私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、カレンダーを見たりすると、小正月と赤い字で小さく明示されていたので、
私は微笑んだりしたのである。
新たな年を迎えた正月をご家族一同で過ごされ、仕事始めをされた後に『七草がゆ』を頂き、
そしてお供えの鏡餅を下ろし、鏡開きをされた後、ほっと家族でされるのが、
一月の中旬のこの頃である。
古来より日本の多くの人たちは、このように過ごされ、特にご婦人たちがゆっくりとした気持ちになれるので、
小正月は『女正月』とも称せられると思ったりしている。
ここ10数年は政治の混迷、経済の悪化が加わり、実質ご家族でゆっくりできるのは、
明日の16日、17日の土日の休日かしら、と無力な年金生活の私は感じている。
このようにぼんやりと昨年の今頃に私の投稿した綴りを読み返しをしたりした・・。
昨年の2009年の1月13日に於いて、
【 改めて、『どんと焼き』の想いで・・♪ 】
と題して、投稿していた。
【・・
ここ数日、NHKのニュースを視聴していると、
地方に於いて、『どんと焼き』の情景が放映されて折、私は懐かしげに見惚(みと)れていたのである・・。
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
遠い昔、私の近くの実家は、祖父と父が健在だった頃、
農業を営(いとな)んで、程々の広さの田畑を耕し、雑木林もある農家であった・・。
そして、今頃の時節に、確かに『どんと焼き』をしていたと思い、
飯倉春武・編の『日本人のしきたり』(青春新書)を本棚から取り出して、読んだりしたのである。
この中で、《左義長(さぎちょう)》という項目で、
正月飾りを燃やす理由、と付記されて、明晰に解説されていた。
無断であるが、転載させて頂く。
《・・
小正月の1月15日の前後に行われる火祭りが『左義長』です。
『左義長』は『どんと焼き』、『どんと祭り』とも呼ばれ、
この日には、正月に飾った門松やしめ飾りを、神社や寺院の境内などに持ち寄って燃やしました。
いわば正月飾りの後始末の行事ですが、
燃やす時の煙に乗って、新年に訪れた年神様が、天上に帰っていくと信じられたのです。
そのとき同時に、棒の先に餅・芋・だんごなどを刺し、焼いて食べたりします。
地域によって違いはあるものの、
門松やしめ飾りなどを燃やした火で焼いて食べると、その年は無病息災であると信じられました。
なぜ『左義長』と呼ばれるかについては、
平安時代の宮中の儀式で、三毬杖(さぎちょう)と呼ばれる青竹を立てて、
正月の飾り物を燃やしたことに由来するという説や、
鳥追い行事の鷺鳥(さぎちょう)から来ているなどの説があります。
・・》
注)解説の原文をあえて改行を多くした。
私はこの解説を読みながら、『どんど焼き』に於いて、
遠い昔、どうして青竹を用いていたか、初めて理解したのである。
私は『どんど焼き』については、このサイトに於いて、
一昨年の2007年1月20日で
【その昔、小正月、そして20日正月・・♪】
と題して、投稿していたが、あえて再掲載をする。
【・・
私は東京の郊外に住んでいるが、私の幼年期の頃を想いだしていた・・。
1951(昭和26)年の頃は小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で程々の広さの田畑を耕作していた農家の児であった。
お正月の三が日が終わると、七草がゆ、鏡開き、そしてどんと焼きをしていた。
この当時のこの地域に於いては、それぞれの旧家では、
その家なりに工夫して、『どんと焼き』を行っていたのである
私の実家に於いては、冬枯れの田んぼの外れに青竹を10数本ぐらい建てかけ主柱として、
稲の藁(わら)で覆(おお)いながら高い塔のように10メートル前後に作り上げた後、
旧年で使用していた注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、そして新年に彩(いろど)った輪飾りなどを清めた後、燃やしたりした。
そのまじかで、枝葉に幾つも付けた団子をこの燃え上がる火で焼いたりしていた。
このようなことを思い馳(はせ)たりしていた・・。
古人達は、20日正月と称していたので、先程調べていたら、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)に於いて、次のように述べられていた。
《・・
『20日正月』とは、正月の祝い納めをし、1月15日の『小正月』の飾り物などを片付ける日のことである。
つまり、元旦から始まった正月が、完全に終結する日を意味して折、
雪に閉ざされて、余り仕事もないこの季節を、少しでも明るく過ごそうととする心情が、
このような制度を作りだしたのではないだろうか。
