夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私なりの住まいのあこがれ、そして現実は・・、と微苦笑を重ねて。

2011-05-05 22:21:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
ここ2週間ぐらいは本の整理をしたり、庭の手入れの樹木の剪定、草むしりをしたり、
そして、いつものように買物、散策をした後は、読書して過ごしてきた。

たまたま本日は、居間のアルミサッシの雨戸が敷居に滑らかさを欠けたので、
ガタがきた雨戸を少し修正したり、
浴室の壁面のタイルが少しヒビ割れたので、最寄のホームセンターに行き、
補修剤を買い求めたりした。

そして築後33年も過ぎれば、やむえないかしら、と私は苦笑したりした。

この後、私は主庭の若葉を見つめたりしながら、
パソコンに向かい、このサイトに綴った自身の投稿文を読み返していた。

そして、あの頃はこのような思いであったのかしら、と微苦笑した・・。


【 倉本聰(くらもと・そう)・著の『失われた森厳~富良野風話~』】
と題して、2006(平成18)年5月27日に投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
今、読んでいる本は、倉本聰・著作の『失われた森厳~富良野風話~』である。

私は倉本聰氏に関しては、1部のシナリオを除き、購入し、精読しているつもりである。
従って、私はこの著作者から、色々な面で影響を受けているひとりである。

昨夜、読んでいて、私の場合であったら、と考えされられた。

一部を無断であるが、引用させて頂く。
《・・
   『適疎』
・・(略)・・
僕が住んでいる富良野の土地は文化村という森の中にある。

この村はそもそも、東大演習林元林長・高橋延清先生の、
どれ位の森にどれ位の人間が住めば、
人と森とが共存出来るかという一つの実験的な試みから始まった。

市の所有する約1万2千坪の自然林を図面上12に分割し、
家を建てる場所以外、木を伐ってはいけない。
垣根、塀などを立ててはいけない。
水は沢から引く。
電気だけは一応通してくれる。
そういうことでスタートした。

爾来に20数年、12の土地は全て売れ夫々に夫々の家が建っていたが、
僕を含めて3軒だけを除くと後は全て別荘であり、
それもあんまり利用されていないから、
全ての森は僅(わず)か3軒で殆ど独占していることになる。
言い方を変えれば、1万2千坪割る3、
イコール1軒当たり4千坪の森の空間で豊かに暮らしている計算になる。

この森にはフキ、ゼンマイ、ツクシ、フキノトウ、ウド、タラノメと山菜が豊富だし、
秋になれば様々なキノコが森のあちらこちらに顔を出し、
どこで採ろうが文句は言われない。

そもそも僕は土地は所有するという概念にかねがね疑問を持っているのだから、
塀に囲まれた都会の暮らしならいざ知らず、
自然を独占するのは自由である。

過疎の暮らしとはそういうものである。

確かに過疎の地は消費が乏しく、従って雇用の機会が少ない為に、
経済社会の概念から見れば失格というレッテルを貼られてしまうだろう。
しかし僕のような自由業のものにはここがたまらない天国である。

・・(略)・・

僕は今この土地を決して過疎でなく、適疎であると認識している。
・・》
注)著作者の原文にあえて改行を多くした。


著作者の倉本聰(くらもと・そう)氏の数多くの随筆で、概要は綴られていたのが、
具体的な敷地の関しては初めて思われ、
私は、今回の『適疎』を読んでしばらく言葉を失った。

さて、私達夫婦が、このような文化村の森の生活を万一与えられた場合、
退職後の身となった今、果たして生活して過ごせるものだろうか、と思いめぐらした・・。

著作者が40代半ばの時、開墾者のような強い意志と意欲があった上で、
周囲の人々と自ら溶け込みながら交流を重ね、自身を鍛えられた、と想像する。
著作者のご夫婦は、こうした時の流れの中、森の中で生きる知恵を修得し、
定着という稀(まれ)な栄誉を自ら獲得したと思われる。

