夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 ⑥

2010-01-12 15:48:33 | 定年後の思い
妹が小学生の時、母が無理しながらピアノを購入した思いでを、
【 私の小学生時代の愛唱歌・・♪  】
と題して、2007年10月19日に投稿している。

【・・
私が小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であった。

私は農家の児として長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。


音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、


♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】


私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

小学校の後年になると、映画の【ビルマの竪琴】で『埴生の宿』、
【二等兵物語】』で『ふるさと』を知り、
これこそ私が望んでいた音楽だ、と感動しなから、深く感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
普段無口の癖、ときたま怒り出すので、活火山の由来だった。


私が小学5年になる頃、小学校の音楽室にピアノが導入されて、
何かしら女の子の児童はピアノに触れることが、羨望の的となっていた。

我が家でも妹の2人が小学5年、3年で私が中学1年になったばかりの時、
妹達は先生にほめられた、と母は聴いて、有頂天になり、無理してピアノを購入した。

小学校の音楽の成績は、兄2人と妹2人は通信簿『5』であり、
何故かしら私だけが『2』の劣等生であった。


私が25歳を過ぎた時、民間会社に中途入社し、たまたまレコード部門に配置されて数年後、
妹のひとりが母の前で、
『お兄ちゃんがレコード会社で・・
家にいる時はモーツァルトを聴いているなんて・・想像できる・・
信じられないわ・・』
と云ったらしく、私は苦笑していた。


今の兄妹は、日常は音楽から遠ざかった普通の人々で、
日常生活で最も音楽をこよなく愛聴しているのは私だけである。

尚、母が苦労して購入したピアノは、10数年後、埃(ほこり)を被(かぶ)り、
中古業者に引き取られた。
・・】


あの当時の1958(昭和33)年頃は、東京郊外に於いて、
サラリーマンなどの女の子のいる家庭では、
ピアノの練習曲のバイエルなどを習い、少しばかり誉められると、
親は無理しながら、秘かに子供に期待し、ピアノを購入した宅が多かったのである。
このようなことを思い浮かべ、私は微苦笑したりしている。



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亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 ⑤

2010-01-12 15:19:47 | 定年後の思い
私の幼年期、母の実家から妹に贈られてきた『雛人形(ひなにぎょう)』を観て、私は幼児なりの思いで綴っている。

題して、【 幼年期、『ひな祭り』の想いで・・♪ 】
2008年3月2日に投稿している。

【・・
私は昭和19年に東京郊外で、農家の三男坊として生を受けた。

祖父、父が中心となって、程ほどの広さの田畑を耕していた。

長兄、次兄の後に私は生まれきたが、祖父、父が何かしら女の子を期待していたらしく、
私の後に生まれた妹を溺愛した。

幼年期の私はこうした情景を見たしていると、
期待されないように感じ取り、いじけた可愛げのない児であった。


早春の2月の下旬になると、母の実家から贈られたひな人形を
父が蔵から出してきて、母や未婚の叔母に手渡していた。

10畳の一角にひな壇を設け、ひな人形の五段飾りを設置し、
この前に桃の花、ひし形の白色、桃色、薄緑色のひし餅を置いたりしていた。

ひし餅は、父が餅米を精米所に持ち込んだ後、
我家で臼(うす)で餅にしたものであった。

そして桃の花は、宅地の外れにある陽当たり良い所に3分咲きを活(い)け、
何かしら華やぎ、かぐわしい香りがしていた。


こんな情景を私は、ぼんやりと眺めていたが、
華やかな桃の花、3色のひし餅、そして絢爛(けんらん)な17人の人形を見つめていた。

そして、私はため息を吐(つ)きながら、
『女の子はいいよなぁ・・皆に大事にされるから・・』
といじけた私は思ったりしていた。

そして、人形の中のひとつ、護衛のようになっている人形を見つめ、
あのように綺麗な格好でいられたらいいよなぁ、
と眺めたりしていた。

このような思いを抱いた後、櫻の咲いた頃、私は小学校に入学した。


尚、『桃の節句』が終り、翌日になると母は五段飾りを撤去し、
蔵に仕舞う準備をしていた。

私はせっかく飾ったのだから、せめて櫻の咲く頃まで、
このままにして置けばよいのではないか、と幼年心に感じていた。

・・】


古今東西、齢を重ね少しボケても昔のことは鮮明に覚えていて、最近の出来事は忘れていく、
と名言があるが、私の幼年期の出来事がときおり夢に出てくるので、
やはり高齢者のひとりになったかと、微苦笑している昨今である。




