午後の4時過ぎ、私は居間にある音楽棚から、
何を聴こうかと少し迷った後、一枚のCDを取りだした・・。
ポップス・グループのZARDのベスト盤の一枚であった。
一時間後、私は庭のテラスに下り立ち、
ぼんやりとZARDの作詞家、ボーカリストの坂井泉水(さかい・いずみ)さんのことに思いを馳せたのである。
私は坂井泉水さんの突然亡くなわれたことを知ったのは、
確か伊豆半島の下田にある観光ホテルで温泉滞在していた2007(平成19)年5月28日で、
ロビーにあるテレビのニュースであった。
そして私は少し動揺しながら、突然の訃報に接し、お若い身なのにと悲しみを覚(おぼ)えたが、
1990年代の女性ボーカリストの代表として活躍された坂井泉水さんに、
『大変でしたね・・ご苦労様・・ゆっくりとお休み下さい・・』
と心から冥福を祈ったりした。
私はこのお方には、残念ながらお会いしたことがないが、
私なりに一時は熱愛し、歌の数々に魅了させられた時代もあった。
1993(平成5)年の晩春、私は音楽業界のレコード会社の管理畑に勤めていたが、
あるレコード会社と事実上統合なった結果、
初めて音楽プロデューサーの長戸大幸(なかと・だいこう)氏の率いるビーイング系のZARDを知った。
これより少し前の時代として、新田和長(にった・かずなが)氏の率いるファンハウスが、
女性ボーカルとしては岡村孝子、辛島美登里、永井真理子などで全盛期でもあった。
私は素人(シロウト)なりに、ZARDの透明感ある甘い若き女性の歌声、
若い女性の思いの心情を託した作詞、
そしてビーイング系に多い馴染みやすいメロディーと感じたりした。
その上、ジャケットを拝見した限りであったが、恥ずかしいことを告白すれば、
さわやかな顔立ち、確かセミ・ロングより少し長めのヘヤースタイルで、
そして胸元がまぶしく、私は瞬時に魅せられたのであった・・。
『負けないで』、『君がいない』、『揺れる想い』のシングルCDが大ヒットとなり、
アルバムとしては、前年の『HOLD ME』に続いて、『揺れる想い』が直ちにミリオンとなり、
この年の女性ボーカルとしては、頂点を極(きわ)めた。
この後、ビーイングはビーグラム社として完全独立され、
私の務めていた会社から離れていったが、数年後まで私なりにアルバムを買い続けたりした。
結果としは、私は50歳前後の1993(平成5)年に、『負けないで』を初めて聴き、
その後、音楽業界としてはCDの売上げは1998(平成10)年でピークとなった。
この前後から各社はリストラ旋風となり、
私も出向となり、初め頃の1999(平成10)年の初春、
私なりに失墜感の中、ZARDの二枚目のベスト盤を購入した時、
豪華なジャケットを眺めながら、
あの時代は違法なダウンロードもなく、純粋にCDの売上げで勝負ができた幸福な時代だった、
と懐かしげに思い浮かべたりした。
坂井泉水さんの突然亡くなわれた後、
数ヵ月後に追悼盤のアルバムの二枚が発売されて、
音楽情報誌として名高い『オリコン』のランキングの1位、2位となったのを知った。
私は平素は自宅から近い川沿いの遊歩道を散策することが多いが、
坂井泉水さんが亡くなわれた前の2006(平成18)年の6月初旬に、
偶然に坂井泉水さんを見かけたような錯覚を感じたりした・・。
27度前後の初夏の陽気の中、私は夏用の長袖のスポーツ・シャツ、ストレッチ・パンズ、
足元はウォーキング・シューズであった。
遊歩道が狭まった時、前方から若い女性が帽子を深くかぶり、
黒のTシャツを召し、ポシエットをななめ掛けして、急ぎ足のウォーキングで近寄ってきた。
私は道を避(よ)け、若い女性が通り過ぎるの待った。
この若い女性は、少し微笑んで、目礼をして通り過ぎた。
『綺麗な顔立ち・・容姿も素敵・・』
と私は心の中で呟(つぶや)きながら、瞬時に魅了された。
そしてZARDの坂井泉水さんのデビューしてまもない時の顔立ちに似ている、
と遠ざかって行く後姿を見て、思ったりした。
この後、私はぼんやりと、
♪揺れる想い 体じゅう感じて
君と歩き続けたい in your dream
【 『揺れる想い』 作詞・坂井泉水、作曲・織田哲郎、編曲・明石昌夫、唄・坂井泉水 】
と思わず心の中で口ずさんだりした。
その後、まもなくと、俺も齢を取った、と微苦笑させられたのである。
このようにささやかな思いがあり、
ときおり66歳の私でも、ZARDのアルバムの5枚を聴いたりしている・・。
下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村

