私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、パソコンを立ち上げるとトップページは【YAHOO! JAPAN】に設定しているので、
この中央の右側に、
《 八十八夜に茶摘み 》
と題されて、若き女性たちが茶畑で、お茶を摘む情景の一葉の写真が掲載されて、
本日は、『八十八夜』だったんだぁ、と教えられ、私はクリックした。
http://dailynews.yahoo.co.jp/photograph/pickup/?1304327688
☆【YAHOO! JAPAN】<== 宇治で新茶摘み☆
この情景を見ながら、この解説の、
《・・八十八夜を迎えた2日、
京都府宇治市の宇治茶会館・茶業センター茶園で、
名産の宇治茶の新芽摘みのイベントが行われた。
あかねだすきにあねさんかぶりをした茶摘み娘が、昔ながらの手摘み作業を実演した・・》
と私は読んだりすると、遠い昔の私の幼年期が思いだされた・・。
古来より、立春から八十八日を過ぎると、お茶の新芽を摘(つ)むとされてきた。
私の幼年期は、実家が農家であり、茶畑もあったので、
何かしら、こうしたお茶を摘む情景などを観たりすると、
それなりの深い愛惜感につつまれるのである・・。
私は煎茶をこよなく好きであり、30代の頃に引っ越すたびに、
或いはここ10年、気に入っていた煎茶が製造中止となったりすると、
今度の新たな煎茶が私のお好みの範疇にめぐりあえますよう、と念じたりしていた。
私は甘みも大切であるが、何より少し苦味、そして渋みの深い煎茶が好きである。
早朝に目覚めた後にぼんやりと頂いたり、そして日中も褒めながらも頂き、
夕食の時に純米酒の辛口かビールを呑んだりした後、
夜のひとときも美味しく、煎茶は日常の友として欠かせないのである。
そして、ときおり幼年期を想いだすこともある。
遠い昔、1951(昭和26)年の私が小学校に入学した時代である。
祖父と父が中心となって農家をしていたので、
東京の郊外でも程ほど広い田畑を耕していた旧家のどの農家でも、
お茶の樹を持ち、自宅用にまかなっていた時代の頃である。
私の生家は母屋、蔵、納戸小屋の二軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風用に欅(けやき)が50数本があった。
2間ほどの間隔で植えられて折、樹高は30メートル以上あった。
隣接した欅が互いに寄り添うにになると、片方を伐採して、薪(まき)とされた。
その先は平坦な地で陽当りが良く、苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。
この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は4尺、高さは5尺程度で、50間前後の長さであった。
5月の初旬の頃になると、新芽を摘んでいた。
一家総出で、分家された人々も手伝いに来てくれた。
私が幼児の3歳頃からは、付近に莚(むしろ)を敷いた上で、寝そべっていた、
と後年に母から教えてもらっている。
新芽を摘んだ後、生葉撰り(なまはより)といって、
お茶の葉から混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。
その後、生葉を新鮮なうちに、蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。
そして、長方形の大きな台の上に炭火をおこし、
その上に鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉んでいた・・。
煎茶として出来た後、大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、家族が1年で使ったり、
祖父の一言に寄り、来宅した方の1部の方に差し上げたりしていた。
私は幼児の頃、長兄、次兄に続き生を受けた三男坊の身であったが、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、
祖父は無念と思いながらも、祖父の名から一字を私の名前に命名してくれた。
その後の私は、何となくいじけていたので、いたずらもして、父からよく怒られた。
祖父からは、私を不憫と思ったらしく可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。
私が小学二年の時に父に死去され後、まもなく祖父も亡くなり、
肝要な農作業のノウハウと労力も減退したので、
田畑の作業も出来る範囲となり、
数年過ぎると、お茶を摘む労力もままならず、やむえずなくなったのである。
私は、成人してから、煎茶を淹れる時、
ときたま祖父を想いだされる・・。
そして、煎茶を淹れる時は、特に丁重にして、早や45年ばかり過ぎている。
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この情景を見ながら、この解説の、
《・・八十八夜を迎えた2日、
京都府宇治市の宇治茶会館・茶業センター茶園で、
名産の宇治茶の新芽摘みのイベントが行われた。
あかねだすきにあねさんかぶりをした茶摘み娘が、昔ながらの手摘み作業を実演した・・》
と私は読んだりすると、遠い昔の私の幼年期が思いだされた・・。
古来より、立春から八十八日を過ぎると、お茶の新芽を摘(つ)むとされてきた。
私の幼年期は、実家が農家であり、茶畑もあったので、
何かしら、こうしたお茶を摘む情景などを観たりすると、
それなりの深い愛惜感につつまれるのである・・。
私は煎茶をこよなく好きであり、30代の頃に引っ越すたびに、
或いはここ10年、気に入っていた煎茶が製造中止となったりすると、
今度の新たな煎茶が私のお好みの範疇にめぐりあえますよう、と念じたりしていた。
私は甘みも大切であるが、何より少し苦味、そして渋みの深い煎茶が好きである。
早朝に目覚めた後にぼんやりと頂いたり、そして日中も褒めながらも頂き、
夕食の時に純米酒の辛口かビールを呑んだりした後、
夜のひとときも美味しく、煎茶は日常の友として欠かせないのである。
そして、ときおり幼年期を想いだすこともある。
遠い昔、1951(昭和26)年の私が小学校に入学した時代である。
祖父と父が中心となって農家をしていたので、
東京の郊外でも程ほど広い田畑を耕していた旧家のどの農家でも、
お茶の樹を持ち、自宅用にまかなっていた時代の頃である。
私の生家は母屋、蔵、納戸小屋の二軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風用に欅(けやき)が50数本があった。
2間ほどの間隔で植えられて折、樹高は30メートル以上あった。
隣接した欅が互いに寄り添うにになると、片方を伐採して、薪(まき)とされた。
その先は平坦な地で陽当りが良く、苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。
この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は4尺、高さは5尺程度で、50間前後の長さであった。
5月の初旬の頃になると、新芽を摘んでいた。
一家総出で、分家された人々も手伝いに来てくれた。
私が幼児の3歳頃からは、付近に莚(むしろ)を敷いた上で、寝そべっていた、
と後年に母から教えてもらっている。
新芽を摘んだ後、生葉撰り(なまはより)といって、
お茶の葉から混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。
その後、生葉を新鮮なうちに、蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。
そして、長方形の大きな台の上に炭火をおこし、
その上に鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉んでいた・・。
煎茶として出来た後、大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、家族が1年で使ったり、
祖父の一言に寄り、来宅した方の1部の方に差し上げたりしていた。
私は幼児の頃、長兄、次兄に続き生を受けた三男坊の身であったが、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、
祖父は無念と思いながらも、祖父の名から一字を私の名前に命名してくれた。
その後の私は、何となくいじけていたので、いたずらもして、父からよく怒られた。
祖父からは、私を不憫と思ったらしく可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。
私が小学二年の時に父に死去され後、まもなく祖父も亡くなり、
肝要な農作業のノウハウと労力も減退したので、
田畑の作業も出来る範囲となり、
数年過ぎると、お茶を摘む労力もままならず、やむえずなくなったのである。
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