私の20歳頃の漠然としたあこがれとしては、
里山の一面、500坪前後の多くの落葉樹の木に囲まれて、
平屋の30坪前後の住居で生活するのが夢であった。

私は自由職を目指していたが、拙(つたな)い自己を悟(さと)り、
サラリーマンの身に転じた。

28年前頃、東京の郊外にわずか百坪の敷地のある住居を構え、
若さの勢いで茶室も付けてしまい、悪戦苦闘しながら住宅ローンを返済してきた。

都心のサラリーマンの生活をしている中、
都会の垢に染まり、利便性に囲まれ、35年ばかり甘受している身となった。

定年退職後の今、単なるあこがれだけでは、心も身も無理である。

私のような小心者は、今ある庭の樹木を手入れをし、
著作者の住まわれている森に思いを馳(は)せるのが、
私の拙(つたな)い実力に相応しい生活かしらと苦笑している。
・・》

このように投稿していたのである。

私は東京郊外の調布市の片隅みに住み、世田谷区と狛江市に隣接している。
電話に関しては、管轄地域の関係で、世田谷区の管轄下となっている。
そして小田急線と京王線の間にあり、いずれも最寄駅まで15分前後の徒歩の距離である。

私たち夫婦は、自動車を所有するつもりがないので、
私は平素は駅前までは散歩がわりに歩くが、
都心に出たりする時は、殆どバスと電車を利用し、
やむなく急ぎの用事とか冠婚葬祭などの場合は、タクシーを使うこともある。

いずれにしてもバスと電車を利用しても、
自宅から都心の新宿、青山、六本木、渋谷、東京駅には、ほぼ1時間で行ける。

私の住んでいる地域は、住宅街であり、この外れに私の家がある。
そして落葉樹の多い樹木につつまれた庭を眺め、
築後33年過ぎた古惚けた家に住み、私達夫婦は子供に恵まれなかったので、
ふたりだけの生活している。

このような現状であり、私は齢を重ねるたびに体力も衰えきたので、
今のようにスーパー、専門店などで買物、病院、そして本屋が近くにないと、
何かしら不便と感じたりしている。
東京の郊外の利便性に、馴らされ甘受している。


しかしながら私の幼年期は、農家の児として育ったので、
起伏の少ない田畑、あぜ道、湧き水、そして竹林、雑木林などに、
限りなく愛惜しながら心を寄せている。

退職後、殆ど毎日は散策をしているが、付近の小公園、川沿いの遊歩道を歩くことが多い。
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所である。

私はケヤキ、コナラ、クヌギなど四季折々の情景に圧倒的に魅せられ、
そして白梅、桜(サクラ)、モミジ、公孫樹(イチョウ)などを見たりし、
季節のうつろいを眺めて、過ごしたりしている。
そして、この地域は無念ながらブナの大木がない、と苦笑したりしている。

こうした時、ときおり家内と国内旅行をして、
ブナ林の中をさまよい歩いたり、里村の情景を眺めながら、あぜ道、農道、村道を歩いたりし、
しばらく見惚(みと)れたり、ときには涙を浮かべることもある。

そして、齢を重ね体力も気力も衰えた今、
里山に住むという夢のようなあこがれの住まいと現実とは確かに違う、
と思いを知らされたりしている。


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こどもの日、『こいのぼり・・どうして上げるの・・』、齢ばかり重ねた私は苦笑し・・。

2011-05-05 08:03:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、パソコンを立ち上げるとトップページは【YAHOO! JAPAN】に設定しているので、
この中央の右側に、