にほんブログ村
何を聴こうかと少し迷った後、一枚のCDを取りだした・・。
ポップス・グループのZARDのベスト盤の一枚であった。
一時間後、私は庭のテラスに下り立ち、
ぼんやりとZARDの作詞家、ボーカリストの坂井泉水(さかい・いずみ)さんのことに思いを馳せたのである。
私は坂井泉水さんの突然亡くなわれたことを知ったのは、
確か伊豆半島の下田にある観光ホテルで温泉滞在していた2007(平成19)年5月28日で、
ロビーにあるテレビのニュースであった。
そして私は少し動揺しながら、突然の訃報に接し、お若い身なのにと悲しみを覚(おぼ)えたが、
1990年代の女性ボーカリストの代表として活躍された坂井泉水さんに、
『大変でしたね・・ご苦労様・・ゆっくりとお休み下さい・・』
と心から冥福を祈ったりした。
私はこのお方には、残念ながらお会いしたことがないが、
私なりに一時は熱愛し、歌の数々に魅了させられた時代もあった。
1993(平成5)年の晩春、私は音楽業界のレコード会社の管理畑に勤めていたが、
あるレコード会社と事実上統合なった結果、
初めて音楽プロデューサーの長戸大幸(なかと・だいこう)氏の率いるビーイング系のZARDを知った。
これより少し前の時代として、新田和長(にった・かずなが)氏の率いるファンハウスが、
女性ボーカルとしては岡村孝子、辛島美登里、永井真理子などで全盛期でもあった。
私は素人(シロウト)なりに、ZARDの透明感ある甘い若き女性の歌声、
若い女性の思いの心情を託した作詞、
そしてビーイング系に多い馴染みやすいメロディーと感じたりした。
その上、ジャケットを拝見した限りであったが、恥ずかしいことを告白すれば、
さわやかな顔立ち、確かセミ・ロングより少し長めのヘヤースタイルで、
そして胸元がまぶしく、私は瞬時に魅せられたのであった・・。
『負けないで』、『君がいない』、『揺れる想い』のシングルCDが大ヒットとなり、
アルバムとしては、前年の『HOLD ME』に続いて、『揺れる想い』が直ちにミリオンとなり、
この年の女性ボーカルとしては、頂点を極(きわ)めた。
この後、ビーイングはビーグラム社として完全独立され、
私の務めていた会社から離れていったが、数年後まで私なりにアルバムを買い続けたりした。
結果としは、私は50歳前後の1993(平成5)年に、『負けないで』を初めて聴き、
その後、音楽業界としてはCDの売上げは1998(平成10)年でピークとなった。
この前後から各社はリストラ旋風となり、
私も出向となり、初め頃の1999(平成10)年の初春、
私なりに失墜感の中、ZARDの二枚目のベスト盤を購入した時、
豪華なジャケットを眺めながら、
あの時代は違法なダウンロードもなく、純粋にCDの売上げで勝負ができた幸福な時代だった、
と懐かしげに思い浮かべたりした。
坂井泉水さんの突然亡くなわれた後、
数ヵ月後に追悼盤のアルバムの二枚が発売されて、
音楽情報誌として名高い『オリコン』のランキングの1位、2位となったのを知った。
私は平素は自宅から近い川沿いの遊歩道を散策することが多いが、
坂井泉水さんが亡くなわれた前の2006(平成18)年の6月初旬に、
偶然に坂井泉水さんを見かけたような錯覚を感じたりした・・。
27度前後の初夏の陽気の中、私は夏用の長袖のスポーツ・シャツ、ストレッチ・パンズ、
足元はウォーキング・シューズであった。
遊歩道が狭まった時、前方から若い女性が帽子を深くかぶり、
黒のTシャツを召し、ポシエットをななめ掛けして、急ぎ足のウォーキングで近寄ってきた。
私は道を避(よ)け、若い女性が通り過ぎるの待った。
この若い女性は、少し微笑んで、目礼をして通り過ぎた。
『綺麗な顔立ち・・容姿も素敵・・』
と私は心の中で呟(つぶや)きながら、瞬時に魅了された。
そしてZARDの坂井泉水さんのデビューしてまもない時の顔立ちに似ている、
と遠ざかって行く後姿を見て、思ったりした。
この後、私はぼんやりと、
♪揺れる想い 体じゅう感じて
君と歩き続けたい in your dream
【 『揺れる想い』 作詞・坂井泉水、作曲・織田哲郎、編曲・明石昌夫、唄・坂井泉水 】
と思わず心の中で口ずさんだりした。
その後、まもなくと、俺も齢を取った、と微苦笑させられたのである。
このようにささやかな思いがあり、
ときおり66歳の私でも、ZARDのアルバムの5枚を聴いたりしている・・。
下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪


