第三章
私が1997(平成9)年の大晦日、同居していた妹から、母の容態が悪化し、
救急車で病院に入院した、と教えられたのは夜の時過ぎであった。
私は風邪をこじらせて毎年の御節料理のメールボーイを19年間続いていたのであったが、
やむえず家内に代わってもらい届け、この後の数時間後であった。
この当時の母は、入退院を繰り返していたが、新年を病室で迎えるのは、初めてであった。
家内の父も体調を崩していたので、大晦日の夜、我が家の恒例の『お年取り』も中止となり、
我が家は2人だけの新年を20年ぶりに迎えた。
そして、私の実家の長兄宅の2日に行われた『新年会』も、母が不在で、
何かしら華やいだ雰囲気がなくなっていた。
そして、新春の13日の深夜、母は死去し、
14日に『仮通夜』、15日の『お通夜』、16日に『告別式』を終え、
『初七日』、納骨の四十九日目の納骨の『七七忌』法要、そして『百カ日』と続き、夏の新盆となり、
晩秋に喪中の葉書を関係者に送付したりした。
年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私にはあったのである。
このような私の感情を家内は察して、年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう、と云った。
そして私達夫婦は、年末年始に初めて旅行に出かけたのである。
この旅行に関しては、以前にこのサイトに投稿している部分が多いが、
あえて再掲載をする。
【・・
秋田県の山奥にある秋の宮温泉郷にある稲住温泉に、
12月31日より3泊4日の温泉滞在型の団体観光バスプランを利用し、滞在した。
何かしら開放感があり少し華(はな)やかな北海道、東北の著名な温泉地は、
亡き母との歳月の思いを重ねるには相応しくないと思い、山奥の素朴な温泉地としたのである。
大晦日の早朝、東京からバスで東北自動車を古川ICで降り、
鳴子温泉を通り抜け後、雪はまばらに田畑にあった程度である。
しばらく登り坂を走破するとトンネルを抜けると、あたり一面、雪景色となった。
山里の丘から道路に掛けて、30センチ程度であったが、我々の観光客は歓声を上げた・・。
私達を含め、秋田県の奥まった処の温泉地で雪を観て、年末年始をくつろぐ、
というのは大方の周知一致した思いであった。
日暮れ時にホテルに着いて、大晦日の夕食を迎えた。
翌日、家内と雪の道路を歩いた。
周囲は山里の情景で、常緑樹の緑の葉に雪が重そうに掛かっていたり、
落葉樹は葉の全てを地表に落とし、小さな谷沿いに小川が流れいた。
しばらくすると、雪が舞い降りてきた・・。
ゆるく蛇行した道を歩き、秋田県の奥まった処だと、実感できた。
車も通らず、人影も見えなかった・・。
雪は強まってきたが、風もなく、静寂な中を歩いた。
このように1時間ばかり歩いたのだろうか。
そして町営スキー場が観え、ゴンドラなどもなく、リフトが2本観られる素朴なスキー場であった。
スキー場の外れにある蕎麦屋さんに入り、昼食代わりに山菜そばを頂こうと、
入店したのであるが、お客は私達夫婦だけで、
こじんまりと店内の中央に薪ストーブのあり、私達は冷え切った身体であったので、思わず近づき、
暖をとったのである。
私は東京郊外の住宅街に住む身であり、
とても家の中の一角に薪ストーブを置けるような場所もなければ、
薪の補給を配慮すれば、贅沢な暖房具となっているのである。
私の幼年期は、今住んでいる処からは程近く、
田畑は広がり、雑木林があり、祖父と父が中心となり、農家を営んでいた。
家の中の一面は土間となり、この外れに竈(かまど)が三つばかり有り、
ご飯を炊いたり、煮炊きをしたり、或いは七輪の炭火を利用していた。
板敷きの居間は、囲炉裏であったが、殆ど炭火で、
家族一同は暖をとっていたのである。
薪は宅地と畑の境界線にある防風林として欅(けやき)などを植えて折、
間隔が狭まった木を毎年数本切り倒していた。
樹高は少なくとも30メートルがあり、主木の直径は50センチ程度は最低限あり、
これを30センチ間隔で輪切りにした後、
鉈(なた)で薪割りをし、日当たりの良い所で乾燥をさしていた。
そして、枝葉は竈で薪を燃やす前に使用していたので、
適度に束ねて、納戸の外れに積み上げられていた。
薪ストーブの中、薪が燃えるのを眺めていたら、
こうした幼年期の竈(かまど)の情景が甦(よみがえ)り、
『お姉さん・・お酒・・2本・・お願い・・』
と私は60代の店番の女性に云った。
そして、薪ストーブで暖を取りながら、昼のひととき、お酒をゆっくりと呑もうと思い、
家内は少し微苦笑した後は、
殆ど人気のない外気の雪降る情景に見惚(みと)れていた。
ホテルに雪の降る中を歩いて戻ると、
ホテルの外れに茶室があり、積雪が深まった庭先の中を歩いた・・。
茶室は人影が見当たらず、ひっそりとしていた。
その晩、家内の実家にロビーで電話を掛けて、新年の略式の挨拶をした。
その後で、私は電話口で、
『お義父さんの好きな『喜びも悲しみも幾年月』と『二十四の瞳』の監督・・
木下恵介さん・・亡くなりましたが、
日本のマスコミは余り記事の扱いが粗末で、マスコミも鈍感になりましたね・・』
と私は言った。
・・】
このような思いで、私は母に死去された初めての年末年始を旅先で、
私達夫婦は過ごしたのである。
《つづく》
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私が1997(平成9)年の大晦日、同居していた妹から、母の容態が悪化し、
