私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
過日の7日、駅前に出て、家内から依頼された日常雑貨をスーパーで買い求めた後、
何気なし本屋に寄ったのである。
そして、新書コーナーで吉村昭・著の『わが心の小説家たち』(平凡社新書)を偶然に手に取り、
パラパラと目次を捲(めく)ると、
第四章として《川端康成『千羽鶴』の美》と題される中で、
《小説は文章に尽きる》と明示されて折、
この短い課題に魅了されて、買い求めたのである。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%8F%E3%81%8C%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E5%AE%B6%E3%81%9F%E3%81%A1-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-001-%E5%90%89%E6%9D%91-%E6%98%AD/dp/4582850014/ref=pd_bxgy_b_text_b
☆ 吉村昭(よしむら・あきら)・著の『わが心の小説家たち』(平凡社新書)☆
私は昨夜まで大村彦次郎(おおむら・ひこじろう)・著の『文壇うたかた物語』(ちくま文庫)を読んでいたのである。
もとより大村彦次郎氏は長年『講談社』に勤め、編集の立場、出版社の重責を歴任された方であり、
こうした視線から私の敬愛している数多くの小説家に於いて、
作品から発露されていない言動を知る立場であったので、
私なりの関心があったので深く精読したのであった。
http://store.shopping.yahoo.co.jp/7andy/31965493.html
☆大村彦次郎(おおむら・ひこじろう)・著の『文壇うたかた物語』(ちくま文庫)☆
そして編集者と作家の立場の箇所を読むと、
《・・
編集者にとって、作家とは何だろう。
話をしているうちに、なんとなく原稿を書かせたい気分になる相手、
いや黙っていても原稿を注文したくなるような相手、
それが作家の愛嬌であり、魅力である。
銀座通りを素っ裸かであるく覚悟がなければ、小説は書けない、
といったのは、太宰治だ。
ものを書くには、技術もさることながら、生まれついての天稟(てんびん)に負う。
ナルシシズムとある種のマゾヒズム、それがたがいにからみ合って、芸は昇華する。
かって太宰や安吾にのめり込んでいった編集者たちは、
きっとそんな作家の底知れぬ魔力にとり憑かれいったのにちがいない。
・・》
注)ページ208から引用
注)原文にあえて改行を多くした。
こうした部分を読み込むと、私はテラスに下り立ち、
煙草を喫いながら、考え込んでしまうのある。
そして、若き世代で小説家をめざす人、或いは出版社で文藝の編集者をめざす人、
この人たちにとっては哲学書の一冊に相当する集約された明言、と確信をしたのであった。
私は『文壇うたかた物語』を半分ぐらい読んだ限りであるが、
数多くの小説家、編集者の軌跡と言動が明示されているので、
この分野にめざす人の必読書と思い深めたりした。
このような読み込みをすると、中々次ページに進めず、嬉しい悲鳴を心の中であげながら、
読んでいるのである。
この本に関しても、読書中にこのような思いであった。
昨夜の10時半過ぎから、吉村昭・著の『わが心の小説家たち』を開いたのである。
著者が敬愛している小説家について、文芸講演会を5回した内容を改めて一冊の本として、
公表されたのが今回の本となっている。
本の帯裏にある解説として、
《
森鴎外、志賀直哉、川端康成、岡本かの子、平林たい子、
林芙美子、梶井基次郎、太宰治。
読書好きな少年期、思い肺結核と闘った若き日々、
文章修行時代を通して、著者が敬愛しつづけた作家たち。
そして今も心に生きる彼らの作品の魅力を、
自らの小説執筆の実感とともに、鮮やかな語り尽くす。
歴史小説とは何か。文章とは何か。小説の命とは?
待望の吉村昭版の「小説入門」。
》
このように明記されていた。
氏の作品の多くは、謙虚で真摯に真っ向から挑む主人公の作品が多く、
氏の独自の視点から、改めて提示された小説家の数々の作品の底知れぬ魅力を教示を受けようと読みはじめている。
尚、私は氏の同世代の城山三郎(しろやま・さぶろう)氏の作品の方が圧倒的に読んでいたが、
私は氏の作品に関する限りは、『私の文学漂流』(新潮社、1992年刊行)をはじめとする10作品程度しか読んでいないが、
史実と証言の徹底的な取材と検証、調査を基にした事実のみを描く数多くの作品、と定評があり、
私もときおり思わずうなりながら感動していたが、行間から主人公に対する氏の暖かな視線を感じ取っている。
href="http://www.blogmura.com/">
過日の7日、駅前に出て、家内から依頼された日常雑貨をスーパーで買い求めた後、
何気なし本屋に寄ったのである。
そして、新書コーナーで吉村昭・著の『わが心の小説家たち』(平凡社新書)を偶然に手に取り、
パラパラと目次を捲(めく)ると、
第四章として《川端康成『千羽鶴』の美》と題される中で、
《小説は文章に尽きる》と明示されて折、
この短い課題に魅了されて、買い求めたのである。
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☆ 吉村昭(よしむら・あきら)・著の『わが心の小説家たち』(平凡社新書)☆
私は昨夜まで大村彦次郎(おおむら・ひこじろう)・著の『文壇うたかた物語』(ちくま文庫)を読んでいたのである。
もとより大村彦次郎氏は長年『講談社』に勤め、編集の立場、出版社の重責を歴任された方であり、
こうした視線から私の敬愛している数多くの小説家に於いて、
作品から発露されていない言動を知る立場であったので、
私なりの関心があったので深く精読したのであった。
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☆大村彦次郎(おおむら・ひこじろう)・著の『文壇うたかた物語』(ちくま文庫)☆
そして編集者と作家の立場の箇所を読むと、
《・・
編集者にとって、作家とは何だろう。
話をしているうちに、なんとなく原稿を書かせたい気分になる相手、
いや黙っていても原稿を注文したくなるような相手、
それが作家の愛嬌であり、魅力である。
銀座通りを素っ裸かであるく覚悟がなければ、小説は書けない、
といったのは、太宰治だ。
ものを書くには、技術もさることながら、生まれついての天稟(てんびん)に負う。
ナルシシズムとある種のマゾヒズム、それがたがいにからみ合って、芸は昇華する。
かって太宰や安吾にのめり込んでいった編集者たちは、
きっとそんな作家の底知れぬ魔力にとり憑かれいったのにちがいない。
・・》
注)ページ208から引用
注)原文にあえて改行を多くした。
こうした部分を読み込むと、私はテラスに下り立ち、
煙草を喫いながら、考え込んでしまうのある。
そして、若き世代で小説家をめざす人、或いは出版社で文藝の編集者をめざす人、
この人たちにとっては哲学書の一冊に相当する集約された明言、と確信をしたのであった。
私は『文壇うたかた物語』を半分ぐらい読んだ限りであるが、
数多くの小説家、編集者の軌跡と言動が明示されているので、
この分野にめざす人の必読書と思い深めたりした。
このような読み込みをすると、中々次ページに進めず、嬉しい悲鳴を心の中であげながら、
読んでいるのである。
この本に関しても、読書中にこのような思いであった。
昨夜の10時半過ぎから、吉村昭・著の『わが心の小説家たち』を開いたのである。
著者が敬愛している小説家について、文芸講演会を5回した内容を改めて一冊の本として、
公表されたのが今回の本となっている。
本の帯裏にある解説として、
《
森鴎外、志賀直哉、川端康成、岡本かの子、平林たい子、
林芙美子、梶井基次郎、太宰治。
読書好きな少年期、思い肺結核と闘った若き日々、
文章修行時代を通して、著者が敬愛しつづけた作家たち。
そして今も心に生きる彼らの作品の魅力を、
自らの小説執筆の実感とともに、鮮やかな語り尽くす。
歴史小説とは何か。文章とは何か。小説の命とは?
待望の吉村昭版の「小説入門」。
》
このように明記されていた。
氏の作品の多くは、謙虚で真摯に真っ向から挑む主人公の作品が多く、
氏の独自の視点から、改めて提示された小説家の数々の作品の底知れぬ魅力を教示を受けようと読みはじめている。
尚、私は氏の同世代の城山三郎(しろやま・さぶろう)氏の作品の方が圧倒的に読んでいたが、
私は氏の作品に関する限りは、『私の文学漂流』(新潮社、1992年刊行)をはじめとする10作品程度しか読んでいないが、
史実と証言の徹底的な取材と検証、調査を基にした事実のみを描く数多くの作品、と定評があり、
私もときおり思わずうなりながら感動していたが、行間から主人公に対する氏の暖かな視線を感じ取っている。
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