夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私の過ぎ去り年の定年退職時、リストラ烈風の中、ささやかな思いは・・。

2014-04-04 16:45:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
午前中のひととき、平素の買物専任者の私は、最寄のスーパーで買物の責務を果たして帰宅した。

やがてテラスに下り立つと、昨日の朝から小雨が降り今朝の8時過ぎまで降り続き、
そして曇り空から急速に天候は回復して、澄み切った清々しい晴れ間となっている中で、
小庭にあるアカネモチは朱紅色の新芽、そしてキンモクセイの黄緑色の新芽も伸びだし、
名も知らぬ落葉樹は芽吹きが終わり、幼い葉を眺めたりした。
            

そして名も知らぬ落葉樹を眺めていた時、2004年(平成16年)の秋に定年退職をした当時の頃が、
思いだされて、微苦笑したりした・・。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とか大手の民間会社に中途入社出来たのは、1970年(昭和45年)の春であった。

そして音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
この新しいレコード専門会社に情報畑、管理畑、営業畑など35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004年(平成16年)の秋であった。

このようにサラリーマンの生活をしてきたが、もとより一流大学を卒業され後、
大企業、中央官庁などに38年勤め邁進し、栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
そして何かと半生記は、自慢史が多いと言われる中、無念ながら該当もせず、敗残記ような存在である。
          

たまたま私が勤めてきた中小業の多い音楽業界は、
1970、80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年(平成10年)に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば1999年(平成11年)の新春、
取引先の物流会社に出向を命じられた。
                 

もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。
                   

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
          

この間、私が50代のなかば1999年(平成11年)の新春に出向の辞令の直後、
私たち夫婦は、定年退職後の生活を具体的に話し合ったりした。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
定年後に於いて、どのような生活をしたいか、そして生活資金などを話し合った。

私は定年の60歳まで働き、主(あるじ)としての責務を果たし、
その後は趣味の時間に没頭し自在に過ごしたいので、
現役時代の収支、そして退職金、退職後の年金推定を算出した。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
何かと私たち夫婦の私の退職後の生活収支はある程度算出し易かった。

ただし私は1944年(昭和19年)9月生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。

この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたので、
年金が満額となった62歳からの生活の収支は、
私たち夫婦の共通趣味である国内旅行費、そして冠婚葬祭など諸経費は例外として、
原則として生活費は年金を頂く範囲として、収支の概要を作成したりした。

こうした結果、私の年齢、家内の年齢を主軸に
1998年(平成10年)から私が80歳を迎えるまで、
年次別の収支と残額を作成し、パソコンに入れて、計画、実績、差額を毎月入れることとした。
                       

こうした中で、定年を半年後となった2004年(平成16年)の春、
私は右腕が肩より上に上げたりすると何かと重く、痛みを感じたので五十肩かしらと思い、
毎週土曜の休日になると、自宅から最寄駅の駅前の近くにある整形外科に通院したりした。

思い当るとすれば、この当時は毎朝の4時45分に起床し、
自宅の付近の始発バスに乗り、小田急線の『成城学園前』駅より遠方の通勤場所に通い、
音楽商品のCD、DVDなどのある東京ドームより広い商品センターで奮戦し、
帰宅は早くても夜9時過ぎであったりした。
こうしたことを50代の後半に5年過ごしてきたので、疲労の蓄積かしら、と苦笑したりした。

やがて5月の大型連休になると、私の責務の範疇である自宅の庭の手入れの樹木の剪定、草むしりは、
やむなく放置していた。

そして7月頃になると、家内の父が腎臓癌で入退院を繰り返してきたが、
更に悪化状況になり、家内の母と家内は一日交代で、夜通し看護する身となった。

家内は我が家から2時間以上の電車に乗り、入院している大学病院に通ったりし、
帰宅後は疲労困憊の日々であった。
                    
こうした我が家として危機のような状況もあり、やむなく私は有給休暇を利用して、
定年退職時は10月20日であったが、早めの8月の月末で通勤を断念して、実質の定年退職時とした。
                    

そして世の中は定年退職時は、職場で多く方に囲まれて花束を贈呈され、拍手喝采中、職場を去ることが多く、
この数週間前の頃から、幾たびも歓送会が開催された、と私は聞いたりしていたが、
確かに私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風の前にはあり、
私も先輩方たちの歓送会に幾たびか出席したりしてきた・・。

