と今更ながら考えさせられた。
・・】
この後は、2006(平成18)年6月7日に於いては、
【 時が過ぎて・・♪ 】
と題し、投稿していた。
【・・
家内と10時前に自宅を出て、駅前まで出かけた。
川べりの遊歩道を歩き、隣接した処は区立の公園となって、季節の花で彩(いろど)っている。
家内は歯科医院で治療を受けている間、
私は『ドトール』でアイス・コーヒーを飲みながら、持参した1冊の本を読み始めた・・。
過日購入した水上 勉、瀬戸内寂聴の両氏の対談集が主体の『文章修行』(岩波書店)である。
水上 勉・氏に関しては、推理小説を5冊ほど除けば、殆どを愛読している。
35年前頃、私は成城学園の住宅街の外れにある古本屋に行く時に、
車椅子に乗ったお嬢さんを彼は車を押しながら前方から近づいてきた。
私は愛読者のひとりの立場であったが、
敬愛の意味で、思わず目礼をした。
氏も面識があったかしら、と想いだすかのような表情で目礼をした。
瀬戸内寂聴・女史に関しては、初期の作品は愛読していた。
1967(昭和42)年頃まで、確か瀬戸内晴美の名で作品を発表されていた。
こうした2人に対する想い、文学に対する真摯な対談、
と思われたので購入した一冊の本であった。
『ドトール』でアイス・コーヒーを飲み、煙草を喫いながら、読み込んだ。
両者は純文学からスタートし、やがて中間小説で著名となり、流行作家になったが、
その後、純文学に回帰する過程、動機に冠する発言に、思わず涙ぐんだりした。
帰路、家内と遊歩道を歩いていたら、
サクランポウの樹木が多く植わっている処を通り過ぎる時、
風が吹いており、豆粒ほどのサクランボウの実がはらはらと落ちて来た。
遊歩道は赤紫色の実が数多く散乱していた・・。
水上 勉・氏は故人となり、あの世に行かれたが、
彼が残こされた作品は、私は今後も数年おきに読んだりするだろう。
・・】
昨年の2008(平成20)年6月29日らになると、
【 改めて、瀬戸内寂聴さんから、教示され・・♪ 】
と題して、投稿している。
【・・
私は石原慎太郎、瀬戸内寂聴の両氏に寄る『人生への恋文~往復随筆~』(文春文庫)を読んでいるが、
両氏から人生の哲学のようなことを数多く学んでいる。
特に先程読んだ中で、瀬戸内寂聴さんの一節が深く心に残り、
温かみのある助言を頂ただけた、と私は感謝している。
私は瀬戸内寂聴さんとは、未知の人であり、
東京オリンピックの頃には、瀬戸内晴美の初期短編集を読み終え、
『夏の終り』の作品は、友人等に絶賛したひとりである。
その後、1945(昭和45)年に大手の民間会社に中途入社する時までは、
ある程度このお方の作品を読んでいたが、
その後は私なりに企業戦士の一員となり、このお方の作品から離れていた。
定年退職した後、水上 勉との共著の『文章修業』(岩波書店)で、
両氏の純文学の熱く深い思いを改めて学んだりしたのである。
このような決して愛読者とはいえない私であるが、
読んでいる一節に深く考えさせられ、限りない人生の助言を頂けた、
と思っているのである。
無断であり、引用させて頂ければ、
《・・
人間はひとりひとりがこの世に自分ひとりしか持っていない、
かけ替えのない個性と資質に、誇りを持って、世俗の常識に巻きこまれず、
わが道を独りでも行くという気概を失わないことが大切だと、
わたしもかねがね思っていました。
お釈迦さまの教えの中にも
「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
というのがあります。
わたしはの大好きなことばです。
・・》
「心に光を」ページ224から引用
注)原文よりあえて改行を多くした。
この一節の文章から、私は年金生活の4年生の身であるが、
残された人生の日々に陽光を頂いた、と思ったりしたのである。
そして、玄関の軒下で小雨降る情景を眺めていると、
ときには小雨は限りなく優しい、と確信を深めたりしている。
・・】
この後は、やはり昨年の2008(平成20)年9月19日におき、
【 40数年ぶりに、瀬戸内寂聴の小説を読みだし・・♪】
と題して、投稿している。
【
私は昨日の午後より、瀬戸内寂聴・著の『秘花』(新潮社)を読み始めて、
本日のひとときも読み、第四章の数ページで、小用の為にやむえず中断している。
私は民間会社を定年退職後、年金生活の身で、もとより能の素養がないが、