小正月も20日正月も、今では地方にしか見られない風習になっているが、
かっての小正月は、それなりに重要な新年の行事だったのだ。
15日の朝、一年の健康を願う『小豆(あずき)がゆ』を食べる風習が各地で見られたり、
豊作を願って木に『繭玉(まゆだま)』を飾ったり、
若者が鬼の面をかぶって蓑(ミノ)を着け、家々を訪問して、怠け者を探し廻る儀礼などが行われたものだった。
今でも15日に、火を燃やして正月の飾りや書き初めなどを焼く『左義長(さぎちょう)』や、
『ドンド焼き』を、盛大に行う地方が少なくないらしい。
この火にあたると、1年間、風邪を退かないと云われてきたのである。
こうしてみると、小正月は健康と豊作などを祈る儀式だった訳であり、
20日正月は、そのお終(しま)いの日だったのだろう。
・・》
以上、無断であるが引用させて頂だいた。
私は遠い昔のことは、忘れかけていた。
『小豆がゆ』も確かに頂いたこともあったし、
どんど焼も子供心にも風邪を退かないようにと、火に近づいたりした。
枝葉につけた数多いの団子も食べたりしたが、
この枝葉は宅地の外れにあった雑木林の大きな樹木から採っていたのであるが、
何の樹木から採ったのかは・・想いだせないでいる。
・・】
このように綴っていたのであるが、
我家は私が小学2年3学期に父が病死し、そして祖父も小学三年の一学期に亡くなり、
男手の大黒柱を失った実家は没落しはじめ、『どんと焼き』も取りやめたのである。
そして、まもなく実家の周辺も住宅街に急速に変貌し、
私が小学校を卒業する頃になると、どの旧家でも『どんと焼き』をすることなく、
最寄の神社などに注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、輪飾りなどを持ち寄って、
神社の境内で共同の『どんと焼き』となったのである。
私は、その家なりの『どんと焼き』に愛惜を深めたためか、
神社で各家の持ち寄った『どんと焼き』には興味がなく、
これ以来、私が幼年期に体験した実家の『どんと焼き』が心の宝物と思い、
今日に至っているのである。
・・】
このように投稿していたのであるが、改めて読み返しても、
たがか『どんと焼き』、されど『どんと焼き』、と思いながら、
その昔、我が生家で行われた『どんと焼き』が懐かしく愛惜を深めているのは確かなことである。
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今朝、カレンダーを見たりすると、小正月と赤い字で小さく明示されていたので、
私は微笑んだりしたのである。
新たな年を迎えた正月をご家族一同で過ごされ、仕事始めをされた後に『七草がゆ』を頂き、
そしてお供えの鏡餅を下ろし、鏡開きをされた後、ほっと家族でされるのが、
一月の中旬のこの頃である。
古来より日本の多くの人たちは、このように過ごされ、特にご婦人たちがゆっくりとした気持ちになれるので、
小正月は『女正月』とも称せられると思ったりしている。
ここ10数年は政治の混迷、経済の悪化が加わり、実質ご家族でゆっくりできるのは、
明日の16日、17日の土日の休日かしら、と無力な年金生活の私は感じている。
このようにぼんやりと昨年の今頃に私の投稿した綴りを読み返しをしたりした・・。
昨年の2009年の1月13日に於いて、
【 改めて、『どんと焼き』の想いで・・♪ 】
と題して、投稿していた。
【・・
ここ数日、NHKのニュースを視聴していると、
地方に於いて、『どんと焼き』の情景が放映されて折、私は懐かしげに見惚(みと)れていたのである・・。
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
遠い昔、私の近くの実家は、祖父と父が健在だった頃、
農業を営(いとな)んで、程々の広さの田畑を耕し、雑木林もある農家であった・・。
そして、今頃の時節に、確かに『どんと焼き』をしていたと思い、
飯倉春武・編の『日本人のしきたり』(青春新書)を本棚から取り出して、読んだりしたのである。
この中で、《左義長(さぎちょう)》という項目で、
正月飾りを燃やす理由、と付記されて、明晰に解説されていた。
無断であるが、転載させて頂く。
《・・
小正月の1月15日の前後に行われる火祭りが『左義長』です。
『左義長』は『どんと焼き』、『どんと祭り』とも呼ばれ、
この日には、正月に飾った門松やしめ飾りを、神社や寺院の境内などに持ち寄って燃やしました。
いわば正月飾りの後始末の行事ですが、
燃やす時の煙に乗って、新年に訪れた年神様が、天上に帰っていくと信じられたのです。
そのとき同時に、棒の先に餅・芋・だんごなどを刺し、焼いて食べたりします。
地域によって違いはあるものの、
門松やしめ飾りなどを燃やした火で焼いて食べると、その年は無病息災であると信じられました。