《 今日はこどもの日 》

《 何をして過ごしますか
  子どもの喜ぶ所へ出かけるもよし、家で一緒に楽しむもよし。
  健やかな成長を願いつつ、端午の節句をお祝いしよう。 》

と明示されていた。

この下段のひとつには、

《 こいのぼりを上げる理由は 》

と明記されていたのであるが、
齢ばかり重ねた私は、整然とした明確な理由は答えられなかったのである・・。

そして幼児から、『こいのぼり・・どうして上げるの・・』と訊(たず)ねられた時、
困り果てるので、このサイトから、こっそりと調べたのである・・。

http://www.tokyoku.co.jp/koi/yurai.html
☆『こいのぼり』の由来☆

このようなサイトに、めぐり逢えて、私は10分ばかり読んで、
微苦笑したのである。


今回、『こいのぼり』の由来を学ぶ前の『鯉のぼり』に関する私の心情は、
このサイトに於いて、4月30日に投稿してる。
【 皐月(さつき)晴れの薫風の中、『鯉のぼり』の美麗を観て、そして思わず心の中で唄い・・。】
と題して、4月30日に投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
まばゆい陽射しで朝を迎え、庭の若葉は光帯びて、ゴールデン・ウィークに相応しい天気だ、
と微笑えんだりした。

昨日は『昭和の日』を祝うように、おだやかな快晴に恵まれ、
ときおり微風が吹き、昼下がりは18度の陽気になり、心地よい日となった。

こうした中、私は昼前の11時過ぎに、いつものようにスーパーに買物をしたりした。

その後、買い物を済ませ、小公園に寄ると、落葉樹が芽吹きを終え、
萌黄色の幼い枝葉の樹木もあれば、淡い緑に成長した樹木もある。

5、60本程度の樹木の中、風が通り過ぎると枝葉が揺れていた。
私の身体にも通り抜けて、薫風の季節になったと実感させられた。

心地良い風を受けて、清々しい空気に触れると、幸福感が一瞬よぎった。

この小公園の外れにある白色、紫色の菖蒲の花が群生していて、辺(あた)りを彩っていた。

こうした光景に見惚(みと)れたりしていると、何よりも私の心が和(なご)ませてくれる。


その後、住宅街を通り過ぎたが、この中の一軒のお宅の二階のベランタ沿いに、
鯉幟(こいのぼ)りが掲げられていた。

この住宅街は、私が高校2年の1961(昭和36)年の頃に、
大きな団地が出来て、その周辺に分譲地となった地帯であり、早くも50年近くになっている。

この住宅街は高齢者の夫妻『おふたりさま』住まわれたり、
お子様の家族が、親から引き継がれて住まわれたり、
或いは2所帯住宅で1階は親、2階はお子様の家族が住まわれて、
親子孫の三世代が同居されている家もある。

こうした家並みが並ぶ中を私は歩いていたりしたが、
我が家は子供に恵まれなかったが、たまたまこの中の家のお方が、
お孫さんの為に、鯉幟りが掲げられているのかしら、と私は微笑を頂いたりした・・。

私の住む周辺は、家並みが密集しているので、
旧家でない限り、とても鯉幟(こいのぼ)りを悠然と泳がせるスペースがなく、
ここ数10年は観かけることが少なく、たまたま鯉幟りを偶然に観て、思わず足を止め、
小振りな3つばかりの鯉が微風を受けて泳いでいたのを長らく見つめたりした・・。


その後、私は自宅に向う中、思わずひとつの歌を心の中で唄いだしたのである・・。

♪甍(いらか)の波と雲の波、
 重なる波の中空(なかぞら)を、
 
【『鯉のぼり』作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】


私は幼年期の頃は、農家であったので祖父、父が主軸となって田畑を耕し、
宅地の外れの高台には、この時節になると父が朝に鯉幟(こいのぼ)りをを掲げて、
夕暮れに取り込むことをしていた・・。
旧家のどの家も、宅地の外れに高く掲げられ、
あの当時はどの家も男の子のために、鯉幟りをこの時節になると掲げられていた・・。


♪橘(たちばな)かおる朝風に、
 高く泳ぐや、鯉のぼり。

【『鯉のぼり』作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】

このように心の中で唄ったりし、過ぎ去った時の流れを思い馳せたりした。

http://www.youtube.com/watch?v=HCOPPFP1MI8&feature=related
☆【『鯉のぼり』作詞、作曲・不詳、唄・真理ヨシコ  文部省唱歌 】☆

・・】

このような思いで、この時節になると毎年過ごしている。


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