夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときおり私が、月を眺めたりする時、ささやかに思い重ねる本心は・・。

2011-05-08 21:35:53 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
夜のひととき、玄関庭に下り立ち、煙草を喫ったりしている。
そして、ときおり月を眺めながら、満月に近い時などは、
月もにっこりと微笑(ほほえ)でいる、と私は感じながら思わず微笑させられたりしている。

先ほど、たまたま月を眺め、鮮明な三日月を眺めたりした。
確か5年前の秋頃には、三日月を見ると、絢香(あやか)ちゃんだ、
と呟(つぶや)いたりしていた。

ご年配のお方の一部には、お解かりにならないと思うが、
若き女性でシンガーソング・ライターしている方であり、
初期の頃は『三日月』などの名曲を発表された才気あふれるお方で、
私は久々に優れた圧倒的に感性のある人と直感し、魅了された人である。

この絢香(あやか)ちゃんに瞬時に魅了された私は、62歳の齢を重ねた身であったが、
確か2006年秋の頃は、少なくとも300回は聴いたりして熱中していたこともあった・・。

この当時の私は、日頃から音楽も好きであるが、
ここ5、6年は若手の音楽には興味を薄れていた頃であったが、
『I believe』、『Real voice』、『三日月』の3曲を聴いた限りであったが、
歌詞と歌声に圧倒的に魅せられてしまったのである。

何が好いかといわれても、問われれば、
それぞれの男女の間の恋しさの恋情と同様に、その人なりの感覚、そして感性の問題である。


昨今の私の心は、絢香ちゃんの世界からは遠ざかっているが、
月を眺めれば、過ぎ去った日々に思いを馳(は)せたりしている・・。

そして私は齢を重ね、66歳の身となっているが、
それなりに幾たびの出来事を思い返したりし、微苦笑をしている。

そして時折、ほのかな思いに心を寄せたりし、
私はそれぞれの時節の月から享受をさせられている。

古人の時代より歌人達が、月を眺め哀歓を寄せたりして、
詠(よ)まれた歌が数多く残されている。

あの頃から長い歳月が過ぎているが、人の心は変らぬ思いがあり、
私なりに月に眺むる時、ときおり残されている名歌を心の中で呟(つぶや)き、
心を寄せたりしている。


巡り逢ひて見しやそれとも
     分かぬ間に雲隠れにし夜半(よわ)の月かな
        
                    作者・紫 式部


秋風にたなびく雲の絶え間より
       漏れ出づる月の影のさやけさ

作者は・・確(たし)か・・左京太夫・・あきすけ・・だったかしら、
と思い返したりしている。


そして私は月は眺(なが)むることであり、月に行き探検されるなどは、
私にとっては論外と思っている。

その上、私は科学などの発達より、
何よりも情緒や情感をこよくなく大切にし、日々を過ごしている。


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『母の日』を迎え、ここ数年は秘かに一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌を心の中で唄い・・。

2011-05-08 10:46:17 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見つめると、
『母の日』と朱記されていたが、
私たち夫婦は子どもに恵まれなく我が家は2人だけの家庭なので、
思わず微苦笑した・・。

私は小学2年の昭和28(1953)年に父に病死され、
母の保護下のもとで兄ふたり、妹ふたりの中で、サンドイッチのような挟(はさ)まれながら育った。
私が25歳を過ぎ、遅ればせながら民間会社に中途入社できた後、
『母の日』の前日には、何か洋服の買う時に足しにして頂戴、
といくばくかの現金を包み、母に手渡したりし、送金をしたりしていた。

私の50代のなかば、平成10(1998)年に入退院を繰り返していた母に死去された。
古来より男は、ともすれば父親に対しては忘れがちであり、
母親はいつまでも心に残る、と云われているが、
ときおり私も母の言葉やしぐさを思い出されている。

そして、母の生前の時にもう少し私は優しくしてあければよかった、
と後悔をする時もあるが、
家内が何より私の母を信頼した言動をしてきたので、家内は私の母に可愛がれたりしたのが、
せめての私の救いとなっている。


私達夫婦は家内の両親と私の40代のなかばの頃から、
ときおり国内旅行をしてきた。

私の定年退職の直前に家内の父が亡くなり、
独り住まいとなった家内の母と私達夫婦は、年に数回は国内旅行に行っている。
そして、家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多い。

2年前の春先、鹿児島の知覧の特攻平和会館を観たいわ、
と家内に行ったりしたので、
私達夫婦は、少し『母の日』には早いが、鹿児島市内・霧島温泉に4泊5日で行き、
この間のひとときに家内たちは知覧の特攻平和会館を訪れたりした。

そして、独り住まいの家内の母は、私より14歳の齢上で後期高齢者の身であり、
平素は女友達のグループで小旅行をしたり、街歩きをしたり、
或いは実家の上越市に訪れたりすることが多い。

しかしながら、自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、暖冷房器具、衣服などは、おぼつかなくなり、
家内は季節の変わるたびに、6泊7日前後で滞在し、庭の手入れを含めて、
孤軍奮闘を重ねているのが現状でもある。


こうした状況なので、私たち夫婦は『母の日』に関しては、
ここ7年は特に花束とか品物のプレゼント、或いは食事会などは皆無となっている。


私は2年前の頃から、テレビである音楽番組を視聴していたら、
一青窈(ひとと・よう)さんが出演され、自ら作詞された『ハナミズキ』の歌を唄う前に、
『・・私が10歳を過ぎてまもない時・・母が亡くなわれ・・
この歌の三番は母を偲んで書き上げました・・』
このようなメッセージを発露したあとで、この『ハナミズキ』を唄われ、
私は胸が熱くなったことがあった・・。

このような思いがあったので、せめて『母の日』には、
私は『ハナミズキ』の歌を心の中で唄おうと決意したのである。

♪ひらり蝶々を
 追いかけて 白い帆を揚げて
 母の日になれば
 ミズキの葉 贈って下さい
 待たなくもいいよ
 知らなくてもいいよ

【 『ハナミズキ』 作詞・一青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・一青窈 】

ひところ永英明さんが、圧倒的な歌唱力で、
この『ハナミズキ』をシルキー・ヴォイスの魅力あふれる声で唄っていたけれど、
無念ながら彼のように唄えないが、私なりに心を込めて精一杯唄うつもりである。


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