夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『八十八夜』を迎えると、私の幼年期のお茶を摘む情景を思いだされ・・。

2011-05-02 20:26:17 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、パソコンを立ち上げるとトップページは【YAHOO! JAPAN】に設定しているので、
この中央の右側に、

《 八十八夜に茶摘み 》

と題されて、若き女性たちが茶畑で、お茶を摘む情景の一葉の写真が掲載されて、
本日は、『八十八夜』だったんだぁ、と教えられ、私はクリックした。

http://dailynews.yahoo.co.jp/photograph/pickup/?1304327688
☆【YAHOO! JAPAN】<== 宇治で新茶摘み☆

この情景を見ながら、この解説の、
《・・八十八夜を迎えた2日、
京都府宇治市の宇治茶会館・茶業センター茶園で、
名産の宇治茶の新芽摘みのイベントが行われた。
あかねだすきにあねさんかぶりをした茶摘み娘が、昔ながらの手摘み作業を実演した・・》
と私は読んだりすると、遠い昔の私の幼年期が思いだされた・・。


古来より、立春から八十八日を過ぎると、お茶の新芽を摘(つ)むとされてきた。

私の幼年期は、実家が農家であり、茶畑もあったので、
何かしら、こうしたお茶を摘む情景などを観たりすると、
それなりの深い愛惜感につつまれるのである・・。

私は煎茶をこよなく好きであり、30代の頃に引っ越すたびに、
或いはここ10年、気に入っていた煎茶が製造中止となったりすると、
今度の新たな煎茶が私のお好みの範疇にめぐりあえますよう、と念じたりしていた。

私は甘みも大切であるが、何より少し苦味、そして渋みの深い煎茶が好きである。

早朝に目覚めた後にぼんやりと頂いたり、そして日中も褒めながらも頂き、
夕食の時に純米酒の辛口かビールを呑んだりした後、
夜のひとときも美味しく、煎茶は日常の友として欠かせないのである。

そして、ときおり幼年期を想いだすこともある。


遠い昔、1951(昭和26)年の私が小学校に入学した時代である。

祖父と父が中心となって農家をしていたので、
東京の郊外でも程ほど広い田畑を耕していた旧家のどの農家でも、
お茶の樹を持ち、自宅用にまかなっていた時代の頃である。

私の生家は母屋、蔵、納戸小屋の二軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風用に欅(けやき)が50数本があった。
2間ほどの間隔で植えられて折、樹高は30メートル以上あった。
隣接した欅が互いに寄り添うにになると、片方を伐採して、薪(まき)とされた。

その先は平坦な地で陽当りが良く、苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。

この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は4尺、高さは5尺程度で、50間前後の長さであった。


5月の初旬の頃になると、新芽を摘んでいた。
一家総出で、分家された人々も手伝いに来てくれた。
私が幼児の3歳頃からは、付近に莚(むしろ)を敷いた上で、寝そべっていた、
と後年に母から教えてもらっている。

新芽を摘んだ後、生葉撰り(なまはより)といって、
お茶の葉から混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。

その後、生葉を新鮮なうちに、蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。
そして、長方形の大きな台の上に炭火をおこし、
その上に鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉んでいた・・。

煎茶として出来た後、大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、家族が1年で使ったり、
祖父の一言に寄り、来宅した方の1部の方に差し上げたりしていた。


私は幼児の頃、長兄、次兄に続き生を受けた三男坊の身であったが、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、
祖父は無念と思いながらも、祖父の名から一字を私の名前に命名してくれた。
その後の私は、何となくいじけていたので、いたずらもして、父からよく怒られた。

祖父からは、私を不憫と思ったらしく可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。

私が小学二年の時に父に死去され後、まもなく祖父も亡くなり、
肝要な農作業のノウハウと労力も減退したので、
田畑の作業も出来る範囲となり、
数年過ぎると、お茶を摘む労力もままならず、やむえずなくなったのである。

