夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我が家の年末年始の休日は・・。 ③稲住温泉滞在記【1998.12.31.~1999.1.3.】

2009-12-27 16:55:25 | 定年後の思い
           第三章

私が1997(平成9)年の大晦日、同居していた妹から、母の容態が悪化し、
救急車で病院に入院した、と教えられたのは夜の時過ぎであった。

私は風邪をこじらせて毎年の御節料理のメールボーイを19年間続いていたのであったが、
やむえず家内に代わってもらい届け、この後の数時間後であった。
この当時の母は、入退院を繰り返していたが、新年を病室で迎えるのは、初めてであった。

家内の父も体調を崩していたので、大晦日の夜、我が家の恒例の『お年取り』も中止となり、
我が家は2人だけの新年を20年ぶりに迎えた。

そして、私の実家の長兄宅の2日に行われた『新年会』も、母が不在で、
何かしら華やいだ雰囲気がなくなっていた。


そして、新春の13日の深夜、母は死去し、
14日に『仮通夜』、15日の『お通夜』、16日に『告別式』を終え、
『初七日』、納骨の四十九日目の納骨の『七七忌』法要、そして『百カ日』と続き、夏の新盆となり、
晩秋に喪中の葉書を関係者に送付したりした。

年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私にはあったのである。

このような私の感情を家内は察して、年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう、と云った。

そして私達夫婦は、年末年始に初めて旅行に出かけたのである。

この旅行に関しては、以前にこのサイトに投稿している部分が多いが、
あえて再掲載をする。

【・・
秋田県の山奥にある秋の宮温泉郷にある稲住温泉に、
12月31日より3泊4日の温泉滞在型の団体観光バスプランを利用し、滞在した。
何かしら開放感があり少し華(はな)やかな北海道、東北の著名な温泉地は、
亡き母との歳月の思いを重ねるには相応しくないと思い、山奥の素朴な温泉地としたのである。

大晦日の早朝、東京からバスで東北自動車を古川ICで降り、
鳴子温泉を通り抜け後、雪はまばらに田畑にあった程度である。
しばらく登り坂を走破するとトンネルを抜けると、あたり一面、雪景色となった。

山里の丘から道路に掛けて、30センチ程度であったが、我々の観光客は歓声を上げた・・。
私達を含め、秋田県の奥まった処の温泉地で雪を観て、年末年始をくつろぐ、
というのは大方の周知一致した思いであった。

日暮れ時にホテルに着いて、大晦日の夕食を迎えた。

翌日、家内と雪の道路を歩いた。
周囲は山里の情景で、常緑樹の緑の葉に雪が重そうに掛かっていたり、
落葉樹は葉の全てを地表に落とし、小さな谷沿いに小川が流れいた。

しばらくすると、雪が舞い降りてきた・・。

ゆるく蛇行した道を歩き、秋田県の奥まった処だと、実感できた。
車も通らず、人影も見えなかった・・。

雪は強まってきたが、風もなく、静寂な中を歩いた。

このように1時間ばかり歩いたのだろうか。

そして町営スキー場が観え、ゴンドラなどもなく、リフトが2本観られる素朴なスキー場であった。

スキー場の外れにある蕎麦屋さんに入り、昼食代わりに山菜そばを頂こうと、
入店したのであるが、お客は私達夫婦だけで、
こじんまりと店内の中央に薪ストーブのあり、私達は冷え切った身体であったので、思わず近づき、
暖をとったのである。

私は東京郊外の住宅街に住む身であり、
とても家の中の一角に薪ストーブを置けるような場所もなければ、
薪の補給を配慮すれば、贅沢な暖房具となっているのである。

私の幼年期は、今住んでいる処からは程近く、
田畑は広がり、雑木林があり、祖父と父が中心となり、農家を営んでいた。
家の中の一面は土間となり、この外れに竈(かまど)が三つばかり有り、
ご飯を炊いたり、煮炊きをしたり、或いは七輪の炭火を利用していた。

板敷きの居間は、囲炉裏であったが、殆ど炭火で、
家族一同は暖をとっていたのである。

薪は宅地と畑の境界線にある防風林として欅(けやき)などを植えて折、
間隔が狭まった木を毎年数本切り倒していた。

樹高は少なくとも30メートルがあり、主木の直径は50センチ程度は最低限あり、
これを30センチ間隔で輪切りにした後、
鉈(なた)で薪割りをし、日当たりの良い所で乾燥をさしていた。