中世で能の大成者と知られいる世阿弥に興味を持ったのは、
東京オリンピックの頃からであった。
8月の初旬に3泊4日で、佐渡島に滞在旅行をする前、
瀬戸内寂聴・著の『秘花』を遅ればせながら本屋で購入したが、
あえて私なりの流刑となった世阿弥の佐渡の時代を思いを馳せたく、
未読としていたのである。
私は東京オリンピックの開催された頃、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしていた。
この当時の頃、瀬戸内晴美の『夏の終り』を読み終えて、
友人らに絶賛したりし、初期の作品の『女子大生・曲愛玲』、
『花芯』などの短編小説集を読み耽ったりしていた。
この後、『女徳』などで大衆文学を精力的に発表された後は、
私は瀬戸内晴美の小説から離れた。
私が25歳から民間会社に中途入社した後、
『美は乱調にあり』を本屋の店頭で見かけたが、タイトルの命名に魅了されたが、
購入する意志はなかったのである。
その後は、瀬戸内晴美は仏門に入った、と月刊総合雑誌などで知り、
私は有数の小説家なのにどうした心境なのか、と思ったりしていた。
そして、のちに晴美から寂聴と改名され、
私は少し寂しさを隠し切れなかったのである。
私は2004(平成16)年の晩秋に民間会社を定年退職をし、年金生活に入った頃は、
瀬戸内寂聴ご自身は、既に20年近く法話などされて、賞賛された人となり、
稀(ま)れな著名人となっていた。
私の年金生活は、身過ぎ世過ぎの日常であるが、
小説、随筆、現代史、歴史書などを読む時間を優先としているので、
本屋に寄ったり、ときおり古本屋を訪ねたりすることが多いのである。
数年前、本屋の店頭で、
水上 勉との対談集『文章修行』(岩波書店)を見かけ、購入し、
両氏の純文学の深い思いに、思わず涙を流したのである。
その後、石原慎太郎との往復書簡の『人生への恋文』(文春文庫)を読み終え、
瀬戸内寂聴の人生の軌跡を改めて知った上、日常の思いも知り、
数多くの人生の機敏を学んだのである。
ただ、このお方の真摯な数多く発表された中期、後期、そして近年作の小説は、
私は本の愛好家のひとりとし、無念ながら未読となっている。
尚、このお方の真摯な『秘花』を拝読を終えた後は、
単なる感想文でなく、大人の評論を掲載する予定である。
】
この後の私は、昨年の2008(平成20)年9月24日に於いては、
【 瀬戸内寂聴・著の『秘花』 】
と題して、評論形式として投稿しているが、
今回は、《序章》だけを再掲載する。
【
日本の中のひとつとして、瀬戸内山脈があるが、
50数年前に突然に隆起して形(かたち)づくられた山なみである。
ひとりの女性が小説家を目指し、少女小説や童話を発表されながら、
ひたすら純文学の世界を目標とされていた。
こうした折、純文学の雑誌に佳作を発表されたが、
文壇の有力な文藝評論家から、手厳しい批判にさらされ、
大衆文学を公表しながら、発表のあてない純文学の作品を書き続けていたのである。
そして、純文学のふたつの作品を発表され、
文壇はもとより、多くの文学青年・少女から高い評価を得て、
著名な文学賞を獲得した後は、地下水脈から溢れる泉水のように、
精力的に作品を発表され、次々と本が発刊され、またたくまに流行作家として地位を確立された。
こうした人気もあり、流行作家として確固たる人が、
突然に仏門に入り、修行しながら、作品を発表され、文壇以外の多くの人々を驚ろかせた。
その後、大衆文学を主軸とした流行作家を自ら捨て、再び純文学に回帰し、
岩手の天台寺で青空説法と称せられた法話をされ、
この寺の境内で、この方の法話と言動を多くの人たちに感動を与え、
うらぶれていた寺を再興させたのである。
そして法話はもとより、講演、随筆などで、各地の多くの人びとに、
心の救済、そして生きがいを導いたのである。
この間、文壇の大家の証(あかし)のひとつとされている『源氏物語』の
現代語訳の大作を発表されたりしていた。
そして、近年に文化勲章も受章され、数多くの国民から賞賛され、
現代に至っている。
このように平地に住む年金生活の無名な男は思って、
そびえる瀬戸内と命名された高き峰峰を眺めてきたのである。
】
私はこのような思いで、作家・瀬戸内寂聴さんを眺めてきたのである。
《つづく》
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