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亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 ④

2010-01-12 13:04:24 | 定年後の思い
私達夫婦は私の実家のお墓参りは、母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、そして秋のお彼岸と、
少なくとも毎年4回はお墓参りをしている。

一昨年の夏のお盆の際、2008年8月1日に於いて、
【 蝉しぐれ中、お墓参り・・。 】
と題して、投稿している。

【・・
東京郊外の調布市に住む私は、この付近の1部の地域では、お盆の日である。

家内と私の実家に行き、外出する長兄と玄関先で立ち話しした。

この後、仏前にお線香を挙げた後、
義姉と世間話をしていた時、叔母が来宅した。
そして私の少年期まで何かと叔母に世話になったので、この頃の時代の話を私はしたりした。


長兄宅を辞した後、曇り空の中、家内とお墓参りに行く。
そして生前の母が好きだったお花とお線香、お米を持ち、お寺に着いた。

境内は広く、大きな樹木が数多くある上、平日だったので、尚一層に静寂だった。
そして外気は、暑さを樹木がさえぎっているので、幾分涼しげだった・・。

ときおり、蝉の声が境内と墓地の間の大きな樹木から聞こえる程度だった。


お墓参りはもとより生者の慰めと知っているが、亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたのであるので、
私は感謝の一心で、ときおりお墓参りをしている。

生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、
私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。


お墓に行き、墓石を水で清め、お花を挿して、お米を備えた。
そして、お線香を奉げる。

お参りをすると、母のおもかげがよぎっていった。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、その数ヵ月後に祖父も死去されたので、
何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、
言葉づかいが想いだされる。

晴れ間になり、お線香の煙が芳香を残して、青空の中、立ち昇りながら消えていった・・。


その後、水屋の周辺の大木の樹木の中、
蝉の鳴き声が響きかせながら、盛大に聴こえてきた・・。

・・】


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亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 ③

2010-01-12 12:16:04 | 定年後の思い
母の死去された後、1周忌の時の思いは、
【 『私を忘れないで・・』・・!? 】
と題して、一昨年の2008年1月10日に投稿している。

【・・
東京の郊外は、週末の12日の土曜日、雨のち雪、と天気予報が報じられているので、
私は少し驚いている。

平成10年1月13日の深夜の1時過ぎに母は、広尾にある赤十字の病院で亡くなった後、
私の実家の長兄宅の一室に母の遺体を安置した後、
葬儀は私の実家の長兄宅で行うことを長兄と私、親戚の叔父さんなどで取り決めた。

仮通夜はどんよりとした曇り空の寒い一日となり、
翌日のお通夜の日の朝から、この地域としては珍しく15センチ前後の風まじりの大雪となった。
公共の交通機関も支障が出たり、
ご近所のお方の尽力で、実家、周辺の雪かきをして頂いたりした。

そして、翌日の告別式は積雪10センチ前後の晴れ渡った中で行われた後、
火葬場に向う車窓から、除雪された雪がまぶしく私は感じられたのである。


翌年の1周忌の法事の日には、
粉雪が舞い、私達兄妹は、親戚、知人の方達には来て頂くことに、心配したりしていた。

お墓のあるお寺で法事が終り、ふるまいの会場に向かう時、
相変わらず粉雪が舞い降りていた・・。

叔母と妹の2人で私は歩いていたが、
『お母さん・・私を忘れないで・・と降っているのかしら・・』
と私は不謹慎ながら云った。

『そうよねぇ・・義姉(ねえ)さん・・苦労が多かったから・・
天上の神様・・覚えていたのよ・・』
と叔母は私に微笑んだ。

私と妹は微苦笑し、粉雪舞降る空を見上げ、そして会場に急いだ。
・・】

このような思いで、私は母の1周忌の法事の時の思い、情景を今でも鮮明な覚えている。






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亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 ②

2010-01-12 08:47:18 | 定年後の思い
昨年の2009年1月11日に於いて、
【 私達は、天上の母に守られて、早や10数年・・。】
と題して、投稿している。

【・・
私の母の命日が近づくと、私達夫婦と妹の2人で、
この時節に4人でお墓参りをしているのが、ここ4年ばかり続いている。

長兄は自身の子供の家族のこともあり、別にお墓参りをしているが、
昨年に私は長兄夫婦と買物の時に偶然逢った時、
『お母さん・・13回忌の時は・・親族、親戚一同の再会みたいに・・』
と私は長兄夫婦に微笑みながら云ったりした。


