私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、何よりも魅了されたのは、
日曜日に於いて掲載される【本よみうり堂】の中のある書評のひとつであった。
荒川洋治・著の『文学の門』(みすず書房、2500円)を作家・川上未映子さんの書評文であった。
無断であるが、この書評文を書き写させて頂く。
《
「散文は、社会的なもの、社会的責任をおうものであり、
個人のことばは、だらだら無反省に書きつける場ではない。
疑問をもつたり検証したり反省することは、面倒なことだが、その面倒なことに耐えるから、
表現も、書く人も信頼された。
そのことが次第に忘れられてきた」。
古今東西の詩や小説や批評はもとより、
プロ野球やバライティ番組、電車の中で偶然に耳した会話から漢語からウクライナ短編集まで、
日常に見え隠れする言葉とのふれあいを通じて、
散文とはいったい何か、
現在において読み書きするとはどういった意味と可能性をもつのかについて、
とても丁寧に考えせられたエッセイ集である。
ネットが広く普及して、誰もが自分のことを快感だけを頼りに綴り、
またそれを読む機会が増えた。
表現は、自分が特別だと思いこむ自意識の慰めのためにあるのではなく、
他者を想像し、認め、思いやるための発明であり運動であったという事実が、
本書を読み進めるうちにゆっくりと恢復してくる。
ときおり紹介される詩や小説の一節は、
どれもそんな本質に触れるようなもので光り、胸を打たれる。
日々のくらしの中で自分はどんな言葉を使い、どんな言葉を読んでいるか。
いま世の中に満ちてある散文について考え、またそれを問うことは、
じつは正しく自分に、そして生活に向き合うことと地続きにあるのだと思う。
しかしどんな文章でもどんな話も
「どこかをめざしている。
沈んでいいものは、ひとつもない」。
ただ易しいのではなく、読者に語りかけるような「あたたかい」散文で書かれたこの魅力的な作品は、
それじたいが文学批評の構造をもっている。
生きているかぎり言葉に関係しない人はいない。
誰もがたくさんの「門」をくぐりぬけている最中で、
その奥になにがあるのかを自分の言葉で見つめ、考えるときがやってきた。
》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
http://www.msz.co.jp/book/detail/07501.html
☆ 荒川洋治・著作 『文学の門』(みすず書房) ☆
齢ばかり重ねた私は恥ずかしい限りであるが、著作者の詩人・荒川洋治、書評された作家・川上未映子、
両氏の作品を読んだことがない。
私は遅ればせながら、高校時代に読書にめざめ、
映画・文学青年の真似事をしたく、大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら4年ばかり彷徨(さまよ)い続けた時期がある。
あえなく挫折後、人生の設計をやり直すためにサラリーマンの世界に入り、
民間会社に何とか中途入社でき、
あるレコード会社の管理畑で35年ばかり勤めた後、定年退職後は年金生活に甘んじている。
しかし言葉による力は、写真、映画、音楽などよりも遥かに力を秘めた世界であると信じて、
かたくなに50年近く思い続けているひとりである。
私は小説、随筆、ノンフィクション、歴史書などの読書を最優先しているが、
退職後のまもない時、たまたまブログの世界を知り、
久々に書くことに苦楽を体験をしながら、サイトに投稿文を旅行の不在でない限り、投稿して六年目を迎えている。
もとよりブログの世界は、新聞の投稿欄、総合雑誌の投稿欄などを含めて編集権がないので、
ある程度の自身に節度があれば、自在に投稿でき、公表できる世界である。
私は定年退職後の身過ぎ世過ぎの年金生活をして、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露として綴っているが、
心で思うこと、考えていることを文章化にする時、ただちに言葉をつむぐことは稀(ま)れであり、
つたない私は苦心惨澹とすることが多いのである。
文章修行の未熟かしら、と思いながら綴っているのが本音であり、
こればかりは年齢に寄る体験とは、関係はなく、
文才に乏しい私は、ひたすら努力の結晶と思いながら、悪戦苦闘しながら投稿文を綴っている。
こうした思いがあるので、偶然に読んだ荒川洋治・著の『文学の門』の作家・川上未映子さんに寄る書評文を
深く精読しながら教示され、魅了されたのである。
