夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我が家の年末年始の休日は・・。⑪北海道てっぺん周遊記【2002.12.31..~2003.1.2.】

2009-12-30 16:25:56 | 定年後の思い
          第11章

2002(平成14)年は、妹の次男が結婚し、ディズニー・シーの周辺で、
結婚式・披露宴をすることとなり、
恥ずかしながら家内はディズニーのファンであり、
この際、デイズニー・シーをゆっくり観たいわ、と懇願され、
私はやむえず祭日、代休を重ねて『シュラトン・ホテル』に3泊4日で宿泊したのであった。
何より私が悦んだのは、長兄の長男、次男、そして妹の長男、今回の次男・・
私にとっては甥っ子の4人が、私の定年退職前に結婚してくれればと秘かに願っていたので、
心の中では小躍りしていたのである。

そして12月になると、家内と年末年始の旅行のことで話し合ったりした。
私は能登の輪島温泉滞在で、程ほど高価な費用を払ったのに、と苦い思いでがあり、
ためらったりしていたのである。

こうした時、旅行会社から送付されてくる小冊誌に於いて、
『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と題した、団体観光ツアーがあった。

大晦日の31日の早朝、羽田空港に集合して、午前10時過ぎに釧路空港に着陸した後、
バスで釧路湿原を通り過ぎ、屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊する。

翌日、2003(平成15)年の元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着した後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりし、
高台にある神社に初詣し、市内のホテルに宿泊。

そして翌日の2日、札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下し、千歳空港から帰京するプランであった。

こうした風変わりな周遊観光コースであり、格安なプランであるので、
二度と企画されないかもしれない、と私は家内に云ったりし、参加したのであった。


大晦日の31日、羽田空港に早朝に集合時間であったので、
タクシーを予約して、暗い中、自宅から羽田空港までタクシーを利用した。
そして、厳冬の屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞したが、私達は冬の北海道はたびたび体験し、
それなりの防寒服を着たりしているので、マイナス10度ぐらいは心身順応出来るのである。

少し驚いたのは、紋別に宿泊する前、蟹(カニ)食べ放題の夕食となり、
私は地酒を呑みながら、それなりに奮闘して頂いたが、
やはり蟹は毛蟹を一杯だけ頂き、ゆっくりと熱燗の地酒を呑むのが良い、
と感じたりしたのである。

そして、宿泊のホテルの部屋に戻ると、
テレビで紅白歌合戦の番組の中で、中島みゆき女史が『地上の星』を唄っていた・・。
後年、伝説となった黒部の極寒の坑道の中で、唄いあげたシーンであった。

私はファンのひとりであったので、この夜の夢は何故かしら、
みゆき様が私の方を見ながら微笑んでいたのである。


尚、紋別で宿泊した観光ホテルは無念ながら思い出せないが、
稚内は全日空ホテルであった。

http://www.ana-hotel-wakkanai.co.jp/
☆ 稚内 全日空ホテル ☆




href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が家の年末年始の休日は・・。⑩【2001年末~2002年始】

2009-12-30 14:39:40 | 定年後の思い
           第10章

2001(平成13)年は、我が家は築後26年近くになっているせいか、
家のところどころが老化なっているので、修理の時であった。

外壁のモルタル修理は2回目となり、戸袋、雨戸廻りなどを修理をして頂き、門扉も新調したり、
歳末近くに宅地の植木を大幅に入れ替えて、道路際は赤芽モチなどに変更したりした。

この間、私の勤続30年の特別休暇を頂き、4泊5日で北海道の冬の旅で、
流氷、札幌の雪祭りなどを観たりし、
或いは親戚、知人の方たちが亡くなったりすることが多かったのである。

こうした中で私は定年退職時の2004(平成16)年に備え、
パソコン、机、脇机、椅子などを新調して、年金生活の準備をしたりした。

こうした中で12月を迎え、年末年始の旅行などを家内と話し合ったのである。
我が家としては、年末年始を配慮しても程ほど高価な旅行費であり、
結果としては前回の『能登・輪島温泉』は惨敗、前々回の『湯野浜温泉』は成功であったが、
今回は何かと費用を要した年だったので、のんびりと自宅で過ごそうと決定したのである。




href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が家の年末年始の休日は・・。⑨能登・輪島温泉滞在記【2000.12.29.~2001.1.2.】

2009-12-30 12:57:14 | 定年後の思い
           第9章

翌日の12月31日の朝、どんよりとした曇り空であり、
街中の朝市まで散策したのである。
昨日の曽々木海岸に行くまで朝の7時半過ぎに、朝市のある路上を見て、
この地の野菜、鮮魚そして干物などの即売を眺めたりしたのである。

鮮魚の販売する高齢の小母さんの前で立ち止まると、
わずかで元気のない鮮魚があった。
『悪天候が続き・・漁にも出られなかったので・・このような肴ばかりでして・・』
と小母さんは申し訳なさそうに、このような意味合いの言葉を重ねていたのである。


このようなこともあり朝市を通り過ぎ、大晦日の街中を2時間ばかり散策して、
ホテルに帰館したのである。


2001(平成13)年の元旦は、霧雨の降る朝を迎えた。
私達は、街中にある住吉神社に参拝した後、
雨の降る中、傘を差しながら街の岬の汐見橋まで30分ばかり歩いたり、
帰路は漁労の倉庫街から入り江に近い歩道を歩き、
フィールド・ジャケット、ズボン、軽登山靴は濡れて、ホテルに戻った。