そして、枝葉は竈で薪を燃やす前に使用していたので、
適度に束ねて、納戸の外れに積み上げられていた。


薪ストーブの中、薪が燃えるのを眺めていたら、
こうした幼年期の竈(かまど)の情景が甦(よみがえ)り、
『お姉さん・・お酒・・2本・・お願い・・』
と私は60代の店番の女性に云った。

そして、薪ストーブで暖を取りながら、昼のひととき、お酒をゆっくりと呑もうと思い、
家内は少し微苦笑した後は、
殆ど人気のない外気の雪降る情景に見惚(みと)れていた。


ホテルに雪の降る中を歩いて戻ると、
ホテルの外れに茶室があり、積雪が深まった庭先の中を歩いた・・。

茶室は人影が見当たらず、ひっそりとしていた。

その晩、家内の実家にロビーで電話を掛けて、新年の略式の挨拶をした。
その後で、私は電話口で、
『お義父さんの好きな『喜びも悲しみも幾年月』と『二十四の瞳』の監督・・
木下恵介さん・・亡くなりましたが、
日本のマスコミは余り記事の扱いが粗末で、マスコミも鈍感になりましたね・・』
と私は言った。
・・】

このような思いで、私は母に死去された初めての年末年始を旅先で、
私達夫婦は過ごしたのである。


                             《つづく》




href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が家の年末年始の休日は・・。 ②

2009-12-27 14:37:34 | 定年後の思い
           第二章

私が東京郊外の調布市の長兄宅の実家から離れて、
神奈川県・川崎市の登戸でアパート経営をしながら住んでいる母の宅に同居した後、
千葉県・市川市の国府台で賃貸マンションで新婚生活を2年ばかり過ごし、
実家の近くに一軒屋を構えたのは1978(昭和53)年の春であった。

私は33歳の若さで世間知らず、気負いもあり住居の中で茶室を設けたりした。
しかし作庭費用に困り果て、やむえず雑木主体の庭とした。
何より困窮したのは、色々な面で想定した価格より遥かに高く、すべてのローンは多額の借金となり、
月々、ボーナス時の返済は、私が孤軍奮闘しても赤字が多かったのである。

まもなく家内は、突然に付近のお菓子の製造所にパートに働きに出たりした。

晩秋になると、母は私の正月用にと、羽織と着物のアンサンブルが手渡された。

そしてクリスマスの頃になると、家内は御節料理の材料を付近の専門店、スーパーなどで買い求めていた。
栗、黒豆、田作りなどの材料であった。
家内は大掃除、お節料理などで奮闘し、茶室の床飾りとして『結び柳』などをし、
私は28日頃に仕事納めをした後、翌日頃から我が家の庭の手入れをしていた。

大晦日の昼過ぎ、家内が御節料理の完成を告げた後、
独り住まいの母用に、三段のお重に風呂敷でしっかりと結び、
私は独りで母の所に届けたのである。
そして、途中で酒屋に寄り、地酒の四合瓶を買い求め、母の所に行ったのである。
その後、母のところで、出前のお寿司を食べながら、私は持参した地酒を呑み、
母とふたりだけで他愛のない話を数時間を過ごしたのである。

こうしたことは、母の亡くなる1998(平成10)年の新春の前の年まで、
20年間続けられたのである。

そして、新年の2日の私の実家の長兄宅の『新年の祝い』に於いて、
家内は9時前に長兄宅に行き、長兄の奥方と共に、料理の仕上げ、席の準後などをしたり、
私は新年会の始まる30分前頃まで長兄宅に行き、
長兄の家族はもとより、叔父、叔母さんなどに新年の挨拶をしたりした。
この間、母、次兄、妹の家族も加わり、11時頃から新年会となった。

そして、3時頃に散会し、家内は長兄の奥方と共に後片づけをしたりしている間、
長兄、長兄の子供らと私は茶の間で談笑したりした。

こうした長兄宅での新年会は、母の亡くなる前の年まで続いた。


私達夫婦が1978(昭和53)年の春に新居を構えた後、
1980(昭和55)年の大晦日に家内の両親に来宅して貰い、『お年取り』を復活させた。
私は家内の父と心身の波長が合うので、程々に遠慮なく、食べたり、呑んだりし、
私達4人ながら心身盛り上がったりしたのである。