救急車で病院に入院した、と教えられたのは夜の時過ぎであった。
私は風邪をこじらせて毎年の御節料理のメールボーイを19年間続いていたのであったが、
やむえず家内に代わってもらい届け、この後の数時間後であった。
この当時の母は、入退院を繰り返していたが、新年を病室で迎えるのは、初めてであった。
家内の父も体調を崩していたので、大晦日の夜、我が家の恒例の『お年取り』も中止となり、
我が家は2人だけの新年を20年ぶりに迎えた。
そして、私の実家の長兄宅の2日に行われた『新年会』も、母が不在で、
何かしら華やいだ雰囲気がなくなっていた。
そして、新春の13日の深夜、母は死去し、
14日に『仮通夜』、15日の『お通夜』、16日に『告別式』を終え、
『初七日』、納骨の四十九日目の納骨の『七七忌』法要、そして『百カ日』と続き、夏の新盆となり、
晩秋に喪中の葉書を関係者に送付したりした。
年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私にはあったのである。
このような私の感情を家内は察して、年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう、と云った。
そして私達夫婦は、年末年始に初めて旅行に出かけたのである。
この旅行に関しては、以前にこのサイトに投稿している部分が多いが、
あえて再掲載をする。
【・・
秋田県の山奥にある秋の宮温泉郷にある稲住温泉に、
12月31日より3泊4日の温泉滞在型の団体観光バスプランを利用し、滞在した。
何かしら開放感があり少し華(はな)やかな北海道、東北の著名な温泉地は、
亡き母との歳月の思いを重ねるには相応しくないと思い、山奥の素朴な温泉地としたのである。
大晦日の早朝、東京からバスで東北自動車を古川ICで降り、
鳴子温泉を通り抜け後、雪はまばらに田畑にあった程度である。
しばらく登り坂を走破するとトンネルを抜けると、あたり一面、雪景色となった。
山里の丘から道路に掛けて、30センチ程度であったが、我々の観光客は歓声を上げた・・。
私達を含め、秋田県の奥まった処の温泉地で雪を観て、年末年始をくつろぐ、
というのは大方の周知一致した思いであった。
日暮れ時にホテルに着いて、大晦日の夕食を迎えた。
翌日、家内と雪の道路を歩いた。
周囲は山里の情景で、常緑樹の緑の葉に雪が重そうに掛かっていたり、
落葉樹は葉の全てを地表に落とし、小さな谷沿いに小川が流れいた。
しばらくすると、雪が舞い降りてきた・・。
ゆるく蛇行した道を歩き、秋田県の奥まった処だと、実感できた。
車も通らず、人影も見えなかった・・。
雪は強まってきたが、風もなく、静寂な中を歩いた。
このように1時間ばかり歩いたのだろうか。
そして町営スキー場が観え、ゴンドラなどもなく、リフトが2本観られる素朴なスキー場であった。
スキー場の外れにある蕎麦屋さんに入り、昼食代わりに山菜そばを頂こうと、
入店したのであるが、お客は私達夫婦だけで、
こじんまりと店内の中央に薪ストーブのあり、私達は冷え切った身体であったので、思わず近づき、
暖をとったのである。
私は東京郊外の住宅街に住む身であり、
とても家の中の一角に薪ストーブを置けるような場所もなければ、
薪の補給を配慮すれば、贅沢な暖房具となっているのである。
私の幼年期は、今住んでいる処からは程近く、
田畑は広がり、雑木林があり、祖父と父が中心となり、農家を営んでいた。
家の中の一面は土間となり、この外れに竈(かまど)が三つばかり有り、
ご飯を炊いたり、煮炊きをしたり、或いは七輪の炭火を利用していた。
板敷きの居間は、囲炉裏であったが、殆ど炭火で、
家族一同は暖をとっていたのである。
薪は宅地と畑の境界線にある防風林として欅(けやき)などを植えて折、
間隔が狭まった木を毎年数本切り倒していた。
樹高は少なくとも30メートルがあり、主木の直径は50センチ程度は最低限あり、
これを30センチ間隔で輪切りにした後、
鉈(なた)で薪割りをし、日当たりの良い所で乾燥をさしていた。
そして、枝葉は竈で薪を燃やす前に使用していたので、
適度に束ねて、納戸の外れに積み上げられていた。
薪ストーブの中、薪が燃えるのを眺めていたら、
こうした幼年期の竈(かまど)の情景が甦(よみがえ)り、
『お姉さん・・お酒・・2本・・お願い・・』
と私は60代の店番の女性に云った。
そして、薪ストーブで暖を取りながら、昼のひととき、お酒をゆっくりと呑もうと思い、
家内は少し微苦笑した後は、
殆ど人気のない外気の雪降る情景に見惚(みと)れていた。
ホテルに雪の降る中を歩いて戻ると、
ホテルの外れに茶室があり、積雪が深まった庭先の中を歩いた・・。
茶室は人影が見当たらず、ひっそりとしていた。
その晩、家内の実家にロビーで電話を掛けて、新年の略式の挨拶をした。
その後で、私は電話口で、
『お義父さんの好きな『喜びも悲しみも幾年月』と『二十四の瞳』の監督・・
木下恵介さん・・亡くなりましたが、
日本のマスコミは余り記事の扱いが粗末で、マスコミも鈍感になりましたね・・』
と私は言った。
・・】
このような思いで、私は母に死去された初めての年末年始を旅先で、
私達夫婦は過ごしたのである。
《つづく》
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