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今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、何よりも魅了されたのは、
日曜日に於いて掲載される【本よみうり堂】の中のある書評のひとつであった。
荒川洋治・著の『文学の門』(みすず書房、2500円)を作家・川上未映子さんの書評文であった。
無断であるが、この書評文を書き写させて頂く。
《
「散文は、社会的なもの、社会的責任をおうものであり、
個人のことばは、だらだら無反省に書きつける場ではない。
疑問をもつたり検証したり反省することは、面倒なことだが、その面倒なことに耐えるから、
表現も、書く人も信頼された。
そのことが次第に忘れられてきた」。
古今東西の詩や小説や批評はもとより、
プロ野球やバライティ番組、電車の中で偶然に耳した会話から漢語からウクライナ短編集まで、
日常に見え隠れする言葉とのふれあいを通じて、
散文とはいったい何か、
現在において読み書きするとはどういった意味と可能性をもつのかについて、
とても丁寧に考えせられたエッセイ集である。
ネットが広く普及して、誰もが自分のことを快感だけを頼りに綴り、
またそれを読む機会が増えた。
表現は、自分が特別だと思いこむ自意識の慰めのためにあるのではなく、
他者を想像し、認め、思いやるための発明であり運動であったという事実が、
本書を読み進めるうちにゆっくりと恢復してくる。
ときおり紹介される詩や小説の一節は、
どれもそんな本質に触れるようなもので光り、胸を打たれる。
日々のくらしの中で自分はどんな言葉を使い、どんな言葉を読んでいるか。
いま世の中に満ちてある散文について考え、またそれを問うことは、
じつは正しく自分に、そして生活に向き合うことと地続きにあるのだと思う。
しかしどんな文章でもどんな話も
「どこかをめざしている。
沈んでいいものは、ひとつもない」。
ただ易しいのではなく、読者に語りかけるような「あたたかい」散文で書かれたこの魅力的な作品は、
それじたいが文学批評の構造をもっている。
生きているかぎり言葉に関係しない人はいない。
誰もがたくさんの「門」をくぐりぬけている最中で、
その奥になにがあるのかを自分の言葉で見つめ、考えるときがやってきた。
》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
http://www.msz.co.jp/book/detail/07501.html
☆ 荒川洋治・著作 『文学の門』(みすず書房) ☆
齢ばかり重ねた私は恥ずかしい限りであるが、著作者の詩人・荒川洋治、書評された作家・川上未映子、
両氏の作品を読んだことがない。
私は遅ればせながら、高校時代に読書にめざめ、
映画・文学青年の真似事をしたく、大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら4年ばかり彷徨(さまよ)い続けた時期がある。
あえなく挫折後、人生の設計をやり直すためにサラリーマンの世界に入り、
民間会社に何とか中途入社でき、
あるレコード会社の管理畑で35年ばかり勤めた後、定年退職後は年金生活に甘んじている。
しかし言葉による力は、写真、映画、音楽などよりも遥かに力を秘めた世界であると信じて、
かたくなに50年近く思い続けているひとりである。
私は小説、随筆、ノンフィクション、歴史書などの読書を最優先しているが、
退職後のまもない時、たまたまブログの世界を知り、
久々に書くことに苦楽を体験をしながら、サイトに投稿文を旅行の不在でない限り、投稿して六年目を迎えている。
もとよりブログの世界は、新聞の投稿欄、総合雑誌の投稿欄などを含めて編集権がないので、
ある程度の自身に節度があれば、自在に投稿でき、公表できる世界である。
私は定年退職後の身過ぎ世過ぎの年金生活をして、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露として綴っているが、
心で思うこと、考えていることを文章化にする時、ただちに言葉をつむぐことは稀(ま)れであり、
つたない私は苦心惨澹とすることが多いのである。
文章修行の未熟かしら、と思いながら綴っているのが本音であり、
こればかりは年齢に寄る体験とは、関係はなく、
文才に乏しい私は、ひたすら努力の結晶と思いながら、悪戦苦闘しながら投稿文を綴っている。
こうした思いがあるので、偶然に読んだ荒川洋治・著の『文学の門』の作家・川上未映子さんに寄る書評文を
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