なぜ『左義長』と呼ばれるかについては、
平安時代の宮中の儀式で、三毬杖(さぎちょう)と呼ばれる青竹を立てて、
正月の飾り物を燃やしたことに由来するという説や、
鳥追い行事の鷺鳥(さぎちょう)から来ているなどの説があります。
・・》
注)解説の原文をあえて改行を多くした。
私はこの解説を読みながら、『どんど焼き』に於いて、
遠い昔、どうして青竹を用いていたか、初めて理解したのである。
私は『どんど焼き』については、このサイトに於いて、
一昨年の2007年1月20日で
【その昔、小正月、そして20日正月・・♪】
と題して、投稿していたが、あえて再掲載をする。
【・・
私は東京の郊外に住んでいるが、私の幼年期の頃を想いだしていた・・。
1951(昭和26)年の頃は小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で程々の広さの田畑を耕作していた農家の児であった。
お正月の三が日が終わると、七草がゆ、鏡開き、そしてどんと焼きをしていた。
この当時のこの地域に於いては、それぞれの旧家では、
その家なりに工夫して、『どんと焼き』を行っていたのである
私の実家に於いては、冬枯れの田んぼの外れに青竹を10数本ぐらい建てかけ主柱として、
稲の藁(わら)で覆(おお)いながら高い塔のように10メートル前後に作り上げた後、
旧年で使用していた注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、そして新年に彩(いろど)った輪飾りなどを清めた後、燃やしたりした。
そのまじかで、枝葉に幾つも付けた団子をこの燃え上がる火で焼いたりしていた。
このようなことを思い馳(はせ)たりしていた・・。
古人達は、20日正月と称していたので、先程調べていたら、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)に於いて、次のように述べられていた。
《・・
『20日正月』とは、正月の祝い納めをし、1月15日の『小正月』の飾り物などを片付ける日のことである。
つまり、元旦から始まった正月が、完全に終結する日を意味して折、
雪に閉ざされて、余り仕事もないこの季節を、少しでも明るく過ごそうととする心情が、
このような制度を作りだしたのではないだろうか。
小正月も20日正月も、今では地方にしか見られない風習になっているが、
かっての小正月は、それなりに重要な新年の行事だったのだ。
15日の朝、一年の健康を願う『小豆(あずき)がゆ』を食べる風習が各地で見られたり、
豊作を願って木に『繭玉(まゆだま)』を飾ったり、
若者が鬼の面をかぶって蓑(ミノ)を着け、家々を訪問して、怠け者を探し廻る儀礼などが行われたものだった。
今でも15日に、火を燃やして正月の飾りや書き初めなどを焼く『左義長(さぎちょう)』や、
『ドンド焼き』を、盛大に行う地方が少なくないらしい。
この火にあたると、1年間、風邪を退かないと云われてきたのである。
こうしてみると、小正月は健康と豊作などを祈る儀式だった訳であり、
20日正月は、そのお終(しま)いの日だったのだろう。
・・》
以上、無断であるが引用させて頂だいた。
私は遠い昔のことは、忘れかけていた。
『小豆がゆ』も確かに頂いたこともあったし、
どんど焼も子供心にも風邪を退かないようにと、火に近づいたりした。
枝葉につけた数多いの団子も食べたりしたが、
この枝葉は宅地の外れにあった雑木林の大きな樹木から採っていたのであるが、
何の樹木から採ったのかは・・想いだせないでいる。
・・】
このように綴っていたのであるが、
我家は私が小学2年3学期に父が病死し、そして祖父も小学三年の一学期に亡くなり、
男手の大黒柱を失った実家は没落しはじめ、『どんと焼き』も取りやめたのである。
そして、まもなく実家の周辺も住宅街に急速に変貌し、
私が小学校を卒業する頃になると、どの旧家でも『どんと焼き』をすることなく、
最寄の神社などに注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、輪飾りなどを持ち寄って、
神社の境内で共同の『どんと焼き』となったのである。
私は、その家なりの『どんと焼き』に愛惜を深めたためか、
神社で各家の持ち寄った『どんと焼き』には興味がなく、
これ以来、私が幼年期に体験した実家の『どんと焼き』が心の宝物と思い、
今日に至っているのである。
・・】
このように投稿していたのであるが、改めて読み返しても、
たがか『どんと焼き』、されど『どんと焼き』、と思いながら、
その昔、我が生家で行われた『どんと焼き』が懐かしく愛惜を深めているのは確かなことである。
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