そして宿泊して頂き、元旦の新年を迎え、昼下がりに家内の両親は帰宅されたのである。
その後、家内の弟が加わったり、家内の妹夫婦に宿泊してもらったりし、
家内の父の体調が悪化するまで、20年ぐらい、続いたのである。

                              《つづく》


href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が家の年末年始の休日は・・。 ①

2009-12-27 10:21:26 | 定年後の思い
           第一章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
先程、ぼんやりと年末年始はどのように過ごしてきたが、振り返ったりした。

私が結婚して独立したのは、1976(昭和51)年の春であり、
千葉県の市川市のはずれの江戸川が流れる付近の賃貸マンションで新婚生活が始まった・・。
京成腺の『国府台』駅より、5分ぐらいの処で、付近は学校が多く、寺院、公園もあり、
学園街のような状景であった。

私はこの当時、あるレコード会社に勤め、コンピュータの専任者としてシステムの開発も加わり、奮闘していた時期で、
勤務先の六本木に一時間ぐらいで通勤していた。
家内は専業主婦で、週に2回お茶の稽古で、京成線の『八千代台』駅付近の師匠のところに通ったりしていた。

家内の両親は、この『八千代台』駅から10分ばかりの住宅街の中の一軒屋に住まわれていた。

私達夫婦が初めて迎える大晦日の夜、家内の両親宅は恒例の『お年取り』をしていたので、
私達夫婦は自宅から45分ばかりで、午後3時過ぎに訪問した。
家内の妹、弟も加わり、にぎやかな酒宴となった。

この当時の家内の父は、サラリーマンで栃木県にある自動車工場に単身赴任をしたいたので、
久々の家族一同、そして新婚の私達夫婦が加わり、華やいだ宴会となった。

家内の父は、お酒大好きな人で、私も好きなタイプであり、心身波長があったりした。
家内の父は真蛸(マダコ)を食べながら、熱燗の日本酒を呑み、
私は酢蛸(スダコ)を頂き、温(ぬる)め日本酒を呑んだりした。

『お義父(とう)さんの真蛸・・明石ですか・・
僕は東京郊外の農家の児だったので・・やはり蛸は酢蛸の北海産が合います・・』
と私は義父に向かい、談笑を重ねたりした。

そして、午後9時過ぎに辞して、家内と共に『八千代台』の駅に向う折、

♪年の始めの 例(ためし)とて、
 終(おわり)なき世の めでたさを、
 松竹(まつたけ)たてて 門ごとに
 祝(いお)う今日(きょう)こそ 楽しけれ。

【 『一月一日(いちがついちじつ)』 作詞・千家尊福、作曲・上真行 】

と私は酒の酔いと何かしら人生の階段を上がったような開放感があり、大きな声で唄ったのである。
大晦日の夜の住宅街であり、恥ずかしいわ、と家内は呟(つぶや)きながら、微笑んだりしていた。

そして、新年の元旦は、賃貸マンションの一室で、家内と花札の『コイコイ』をして過ごしたのである。
私は新婚生活を始める時に、何かと費用を要したので、
家計の安定ことが何よりと感じ、倹約の目的もあり、
自宅で遊べる花札の『コイコイ』を家内に教えてたのである。
数ヶ月過ぎると、何故かしら家内の勝ちが多く、ときおり家内が誘われるようになっていた時期でもあった。

2日は私の実家で『新年の祝い』が恒例であったので、
私達夫婦は自宅を午前9時過ぎに出て、午前11時過ぎに現在私が住んでいる近くの調布市の長兄宅を訪問した。
私の母も川崎市の登戸でアパート経営をし住んでいたが、この日は長兄宅に駆けつけた。
そして、私の叔母、叔父さんも加わり、盛大な一族再会のような集(つど)いとなった。
もとより長兄夫婦が接待役であったが、実質は元気だった私の母が明るくふるいが主役であった。

そして午後3時過ぎに散会し、私達夫婦は帰宅に向う途中で、
明治神宮に参拝した後、テパートに寄る福袋どを買い求めて帰宅した。


このような形で、2年が続いた後は、
私が長兄宅の近くに一軒屋を建てると、年末年始の過ごしかたも変貌したのである。

                                《つづく》


href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする