私は東京郊外の調布市に住む年金生活の齢ばかり重ねた67歳の身であるが、
いつものように日の出の7時前には、起床した。
今朝は幾分寒いかしら、と思いながら、
居間のガスファン・ヒーターの暖房を点(つ)けた。
急速暖房のスイッチを指定しても、1度が表示されていた。
15分程度が過ぎれば、遅くても居間は17度くらい暖かくなり、
この後は、ネットで地元の天気情報を見たりした。
朝の6時はマイナス1度、昼下がりは7度、そして夜の6時は5度となり、
冬晴れで風もなくおだやかな1日となり、この時節の平年並みかしら、と微笑んだりした。
そして、雨戸を開けたり、新聞を取り込んだりした後、
主庭のテラスで煙草を喫ったりした。
落葉樹の小庭の冬木立の樹木を眺めたり、黒土が霜で薄っすらと白く染められて、
しばらく眺めていたのである・・。
こうした情景を眺めたりしていると、
♪さ霧(ぎり)消ゆる 湊江(みなとえ)の
舟に白し、朝の霜。
【 『冬景色』 作詞、作曲・不詳/文部省唱歌 】
と何気なしに心の中で唄っていたのである。
この後、家内にコーヒーを淹れたりした後、
NHKの7時のニュースが始まる頃であった。
そして世の中の多くの方は、3連休明けで何かとお忙しいと思いながら、
私の定年退職前の5年間は、出向の身となり、起床が4時45分としていた。
そして始発のバスに乗り、小田急線の電車の通勤途上で日の出を迎えたりしていたので、
あんな時代もあったなぁ、と苦笑したりしたのである。
7時半過ぎに、まばゆい朝の陽射しを受けながら、霜が光帯びている情景を見ると、
♪ただ水鳥の 声はして
いまだ覚(さ)めず、岸の家。
【 『冬景色』 作詞、作曲・不詳/文部省唱歌 】
と心の中で呟くように心の中で唄っていたのである。
私はサラリーマンを35年間をした後、
年金生活をしている身過ぎ世過ぎしているので、
こうした歌から濾過(ろか)がされ、心の純潔が取り戻されるようで、
この時節に迎えると、特に『冬景色』は私の好きな唱歌のひとつである。
遠い昔、私は東京の郊外の農家の児として1944〈昭和19〉の秋に生を受け、
祖父、父を中心に程々の広さの田畑を保有とて、
小作人だった人たちのご厚意の助けも借りて耕していた。
この時節になると、宅地、竹林、そして畑、田んぼのあぜ道などが、霜で白く染められ、
霜柱が多く見られたりした。
或いは、ときには雪が降り30センチぐらいの積雪となったりした。
こうした時には、幼年の私はゴムの長靴の中に、
母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
付近を歩き廻ったりしていた・・。
こうした情景は1955〈昭和30〉年頃から、都心のベットタウンとして急速に変貌し、
住宅街となり、消滅していった・・。
こうした私の想いを秘めているので、哀歓を寄せたりしている。
何より、この作詞の日本語は、はかなく美しい。
作詞はどなたが創られた不明であるので、《文部省唱歌》となっている。
こうしたのを聴いたりすると、どの歌手はもとよりどなたが歌っても、
私はときたま涙ぐんでしまう時がある・・。
私は詩の世界は理解する素養はないが、
声により唄いつながれて行く言葉の結晶である作詞の世界は解るつもりである。
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今朝は幾分寒いかしら、と思いながら、
居間のガスファン・ヒーターの暖房を点(つ)けた。
急速暖房のスイッチを指定しても、1度が表示されていた。
15分程度が過ぎれば、遅くても居間は17度くらい暖かくなり、
この後は、ネットで地元の天気情報を見たりした。
朝の6時はマイナス1度、昼下がりは7度、そして夜の6時は5度となり、
冬晴れで風もなくおだやかな1日となり、この時節の平年並みかしら、と微笑んだりした。
そして、雨戸を開けたり、新聞を取り込んだりした後、
主庭のテラスで煙草を喫ったりした。
落葉樹の小庭の冬木立の樹木を眺めたり、黒土が霜で薄っすらと白く染められて、
しばらく眺めていたのである・・。
こうした情景を眺めたりしていると、
♪さ霧(ぎり)消ゆる 湊江(みなとえ)の
舟に白し、朝の霜。
【 『冬景色』 作詞、作曲・不詳/文部省唱歌 】
と何気なしに心の中で唄っていたのである。
この後、家内にコーヒーを淹れたりした後、
NHKの7時のニュースが始まる頃であった。
そして世の中の多くの方は、3連休明けで何かとお忙しいと思いながら、
私の定年退職前の5年間は、出向の身となり、起床が4時45分としていた。
そして始発のバスに乗り、小田急線の電車の通勤途上で日の出を迎えたりしていたので、
あんな時代もあったなぁ、と苦笑したりしたのである。
7時半過ぎに、まばゆい朝の陽射しを受けながら、霜が光帯びている情景を見ると、
♪ただ水鳥の 声はして
いまだ覚(さ)めず、岸の家。
【 『冬景色』 作詞、作曲・不詳/文部省唱歌 】
と心の中で呟くように心の中で唄っていたのである。
私はサラリーマンを35年間をした後、
年金生活をしている身過ぎ世過ぎしているので、
こうした歌から濾過(ろか)がされ、心の純潔が取り戻されるようで、
この時節に迎えると、特に『冬景色』は私の好きな唱歌のひとつである。
遠い昔、私は東京の郊外の農家の児として1944〈昭和19〉の秋に生を受け、
祖父、父を中心に程々の広さの田畑を保有とて、
小作人だった人たちのご厚意の助けも借りて耕していた。
この時節になると、宅地、竹林、そして畑、田んぼのあぜ道などが、霜で白く染められ、
霜柱が多く見られたりした。
或いは、ときには雪が降り30センチぐらいの積雪となったりした。
こうした時には、幼年の私はゴムの長靴の中に、
母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
付近を歩き廻ったりしていた・・。
こうした情景は1955〈昭和30〉年頃から、都心のベットタウンとして急速に変貌し、
住宅街となり、消滅していった・・。
こうした私の想いを秘めているので、哀歓を寄せたりしている。
何より、この作詞の日本語は、はかなく美しい。
作詞はどなたが創られた不明であるので、《文部省唱歌》となっている。
こうしたのを聴いたりすると、どの歌手はもとよりどなたが歌っても、
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