私は、成人してから、煎茶を淹れる時、
ときたま祖父を想いだされる・・。
そして、煎茶を淹れる時は、特に丁重にして、早や45年ばかり過ぎている。


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東京の郊外の我が家、主庭のテラスの前にあるモミジの樹木は・・。

2011-05-02 08:28:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
築後33年を過ぎた古惚けた我家は、主庭は落葉樹の雑木の多く、
居間の前の一角にテラスがあり、付近にモミジの樹木もある。

我が家の敷地は変形であり、家屋の関係もあり、やむやく庭は玄関庭と主庭に分かれ、
モミジに関しては、玄関庭の外れに2本、玄関の近くも植えているので、
我が家としては総計4本のモミジとなっている。

33年前の頃、金融機関から住宅ローンを頼って一戸建てを建てた時、
後に家計の重荷に成るとも知らず、若気の勢いで家の中に茶室などを設置しまったり、
庭の造成の予算が乏しくなり、実家の長兄宅から10数本の幼い雑木を貰い受けたりした。

この中にこれらのモミジであり、
かぼそかった主幹であったが、数年過ぎれば、それなりに成長した。


早春の芽吹き、萌黄色の幼い葉、そして緑色と色合いを深め、
夏は強い陽差しの木陰となり、
晩秋には朱色に染められ、錦繍の世界を褒(ほ)め、
やがては葉を落とし、樹木の周囲は朱色の絨毯のようになり、
風が吹けばテラスの付近も吹き寄せのようになる。
そして冬になれば、主幹と枝の裸樹となり、柔らかな陽差しを受けたりしている。


5年過ぎた春、私の次兄は、クリーニング店を経営していたが、
資金難を苦に、次兄は自宅で睡眠薬を多量に飲み自裁した。
私は突然の次兄の自裁に戸惑いながらも、力になれなかった愚弟として大いに悔やんだりした・・。

私は会社から帰宅するたびに、深夜になると、
居間の外れに腰かけて、茶碗酒を呑みながら、
どうしてそこまで踏み切ったの、と戸惑いながら、ため息をしたりし、
モミジの樹木に問いかけは、涙ぐんだりした・・。

そして10日ばかり過ぎた頃、私なりに次兄の追い詰められた心情を
遅ればせながら私になりに了解したのである。


平成の初めの年、台風による強風で、
2階の上の屋根にあるテレビのアンテナが落ちてきて、
テラスに散乱し、付近の茶室の雨戸、洋間のアルミのガラス戸などを壊れるところ、
たくましく大きく育ったモミジの枝葉が、受けた留めてくれたりした。


私は定年退職後、煙草を室内厳禁と自ら宣言した後は、
主庭にたたずんだり、このテラスなど煙草を喫ったりすることが多い。
そして5月頃からは陽差しが強くなるので、
私はモミジの木陰に身を寄せたりしている。


5年前の夏に、私はこの樹木の剪定をしょうと、
枝伐(えだぎり)の高枝バサミで手入れしていた時、
こんもりとした枝葉の中に、スズメ蜂の巣があったのを知らず、私は蜂に刺されて、
病院で簡単な治療を受けたりした。
翌日、市の専門家により、スズメ蜂の巣を駆除して貰ったりした。


このようなモミジであるが、
私が居間にある食卓で新聞を読んだり、食事をしたり、
家内と他愛ない話をする日常生活を、少なくとも33年は見つめられている・・。


先ほど、いつものように素足で下駄を履いて、庭のテラスに下り立った。
昨日は夕方から小雨が降ったりやんだりしていたが、
快晴の朝を迎え、樹木の枝葉は雨粒をたたえて、清々しく潤(うるお)いのある情景となっていた。

若葉の色合いは、萌黄色からこの二週間ばかりで黄緑色から新緑色に染められ、
私はさりげない日ごとに移つろう枝葉を眺めたりしていた。

空は青さ一色で、ときおり微風が吹き、まさしく風光る情景であるが、
陽射しは初夏のような感じで、この時節にしては強いかしら、と思いながら、
少しばかり大きなモミジの幼い葉を拡げた下で緑陰で、身を寄せたりした。


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