2日の朝、チェック・アウト後、曇り空の中、金沢市内の兼六園でゆっくり散策しょう、
と特急バスで輪島をあとにした。

途中の千里浜を通り過ぎる時、強い風で樹木が傾きかかったり、
金沢市内の住宅地を通過する時は、風もなく、穏やかな陽射しの中をバスは走破した。

そして、兼六園を散策していると、雨が降り出してきて、
やむえず園内の簡素な食事処で雨やどりをしたのである。
ときおり風が吹き、雨を眺め、止む得ず私は地酒を注文し、おでんを食べながら、呑んだりしたのであった。
家内は煎茶と和菓子を食べたりした。

この後、駅前に近い全日空のホテルの喫茶店で、
私達はコーヒーを呑み、家内はケーキを頂き、私は煙草を喫ったりして、
今回の年末・年始の旅行は失敗だった、と私は家内に云ったりした。
何よりも悪かったのは、『ホテル高州園』の露天風呂の看板に偽りあり、
そして館内の状景であった。

帰宅後、一週間過ぎた頃、兼六園は20センチばかりの雪景色、
と報じられて折、私は普段の行いが悪かったのかしら、と微苦笑したのである。


href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ

                          
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が家の年末年始の休日は・・。⑧能登・輪島温泉滞在記【2000.12.29.~2001.1.2.】

2009-12-30 09:43:18 | 定年後の思い
           第8章

翌日の12月30日、私達夫婦は何かしら街中の観光より、曽々木海岸を散策しょう、
とホテルを10時過ぎに出た。

路線バスの輪島駅前の周辺のスーパーに寄り、
やはり年末なので、店内には御節料理の単品の数々、そしてこの地域の魚介類などが多く並べられて、
この中で食べたい品を昼食の代わりとし、地酒も買い求めたが、
こうしたこの地方独自の食べ物が購入でき、私達は思わず微笑んだりしていた。

路線バスの輪島駅前は、帰省客が圧倒的に多く、この地方の方言が飛び交う中、
私達は曽々木海岸方面のバスに乗った。
風もなく穏やかに晴れ渡たり、左は日本海、右は険しい山里の状景が続き、
そして千枚田の冬枯れの情景を車窓から眺めたりした。


私達夫婦の能登半島の旅に関しては、10年前の頃の2月に、
団体観光ツアーの1泊2日で、小松空港から安宅海岸、兼六園、そして北上して千里浜から能登金剛を観た後、
和倉温泉の観光ホテル『のと楽』に宿泊し、特にこの『のと楽』の大浴場の更衣室までの情景に好感した。
翌日は、金沢市内の郊外にある焼き物センターに寄り、小松空港から帰京した短じかな旅をしたりしていた。

私自身は1961(昭和36)年の秋、学園祭の期間と休日を利用して、
悪友と2人だけで、羽咋駅で下車した後、岬の先端まで西海岸を出来る限り歩こう、
と貧乏旅行の5泊6日をした。

この後の私は、1963(昭和38)年の夏、ワンターフォーゲの夏季合宿の打ち上げを千里浜で行った後、
独りで金沢市内を散策した後、山陰地方を周遊した。


この程度ぐらいの体験であり、私はバスの車窓なら能登半島の北部の情景を眺めたりしていた。

曽々木海岸で下車した後、私達は岩の多い浜辺を散策したりした。
私達は岩に座り、快晴の陽射しの中、蒼い海原の光る海を眺めたり、
私は地酒を呑んだりし、煙草を喫ったりしていた。
家内は煎茶を飲みながら、スーパーで買い求めた和菓子を食べたりしていた。

私は高校二年の時の貧乏旅行をした時の思いで話を家内に語りかけた・・。

悪友と私は、それぞれザックの大きいキスリングを背負いながら、
バス代を倹約する為に、出来る限る歩いたりし、宿だけは民宿に宿泊していた。
そして、ある日、この曽々木海岸で昼食にした。
岩の多い海岸で、飯盒(はんごう)でご飯を炊き終わり、簡素な食事をしょうとしていた時、
大通りに団体観光バスが止まり、数多い観光客の方たちが下車してきて、
海が綺麗ねぇ・・やはり曽々木海岸は名所よ・・
と歓声まじりの声が聴こえてきた。

悪友はサラリーマンの家の坊ちゃまで、
恥ずかしいから、岩陰に退散しょうよ、
と私に云ったが、私は農家の児として育った身なので、無視して悠然と昼食を終えたのである。

まもなく観光客を乗せたバスが立ち去った後、悪友は昼食を食べ始めたのである。

そして私は岩のはずれで海を見ながら、オシッコをしたのであるが、
悪友はカメラを持ち出して、この時の私の状景を撮ったりしていた。
この一葉の写真は、今でも私のアルバムに貼ってある。


このようなことを私は家内に云いながら、談笑したりした。
その後、海岸を北上しながら歩き、景観の良き処で、
スーパーで買い求めた昼食代わりのおつまみの数々を頂いたのである。


私達は3時過ぎに、輪島の市内に戻ったのであるが、
街並みの情景より、私達はバスの車窓から眺めた能登の景観、曽々木海岸の人気の少ない歩道の方が遥かに魅せられたので、
30分ばかり散策して、ホテルに戻ったのである。

                       
                           《つづく》


href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする