夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

高峰秀子さんに私の初夢でお逢いし、私は叱咤されて、言葉もなくうなだれて・・。

2012-01-03 10:11:01 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。

昨夜は家内と家内の母と共に、ささやかな酒宴が終わり、布団にもぐったのは11時過ぎであった。

どうした訳か解らないが、一昨年の2010〈平成22〉の年末に高峰秀子さんの死去が公表されていたが、
この高峰秀子さんが私に向い、
『あんたさぁ・・本を読んでいる?
映画青年も文学青年も挫折した・・あんた・・何をしているのょ・・』
となぜかしら60歳ぐらいの高峰秀子さんが私に言った。

『随筆を書きたくて・・ブログで散文の習作を重ねていまして・・』
と私は緊張しながら高峰秀子さんに応(こた)えた。

『あんたねぇ・・風の噂で聞いたりしているが・・
最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨長明〈かもの・ちょうめい〉が遺〈のこ〉随筆の『方丈記』のような、
随筆のかけらをたったひとつ綴れれば、本望らしいと聞いたりしているわょ。

そして死後の数百年を過ぎた頃、文愛人の一部の方から、
あの時代に短かき随筆をたったひとつ遺(のこ)した人もいた、と思って頂ただければ望外の思いである、
と友人に言ったりしていることなども、聞いているわょ』

『・・』

『でもねぇ・・人は誰しも望みは持っているが・・
天上の神々から与えられた才能・・そしてたぬまない努力の果てに・・
何とか果たせることもある厳しい世界なのょ・・
あんたは・・才能もないし・・努力も欠けているわょ』
と高峰秀子さんは私を突き放つように言った。

『・・』

『あんたたちの知っている作家・瀬戸内寂聴さんが、講演などで明言していたじゃないの・・
《・・
私を見習って、もしもみなさんの中に小説を書こうと思っていらっしゃる方がいれば、
お勧めしかねますね。
非常に険しい道でございます。
そして人が認めようが認めまいが、芸術というのはその人に才能がなければ意味がないんですね。

一に才能、二に才能、三に才能なんです。
あとは運ですよ。
努力なんてしなくても才能があればモノになる。
これは芸術だけでございます・・》
このようなことを言っていた、と私でも記憶しているわよ』

『・・』
私はうなだれて返す言葉もなかった。

『いいわねぇ・・たとえ随筆の世界でも同じょ・・
あんたは年金生活の中で、あくまで趣味として散文を綴り・・安楽な生活を過ごすべきと思うわょ』
と高峰秀子さんは微苦笑しながら私に言った。

『でも・・』
と私が言った後、なぜか高峰秀子さんは私の前から消えた。


このような初夢を私は見たが、どうして亡くなわれた高峰秀子さんが・・
と私は今朝のひとときに、ぼんやりと思ったりした。

たったひとつ思い当るとすれば、
昨年の12月初旬に、松山善三、高峰秀子ご夫妻の『旅は道づれアロハ・ハワイ』〈中公文庫〉を購読した。
そして同時に、久々に『芸術新潮』の12月号を買い求めた。
特集記事に《没後一周年特集》として、
《高峰秀子の旅と本棚》と題された記事を私は精読した。

この特集記事のひとつに、作家・斎藤明美さんが、
『まさに”食う”ように』と題された寄稿文があり、私は圧倒的に感銘を受けた寄稿文であった。

最終章の部分には、
高峰秀子さんは、ひたすら読書を重ねる根源は、
劣等感を克服するために、たえず本から学び、生きることだった、
とこのような意味合いの綴りを作家・斎藤明美さんが記載され、
私は読みながら、涙を浮かべた・・。


私は高峰秀子さんに関しては、知人でもなく、敬愛を重ねてきたひとりであり、
たった一度だけお逢いできたことがあった。

私が二十歳の時は、東京オリンピックの開催された1964〈昭和39〉年の秋の時であったが、
大学を中退し、映画青年の真似事をしていた時期で、
オリンピックには眼中なく、京橋の近代美術館に通っていた。

戦前の邦画名作特集が放映されていたので、
数多くの昭和の20年までの名作を観ることが出来たのである。

この中の作品の中で、山本嘉次郎・監督の『綴方教室』(1938年)、
そして『馬』(1941年)も観て、天才子役、少女と称せられた高峰秀子さんの存在を実感させられた。

私はこの当時の1964年に於いては、
少なくとも木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954年)、
成瀬巳喜男・監督の『浮雲』(1955年)、
木下恵介・監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、
松山善三・監督の『名もなく貧しく美しく』(1961年)等は当然のように鑑賞していた。

そして封切館で松山善三・監督の『われ一粒の麦なれど』(1964年)で観たばかりの年でもあった。

私は女優の高峰秀子さんの存在は、天上の女神のような存在であり、
『二十四の瞳』と『浮雲』がほぼ同時代に演じたこのお方には、ただ群を抜いた女優であった。

子役、少女、そして大人としての女優としての存在は、
私のつたない鑑賞歴に於いて、このお方以外は知らない。

その上、脚本家、ときには監督もされた松山善三さんには、
まぶしいようなあこがれの存在の人であり、秘かに敬意をしていたのである。


このような過ごしていた間、確か冬の日だったと記憶しているが、私は東宝の撮影所で、
宣伝部の方と話し合っていた時、
たまたま高峰秀子さんがこちらに向かって来た時があった。

宣伝部の方が飛び出て、
『この青年・・大学を中退し、この世界に・・』
と話されていた・・。

『こんにちは・・でも・・もったいないわ・・大学をお辞(や)めになるなんて・・
でもねぇ・・大変ょ・・この世界は・・』
と高峰秀子さんは私に云った。

私はこの当時も大女優であった高峰秀子さんとは、
これが出会いであったが、これ以降はお逢いしたことがない。

この後の私は、映画・文学青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく私は中小企業のサラリーマンに身を投じた・・。

その後、いつの日が忘れてしまったが、本屋の店頭で、
このお方の本にめぐり逢い、数冊の随筆集を読みはじめ、これ以降は本屋で見かけるたびに、
購読してきた・・。

そして一昨年の年末に高峰秀子さんの死去を知り、私も落胆したひとりであり、
もとより天上の花のひとつとなった高峰秀子さんにお逢いできるひとがないので、
せめて私は高峰秀子さんが上梓された数多くの随筆を読んだり、再読したり、
或いは出演された名画を鑑賞したりして、愛惜を重ねたりしている。


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