夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

幾たびか年を重ね、私たちは天上の母に守られて、早や丸14年は過ぎ去り・・。

2012-01-09 16:17:37 | 定年後の思い
私の母の命日が近づくと、私たち夫婦と私の妹の2人で、
この時節に4人でお墓参りをしているのが、恒例となっている・・。

私の母は、入退院を3年ばかり繰り返した後、深夜に亡くなったのは、
1998(平成10)年1月13日のことであり、私は53歳の時であった。

年末に体調が悪化して、救急車で入退院をしていた都心の広尾にある赤十字の病院に運び込まれた。
年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社に於いて勤務していた時は、少し緊張気味で覚悟はしていた。

こうした中、12日に会社より帰宅し、家内と夜の9時過ぎに食事し、
平素は弐合徳利で辛口の日本酒を吞んでいた私は、
さすがに自重して、ぐい吞みで少し呑んだりしていた。

10時過ぎに長兄より連絡があり、母の容態が更に悪化した、と聞いたりし、
長兄夫婦、そして私たち夫婦は長兄の自動車で病院にかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、穏やかな表情をしていたので、何よりの慰めと思った。
そして私にとって甥にあたる長兄の二人の青年も、まもなく到着したり、
妹のふたりも着き、深夜の1時過ぎに、私たちに見守れる中、
母は78歳になって、わずか11日ばかりで他界した・・。

この後は13日からは実家の長兄宅で葬儀が始まった。
私は小学2年に父が病死されたので、
母、そして父の妹である叔母が嫁ぐまて、私たち兄妹は育てられたのである。

13日に『仮通夜』をした翌日の14日には『本通夜』の日であったが、
朝から雪が降りだして、この地域として稀(まれ)に15センチぐらいの積雪となり、
公共交通機関にも影響をもたらしたので、私の会社関係は辞退の連絡をしたりした。

親戚、知人、近所の方々に雪が舞い降る中に来宅して頂き、
私たち親族は恐縮しながら、出迎えたりした。

そして翌日の15日の告別式は、まばゆい快晴の青空となり、雪解けの中、火葬場に行ったりし、
帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った。

そして、『四十九日』の法要の日、ときおり雪が舞う寒い日となったが、
『お母さん・・私を忘れないでねぇ、と云っているように、雪が降ったりしている・・』
と私は通夜の雪が降った情景に思いを重ねて妹、そして叔母に微笑みながら言ったりした。


『百日』、『新盆』の法事が過ぎて、
その後は『一周忌』、『三回忌』、『七回忌』、そして昨年の『十三回忌』の法事があった。

この法事以外は、この間に私たち夫婦と妹で、命日が近づくとお墓参りをしている。
長兄も多忙で、そして長兄の子の青年たちを含めた家族のスケジュールこともあり、
別にお墓参りをしているので、
何となく私達4人は、お互いに日取りを調整して、お墓参りの後、
付近の食事処で昼食をしながら懇親会を重ねてきた・・。

最初の頃は、お互いに勤めていたので、命日の前の休日が多かった。
そして私は60歳を過ぎて定年退職になったり、やがて数年過ぎた後は妹のふたりも60代となった。

私たちはお互いに幼年期より『ちゃん』付けで呼び合っているので、
ビール、日本酒、ワインなどを呑みながら昼食を頂き、
『XXちゃん・・あの時は・・』
と話しかけたりしているのである。

そしてお互いに思いだすように、
『あの時・・お母さんは・・このように言っていたよ』
と言ったりしている。

このように私達は、幾つになっても、亡くなった母に見守られて、今日に至っている。

私はこの時節になると、自宅などで雪を舞い降る情景を見つめると、
『私を忘れないでね・・』
と母のおもかげと共に声が聴こえたように思い、
心の中で『おかあさん・・』と呟(つぶや)いたりする時もある。


本日、私たち夫婦は妹の2人と駅前で、母の命日に際してお墓参りをする為に、待ち合わせをした。
予定時間に集合し、近くの寺院に向ったが、
この時節としては、風もなく暖かな陽射しに恵まれた。

境内は広く数多くの大木があり、冬枯れの情景で静寂であった。

お墓に行き、私たちは墓石を水で清め、生前の母が好きだったお花を挿し、
お米を備え、母の好みであったお線香を奉げた。
そして紫煙は香りを残しながら、ゆったりと青空に向かい昇っていく・・。

花の匂い、お線香の香り中、もとよりお墓参りは生者の慰めと知っているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたのであるので、私は感謝の一心で、
手を合わせたりした。

生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

この後、母のおもかげがよぎっていった。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
そして一年後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、
言葉づかいが想いだされる。

『命日のお墓参り・・このように風もなく暖かい時・・初めてみたい』
と私は妹に言ったりし、
お線香の煙が芳香を残して、澄み切った青空の中、立ち昇りながら消えいくのを見たりしていた・・。


この後、予約していた日本料理店で昼食を頂きながら、
私たち4人は、お互いに談笑し、懇親したのであった。

そしてお互いに過ぎ去ったこの一年の出来事のこぼれ話しなどを、
微苦笑しながら私は妹のふたりに話したりした・・。


私は昨年に67歳となり、妹は65、63歳であり、家内も62歳の身であるので、
心身健在であればこそ、こうして母の命日に近い日に、
お墓参りをしたり、その後は昼食を兼ねて懇親できるのである。

私の現役時代の50代の時、私の余り変わらない方が亡くなったり、
先輩の方の中で、60歳を少し過ぎた時、突然に訃報に接したりしてきたのである。
その上、昨年には私と余り変わらない65歳、或いは59歳の知人も死去された・・。

このような体験もあり、いつこの世と告別するか、
もとより天上の神々の采配によるので、私は1日を大切にし、切実に過ごしたりしてきた。

この後、私たちは日本料理店を辞した後、
駅まで5分ばかりの道を歩きながら、
『毎年・・こうして・・10年先まで・・逢えるといいね・・』
と私は妹の2人に言ったりしたのであった。

『そうよねぇ・・お互いにねぇ・・』
と妹のひとりが私に微笑みながら言ったりした。


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