私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、ときおり思いだすように過ぎ去った日々を振り返ることがあり、
あの時に、もしも何かがあったならば、私たち夫婦の今の生活も大幅に狂っていた、
と思い重ねる時がある・・。
私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社を2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
まもなくブログの世界を知り、余すことのないように私自身の幼年期から現役時代、
そして年金生活の思い等を綴ってきた。
私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を発露するのが大切と思ったりしている。
このような思いを秘めてきた私は、数多く投稿文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、といっても差し支えない。
私は幾たびも綴ってきたが、1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、
農家の児として幼年期を過ごし、やがて小学2年の時に父に病死され、
その後の1年過ぎた晩春の時に祖父にも死去され、
肝要なふたりの大黒柱を失った生家は衰退し、生活に困窮した時期もあった。
その後は、母の孤軍奮闘に寄り、私たち兄ふたり、そして妹のふたりの五人は
何とか世間並みの生活が出来るようになった。
この間の私は、長兄、次兄の学業は優等生であったせいか、
『お兄さんは・・優秀だったのに・・』
と担任の先生から言われたりし、何かしらいじけた劣等生で、地元の小・中学校の時代を過ごした。
高校生になると、長兄、次兄の影響のない都心のある高校であったので、
自縛から解放されたかのように面持ちとなった。
そして初めて授業も楽しくなり程ほどの成績となり、
読書にも目覚めて熱愛し、やがて小説の習作を始めたりした。
そして私は小学生の後半から映画の数多くの作品に圧倒的に魅せられて、
この後の中学時代を含めて、相変わらず独りで映画館に通ったした映画少年となり、
高校生になると、下校後にたびたび都心の映画館に寄ったりし帰宅していた。
そして東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら専門養成所で映画青年の真似事をした。
やがて講師の知人の新劇の長老から、
『映画の世界で飯(めし)を食べのは、益々困難になるょ・・
同じ創作だったら、小説を書きなさい』と私はアドバイスを頂き、
その後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。
こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。

その後はやむなく安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。
その上、幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方のご尽力もあり、
この当時、民間の大企業であった映像・音響メーカーに中途入社できたのは、
1970年(昭和45年)の春であり、25歳の時であった。
その後、入社した大企業の音楽部門のひとつがレコード会社として独立され、
私も異籍させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。
この間は家内と結婚したり、やがて1戸建ての家を構え、若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりし、
住宅ローンなどが重く苦心惨憺な時期も過ごした。
もとより会社の勤務も数多くのサラリーマンと同様に多忙で、落伍者になるまいと、私なりに奮闘したりした。
そして、ぎっくり腰で1ヶ月近く入院した40代の後半があったり、
レコード会社の合併などで完全外資となり翻弄された時代もあり、
そして音楽業界のピークとなるのは、私が50代のなかばであった。
こうした暗澹たるリストラ烈風の中、私の勤めていた会社もリストラが行われ、
希望退職優遇制度の名の下で定年前に退職を余儀なくされた人もいたし、
人事異動が盛んに行われ、私のように出向となった人もいた。
こうした時に、私たち夫婦はどのような老後の生活をしたいのか、
と改めて真剣に話し合った。
やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよいなぁ、と漠然に念願したりした。
こうしたことを実現するためには、もとより老後の資金も肝要なので、
私は出向先の物流会社で、委託しているCD、DVD等の音楽商品を保管・管理する物流情報会社であり、
通勤としては、ほど遠く、この中のひとつの物流センターに配属された。
私の住む自宅からバスに乗った後の最寄り駅は、小田急線の成城学園前であり、
30年近くレコード会社の裏方の情報畑、管理畑に勤めた本社で勤務していた時は、
自宅を8時過ぎに出て、都心に向かって一時間で通勤していた。
そして出向先は、自宅を6時過ぎのバスの始発に乗車し、成城学園前からは下り方面の本厚木駅に行った後、
バスに乗り換えて物流倉庫の多い処まで、一時間半ばかりで通った。
職場状況、そして通勤状況も大幅に変貌したので、初めの半年ぐらいは戸惑いながら、
つたない私でも、もとより出向は本社機能の戦力から不必要だと烙印を押されたことであるので、
まぎれなく都落ちで、敗北感が充満し失墜感で気落ちした・・。

この後、何とか半年後に私は職場の業務にも馴染み、
やがて遠い勤務先の出向会社に私が奮戦している時、
出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたりした。
、
そして私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
このような半生であるので、世の中の半生記は何かと自慢史が多いと言われる中、
私は程遠い世界である。