そして私の同僚のふたりが、私が定年退職の時、歓送会の幹事をすると私に約束してくれたが、
リストラ烈風の中、私が出向3年生の時に、肝要な同僚のふたりが、リストラをされて退社し、
はかなくも30年近く勤めてきた出向元の会社の中での私の歓送会は、まぼろしとなってしまった。

こうした中、誰しもがリストラ烈風の中、のどかな定年退職時の歓送会などは、
開催されることは少なくなった。

私の場合は物流会社の中のひとつの商品センターに出向であり、
センター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の中、
若手の20代を中核とした男性の契約社員、アルバイトの10名、
そして30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

この最後の勤務8月の月末日、商品センターが出荷作業が一段落した後、
全員並ぶ中、私は退職の挨拶をした後、女性のパート方達から花束、贈呈品、
そして色紙にほぼ全員からの短かなメッセージを頂いたりした。

そして物流会社の本社に挨拶に出向いた後、
夜のひととき、商品センターの有志10数名から歓送会を開催して下さり、
後日の9月中旬に物流会社の本社、商品センターの有志で20数名で歓送会をして下さった。

或いは10月下旬に、私が30年近く勤めてきた出向元の会社の有志20数名で、
歓送会を開催して下さったりした。

このようにリストラ烈風の中、のどかでおめでたい退職時の情況は、私の場合は出向身分もあり、
大きく変貌してしまったのである。
          

私は実質退職した9月の始めから、自宅で五十肩を労(いたわ)りながら、
家内の父の危篤のような状況を憂いたりしていた。

やがて9月の中旬に私は、小庭の枝葉、雑草は伸び放題だったので、
とりあえず五十肩を気にしながら玄関庭、主庭の雑草の草むしりをした。
主庭の草ぼうぼうの中で、草取りをしている時、小さな幼い樹が三本を見つけた。

樹高は10センチぐらいで樹元の幹回りは3ミリぐらいの、かぼそい樹であった。
そして私は、小鳥が飛び立つ前のささやかな贈り物が成長したのかしら、と微笑みながら、
取るのをやめて放置した・・。
 
           

この後、家内の父は10月初旬に死去し、葬儀を終えてまもなく、
私の定年退職時の10月20日の正式日に迎え、退職後の書類、退職金などで銀行廻りをしたり、
慌ただしい日々を過ごしたりした。
          

こうした中、定年退職後の失業保険に関して、当初は申請して、5ヶ月分の失業手当を頂こうとした。
しかし、私は長年に及び管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去し、退職直前は業務の引継ぎに加わり多忙となったりした。

そして、この数年前の頃は大企業もリストラ烈風で失業された人達も多く、
私は勤める意志なく、求職される方達の真摯な様子をホームページ、新聞、テレビのニュースなどで知ったので、
失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したのである。

そして家内の父の死去に伴い、定年退職記念旅行、失業保険の断念は予定外であったが、
人生は予定通り進まないことも多くあるので、私なりに後悔はしなかった。
          

翌年の2005年(平成17年)の初め、五十肩を消え去り、私は60歳の年金生活であったので、
天上の神々は、何時までも50代ではない、と采配して下さったと思いながら微笑んだりした。

そして入梅前に私は草むしりに専念していると、
あの幼い三本の樹は、少し成長していたので、この中の一本を庭の片隅に移植して、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
秘かに定年退職時の記念樹と私は決めたりした・・。

小さい樹ながら、早春には芽吹き、春には主幹と枝は成長して若葉の情景となり、
          
秋を迎えると、あまたの葉は黄色に染まり始め、やがて晩秋には黄色の色合いに染め、
          
12月の初めの頃に落葉して、そして冬木立となる。
          
この間、めざましく伸長したので、やむなく剪定を繰り返して、
樹高は5メートルまでとしたりした。
          

こうした中で、小庭に私の定年退職の記念樹として植えた樹も大きく育っている。
つたない半生を歩んできた私が、せめて定年退職時の記念樹と思いながら、
ときおり四季折々ながめることが多い樹となっている。

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