今朝、東京郊外は冬晴れで、風もなく、まばゆい朝の陽射しを受けている。
私達夫婦は、昼前に妹2人と駅前で待ち合わせ、お墓参りを予定しているのである。

昨夜、私はこのサイトに綴ったのを読み返していた・・。
そして、私達は天上の母に守られて、早や10数年の時が過ぎてきた、
と改めて想いだしていた。


1昨年の2007年1月13日に私はこのサイトに於いて、
【 母の命日・・♪ 】
と題して投稿しているが、再掲載する。

【・・
私の母は、入退院を三年ばかり繰り返した後、深夜に亡くなった。

1998(平成10)年1月13日のことであった。

年末に体調が悪化して、救急車で入退院をしていた赤十字の広尾の病院に運び込まれた。
年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると聴いていたので、
会社に於いて勤務していた時は、少し緊張気味で覚悟はしていた。

こうして12日に帰宅し、家内と夜の9時過ぎに食事し、少し呑んだりしていた。

長兄より連絡があったのは、10時過ぎであり、
長兄夫婦、私達夫婦が長兄の自動車でかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、穏やかな表情をして折、何よりの慰めと思った。

長兄の甥の二人も到着後、真夜中の1時過ぎに、母は他界した。

・・】



そして、この後は昨年の2008年に於いては、
【 寒気のつつまれ、お墓参り・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
東京の郊外は、曇り空で風が吹いて、体感としては今年一番の寒さである。

日中は快晴となるが、6度前後であるが、北風が1日吹くと予測されて折、
やはり大寒に向かう時節なので、寒の内と心身受け止めている。

昼時、妹の2人と私達夫婦は、お墓に近い駅で待ち合わせ、
母の命日であるので、墓参し、昼食をする。

ここ4年ばかり恒例となっているが、お互いに勤めていたので、
命日の前の休日が多かった。

私達はお互いに60前後の身となっているが、
亡くなった母に見守られて、今日に至っている。

私達はお互いに幼年期より『ちゃん』付けで呼び合っているので、
ワインなどを呑みながら昼食を頂き、
『XXちゃん・・あの時は・・』
と話しかけたりしているのである。

・・】



そしてこの後は、
【 過去は、懐(なつ)かしく、そして愛(いと)おしく・・♪】
と題して、このように投稿していた。

【・・
母の命日に私達夫婦と妹2人で、お墓参りした後、
駅前に近いイタリア料理店で昼食とした。

このレストランは、末妹が偶然見つけた料理店で、
私達は気に入り、ほぼ毎年利用している。

ある程度の赤、白のワインを呑みながら、コース料理を頂くのだが、
気心知れた私達4人は、
一年に一回のささやかに母を偲(しの)ぶ集(つど)いであるので、
話題は生前の母のエピソードが多かった・・。


私は1944(昭和19)年に農家の三男として生を受けたが、
小学2年に父に死去され、まもなく祖父も亡くなり、
技量の必要とされた農家は没落しはじめた・・。

母は嫁ぐ前の叔母2人とで、私達兄妹を何とか世間並みに願いながら育ててくれたが、
困窮した生活は隠せる状況ではなかったのである。

こうして私の小学生時代は、母、叔母達に見守られながら過ごした・・。


私は亡き母と生前のある日、母が心身元気だった時、
たまたま死生観について話し合ったりしたことがあったので、
この話を妹たちに話していた時、ふと祖父の妹の方を想いだした・・。

私達が最も生活に困窮した時、あの頃、
このお方は頻繁に来宅し、私と妹の2人に何かと面倒を見てくれたのである。

このような話題になると、
あの叔母さんには特にお世話になった、と私達は話し合った。

私達は多くのお方に見守れながら、
今は世間並みの生活を送ることが出来ているが、
過ぎ去った困窮した時代は、懐かしく、愛(いと)おしくも感じられ、
お互いに、あの時は、と話し込んだりした。

・・】


このように綴っていたのを読み返していたのである。
私の母の仮通夜の日、雪が降りはじめ、
翌日の通夜の日は、東京の郊外としては稀(まれ)なほど、15センチ前後の積雪となった。

私はこの時節になると、雪を舞い降る状景を見つめると、
『私を忘れないでね・・』
と母の声が聴こえたように思い、
私は心の中で『おかあさん・・』と呟(つぶや)いたりしている。

・・】


このように投稿していたのであるが、齢を重ねた高齢者の65歳の身であるが、
幾つになっても人生で迷ったりするたびに、
お母さんだったら・・どう対処したの、と思ったりしている。




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