もとより一流大学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進され栄達したエリートのお方たちと違い、
数多い中小業で35年ばかり勤め、苦楽の激しかったサラリーマン生活であったので、
高収入、高額な退職金、まして富や名声に無縁である。
そして定年退職後は、ご近所の奥様と立ち話などをした時、
悠々自適な生活で羨ましいわ、と言われたりしているが、こうした時は苦笑したりしている。

年金生活を始めた当時、家内は専業主婦だったので、家内の日常のペースを出来る限り乱したくないので、
家内は殆ど従来通りの料理、掃除、洗濯などをしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。
そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
こうした中で年金生活をした当初、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に働くことなく散歩できるなんて、この世の中で許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
そして何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時と共に過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする時もある。
定年後の年金生活の日常の大半は、平素の買物専任者の責務を終えた後、
散策したりした後、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりし、ときたま小庭を手入れをしたり、家内との共通趣味のひとつの国内旅行をしたりして、
退職後の年金生活で過ごして今日に至っている・・。
そして青年時代に文章を綴り家庭生活を過ごすが夢であったので、
体力、感性も衰えた今は、もとより小説の習作もままならず、
大幅な変貌してきたが、プログで随筆のような形式をめざして、毎日投稿するのが、
生きがいのひとつとなっている。
このように改めて、私の簡略な軌跡を明示してきたが、
この中でひとつでも欠けていたら、私の今の生活は大幅に変更を余儀なくされている、と思ったりしている。
定年後、念願の年金生活をしているが、
ときおり家内から、働かなくても私たちの生活できるのだから、ありがたいわ、
と言われたりするたびに、
私は拙(つた)ない自分の半生のひとこまが、走馬灯のように甦(よみがえ)ったりしている。

古来より、人生は『七転八起』と格言された名言の前、
私は確かにそうですよね、と自身の何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、
悪戦苦闘の多かった半生を重ね、微苦笑する時もある。
そして人生は、もとより自身の努力は必要であるが、
何よりもその時代ごとに、私は人との出逢いに恵まれて、叱咤激励されながら私は導かれてきた・・。
こうした思いがあるので、それぞれの時代にめぐり逢えた人に感謝の念を深めている。
そして老後の生活を迎えている私は、甘味な年金生活を続ける中、
いずれは私か家内が『おひとりさま』となるが、
こればかりは天上の神々の采配に基づく範疇なので、日々を大切に過ごせばよい、と深く思ったりしている。
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民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、ときおり思いだすように過ぎ去った日々を振り返ることがあり、
あの時に、もしも何かがあったならば、私たち夫婦の今の生活も大幅に狂っていた、
と思い重ねる時がある・・。
私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社を2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
まもなくブログの世界を知り、余すことのないように私自身の幼年期から現役時代、
そして年金生活の思い等を綴ってきた。
私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を発露するのが大切と思ったりしている。
このような思いを秘めてきた私は、数多く投稿文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、といっても差し支えない。

私は幾たびも綴ってきたが、1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、
農家の児として幼年期を過ごし、やがて小学2年の時に父に病死され、
その後の1年過ぎた晩春の時に祖父にも死去され、
肝要なふたりの大黒柱を失った生家は衰退し、生活に困窮した時期もあった。
その後は、母の孤軍奮闘に寄り、私たち兄ふたり、そして妹のふたりの五人は
何とか世間並みの生活が出来るようになった。
この間の私は、長兄、次兄の学業は優等生であったせいか、
『お兄さんは・・優秀だったのに・・』
と担任の先生から言われたりし、何かしらいじけた劣等生で、地元の小・中学校の時代を過ごした。
高校生になると、長兄、次兄の影響のない都心のある高校であったので、
自縛から解放されたかのように面持ちとなった。
そして初めて授業も楽しくなり程ほどの成績となり、
読書にも目覚めて熱愛し、やがて小説の習作を始めたりした。
そして私は小学生の後半から映画の数多くの作品に圧倒的に魅せられて、
この後の中学時代を含めて、相変わらず独りで映画館に通ったした映画少年となり、
高校生になると、下校後にたびたび都心の映画館に寄ったりし帰宅していた。
そして東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら専門養成所で映画青年の真似事をした。
やがて講師の知人の新劇の長老から、
『映画の世界で飯(めし)を食べのは、益々困難になるょ・・
同じ創作だったら、小説を書きなさい』と私はアドバイスを頂き、
その後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。
こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。

