私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝、4時半過ぎに目覚め、玄関の軒下で煙草を喫ったりしていたが、
夜半の未明時より雨が降りだし、日中は雨の一日です、
と昨夜の天気情報は報じていたのに、どうしたのかしら、と思いながら、
薄暗い中どんよりとした曇り空を見上げたりした。
私は居間に戻った後、洗面をし、煎茶を淹れたり、
新聞が配達される前にネットでニュースを見たりしていた時に、静かに雨が降りだしてきた。
この後、このサイトの投稿文を綴ったりしていた。
そしてネットで地元の天気情報を検索したら、
朝の6時は6度、昼下がりは9度、夜の6時は8度で雨の降る一日、
と表示され、平年並みかしら、と苦笑したりした。
このような冷たい雨の降る日は、買物と散策は取りやめて、
読書に専念しょうか、と自在でわがままな私は決意したのである。
昨日、買い求めた総合月刊雑誌の『文藝春秋』の読み残した記事を読んだ後、
中断していた大村彦次郎(おおむら・ひこじろう)・著の『文壇うたかた物語』(ちくま文庫)を読んでいる。
もとより大村彦次郎氏は長年『講談社』に勤め、編集の立場、出版社の重責を歴任された方であり、
こうした視線から私の敬愛している数多くの小説家に於いて、
作品から発露されていない言動を知る立場であったので、私なりの好奇心から読んでいる。
そして編集者と作家の立場の箇所を読むと、
《・・
編集者にとって、作家とは何だろう。
話をしているうちに、なんとなく原稿を書かせたい気分になる相手、
いや黙っていても原稿を注文したくなるような相手、
それが作家の愛嬌であり、魅力である。
銀座通りを素っ裸かであるく覚悟がなければ、小説は書けない、
といったのは、太宰治だ。
ものを書くには、技術もさることながら、生まれついての天稟(てんびん)に負う。
ナルシシズムとある種のマゾヒズム、それがたがいにからみ合って、芸は昇華する。
かって太宰や安吾にのめり込んでいった編集者たちは、
きっとそんな作家の底知れぬ魔力にとり憑かれいったのにちがいない。
・・》
注)ページ208から引用
注)原文にあえて改行を多くした。
こうした部分を読み込むと、私はテラスに下り立ち、
煙草を喫いながら、考え込んでしまうのある。
そして、若き世代で小説家をめざす人、或いは出版社で文藝の編集者をめざす人、
この人たちにとっては哲学書の一冊に相当する集約された明言、と確信をしたのであった。
私は『文壇うたかた物語』を半分ぐらい読んだ限りであるが、
数多くの小説家、編集者の軌跡と言動が明示されているので、
この分野にめざす人の必読書と思い深めたりした。
このような読み込みをすると、中々次ページに進めず、嬉しい悲鳴を心の中であげながら、
読んでいるのである。
そして目に疲れを感じたり、綴られている内容を深く思考したりする時、
玄関の軒下、主庭のテラスのはずれで、
小雨降る中、モミジの朱紅色に染められた情景を眺めたりし、思索する。
この後、私なりの心の発露として、日に数通ばかりの投稿文を認(したた)めているので、
どのようにしょうかと迷っている。
href="http://www.blogmura.com/">
今朝、4時半過ぎに目覚め、玄関の軒下で煙草を喫ったりしていたが、
夜半の未明時より雨が降りだし、日中は雨の一日です、
と昨夜の天気情報は報じていたのに、どうしたのかしら、と思いながら、
薄暗い中どんよりとした曇り空を見上げたりした。
私は居間に戻った後、洗面をし、煎茶を淹れたり、
新聞が配達される前にネットでニュースを見たりしていた時に、静かに雨が降りだしてきた。
この後、このサイトの投稿文を綴ったりしていた。
そしてネットで地元の天気情報を検索したら、
朝の6時は6度、昼下がりは9度、夜の6時は8度で雨の降る一日、
と表示され、平年並みかしら、と苦笑したりした。
このような冷たい雨の降る日は、買物と散策は取りやめて、
読書に専念しょうか、と自在でわがままな私は決意したのである。
昨日、買い求めた総合月刊雑誌の『文藝春秋』の読み残した記事を読んだ後、
中断していた大村彦次郎(おおむら・ひこじろう)・著の『文壇うたかた物語』(ちくま文庫)を読んでいる。
もとより大村彦次郎氏は長年『講談社』に勤め、編集の立場、出版社の重責を歴任された方であり、
こうした視線から私の敬愛している数多くの小説家に於いて、
作品から発露されていない言動を知る立場であったので、私なりの好奇心から読んでいる。
そして編集者と作家の立場の箇所を読むと、
《・・
編集者にとって、作家とは何だろう。
話をしているうちに、なんとなく原稿を書かせたい気分になる相手、
いや黙っていても原稿を注文したくなるような相手、
それが作家の愛嬌であり、魅力である。
銀座通りを素っ裸かであるく覚悟がなければ、小説は書けない、
といったのは、太宰治だ。
ものを書くには、技術もさることながら、生まれついての天稟(てんびん)に負う。
ナルシシズムとある種のマゾヒズム、それがたがいにからみ合って、芸は昇華する。
かって太宰や安吾にのめり込んでいった編集者たちは、
きっとそんな作家の底知れぬ魔力にとり憑かれいったのにちがいない。
・・》
注)ページ208から引用
注)原文にあえて改行を多くした。
こうした部分を読み込むと、私はテラスに下り立ち、
煙草を喫いながら、考え込んでしまうのある。
そして、若き世代で小説家をめざす人、或いは出版社で文藝の編集者をめざす人、
この人たちにとっては哲学書の一冊に相当する集約された明言、と確信をしたのであった。
私は『文壇うたかた物語』を半分ぐらい読んだ限りであるが、
数多くの小説家、編集者の軌跡と言動が明示されているので、
この分野にめざす人の必読書と思い深めたりした。
このような読み込みをすると、中々次ページに進めず、嬉しい悲鳴を心の中であげながら、
読んでいるのである。
そして目に疲れを感じたり、綴られている内容を深く思考したりする時、
玄関の軒下、主庭のテラスのはずれで、
小雨降る中、モミジの朱紅色に染められた情景を眺めたりし、思索する。
この後、私なりの心の発露として、日に数通ばかりの投稿文を認(したた)めているので、
どのようにしょうかと迷っている。
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