その後はやむなく安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。
その上、幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方のご尽力もあり、
この当時、民間の大企業であった映像・音響メーカーに中途入社できたのは、
1970年(昭和45年)の春であり、25歳の時であった。
その後、入社した大企業の音楽部門のひとつがレコード会社として独立され、
私も異籍させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。
この間は家内と結婚したり、やがて1戸建ての家を構え、若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりし、
住宅ローンなどが重く苦心惨憺な時期も過ごした。
もとより会社の勤務も数多くのサラリーマンと同様に多忙で、落伍者になるまいと、私なりに奮闘したりした。
そして、ぎっくり腰で1ヶ月近く入院した40代の後半があったり、
レコード会社の合併などで完全外資となり翻弄された時代もあり、
そして音楽業界のピークとなるのは、私が50代のなかばであった。
こうした暗澹たるリストラ烈風の中、私の勤めていた会社もリストラが行われ、
希望退職優遇制度の名の下で定年前に退職を余儀なくされた人もいたし、
人事異動が盛んに行われ、私のように出向となった人もいた。

こうした時に、私たち夫婦はどのような老後の生活をしたいのか、
と改めて真剣に話し合った。
やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよいなぁ、と漠然に念願したりした。
こうしたことを実現するためには、もとより老後の資金も肝要なので、
私は出向先の物流会社で、委託しているCD、DVD等の音楽商品を保管・管理する物流情報会社であり、
通勤としては、ほど遠く、この中のひとつの物流センターに配属された。
私の住む自宅からバスに乗った後の最寄り駅は、小田急線の成城学園前であり、
30年近くレコード会社の裏方の情報畑、管理畑に勤めた本社で勤務していた時は、
自宅を8時過ぎに出て、都心に向かって一時間で通勤していた。
そして出向先は、自宅を6時過ぎのバスの始発に乗車し、成城学園前からは下り方面の本厚木駅に行った後、
バスに乗り換えて物流倉庫の多い処まで、一時間半ばかりで通った。
職場状況、そして通勤状況も大幅に変貌したので、初めの半年ぐらいは戸惑いながら、
つたない私でも、もとより出向は本社機能の戦力から不必要だと烙印を押されたことであるので、
まぎれなく都落ちで、敗北感が充満し失墜感で気落ちした・・。

この後、何とか半年後に私は職場の業務にも馴染み、
やがて遠い勤務先の出向会社に私が奮戦している時、
出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたりした。
、
そして私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
このような半生であるので、世の中の半生記は何かと自慢史が多いと言われる中、
私は程遠い世界である。

もとより一流大学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進され栄達したエリートのお方たちと違い、
数多い中小業で35年ばかり勤め、苦楽の激しかったサラリーマン生活であったので、
高収入、高額な退職金、まして富や名声に無縁である。
そして定年退職後は、ご近所の奥様と立ち話などをした時、
悠々自適な生活で羨ましいわ、と言われたりしているが、こうした時は苦笑したりしている。

年金生活を始めた当時、家内は専業主婦だったので、家内の日常のペースを出来る限り乱したくないので、
家内は殆ど従来通りの料理、掃除、洗濯などをしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。
そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
こうした中で年金生活をした当初、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に働くことなく散歩できるなんて、この世の中で許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
そして何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時と共に過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする時もある。

定年後の年金生活の日常の大半は、平素の買物専任者の責務を終えた後、
散策したりした後、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりし、ときたま小庭を手入れをしたり、家内との共通趣味のひとつの国内旅行をしたりして、
退職後の年金生活で過ごして今日に至っている・・。
そして青年時代に文章を綴り家庭生活を過ごすが夢であったので、
体力、感性も衰えた今は、もとより小説の習作もままならず、
大幅な変貌してきたが、プログで随筆のような形式をめざして、毎日投稿するのが、
生きがいのひとつとなっている。
このように改めて、私の簡略な軌跡を明示してきたが、
この中でひとつでも欠けていたら、私の今の生活は大幅に変更を余儀なくされている、と思ったりしている。
定年後、念願の年金生活をしているが、
ときおり家内から、働かなくても私たちの生活できるのだから、ありがたいわ、
と言われたりするたびに、
私は拙(つた)ない自分の半生のひとこまが、走馬灯のように甦(よみがえ)ったりしている。

古来より、人生は『七転八起』と格言された名言の前、
私は確かにそうですよね、と自身の何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、
悪戦苦闘の多かった半生を重ね、微苦笑する時もある。
そして人生は、もとより自身の努力は必要であるが、
何よりもその時代ごとに、私は人との出逢いに恵まれて、叱咤激励されながら私は導かれてきた・・。
こうした思いがあるので、それぞれの時代にめぐり逢えた人に感謝の念を深めている。
そして老後の生活を迎えている私は、甘味な年金生活を続ける中、
いずれは私か家内が『おひとりさま』となるが、
こればかりは天上の神々の采配に基づく範疇なので、日々を大切に過ごせばよい、と深く思ったりしている。
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