夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

筍(たけのこ)を私の生家から頂き、遠い昔の竹林に深く思いを馳せて・・。

2014-04-16 14:47:04 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝の7時半過ぎに、長兄の奥方より電話があり、
『筍(たけのこ)を掘ったのですが・・』
と連絡を頂き、
『お義姉(ねえ)さん・・これから頂きにあがります・・』
と私は言った。

そして我が家より徒歩で数分離れた私の生家であった長兄宅に行き、
『小振りになった上・・少ないですが』
と長兄の奥方より言われながら、私は受け取った。
          
            ☆ 帰宅後、玄関内で記念写真ねぇ、と戯(たわむ)れに撮った ☆

この後、小庭のテラスに下り立ち、先程頂いた筍(たけのこ)を思い浮かべると、
遠い昔の60年前の生家にあった竹林に思いを重ねたりした・・。


私は農家の三男坊として生を受けたのは1944年(昭和19年)の9月下旬であった。
やがて地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時は、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。

そして母屋の周囲には竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、物置小屋と称した納戸などがある農家であった。
          

そして竹林は、孟宗竹だけでも2反(600坪)程あり、
4月の中旬過ぎの頃になると、筍(たけのこ)を殆ど毎日のように、数週間ぐらい青果市場に父は出荷していた。

秋になると、祖父と父は地表に竹の根が出そうになったのを最低50センチぐらい堀り起こし、、
枯れた竹の葉、肥料を施(ほどこ)して、地中に埋めた。
こうした中、次兄と私は、穴が掘られた後に子供心にいたずらをし、父によく怒られた。

春先になると、この竹林に子供が入るのを禁じられた。
地割れと土壌が固くなるので、私たち子供は近寄れなかったのである。

そして4月の中旬から5月の初め、
柔らかな地表が微(わず)かな地割れを見つけて、筍(たけのこ)を掘り出すためであった。

この微かな地割れを専用のスコップで60センチぐらい堀り、やがて大きな筍(たけのこ)を掘り出した。
すべて地中で育ち、根元は最低10センチ以上あり、
少しでも地上に芽が出たものは身が固くなるので、商品価値が激減するのであった。

地上から5センチ以上芽がだした筍(たけのこ)は、皮は黒ずみ、身が固くなるので
子供心でも、カラス、と呼んでいた・・。
このカラスは、値が下がるので、家の人々の食卓にのせられた。
そして地中にあった良質の筍(たけのこ)は、青果市場に出荷していた。

それから残した筍(たけのこ)は、日増しに大きくなり、若い竹となり、
子供心でも著しい成長を眺め、歓び心を躍らせていた・・。
          

夏になると、ひんやりした竹林に入るのが、私は好きだった。
田畑の暑い中、この竹林は涼しく、ときたま風が吹くと、
さわさわとした葉ずれの音を聴き、心地よいひと時を感じたりした。

秋のある日、竹細工の方が買い付けにきたりした。
この当時は、孟宗竹で籠(かご)、笊(ざる)、作物入れ用とかで多くの家で使われていた時代であった。
その後、1953年〈昭和28年)の春に父は病死し、翌年に祖父も他界した。

そして父と祖父は大黒柱だったので、農家のノウハウを失くした生家は衰退していった。

やがて私の生家、周辺の農家も、この後は東京のベットタウンに急速に変貌し、
住宅街となり、もとより田畑は消え去り、そして雑木林、竹林も無くなっていった・・。
          

この間、私が小学生の4年生の頃、付近の崖に面した傾斜地に著名な小説家の邸宅があった。
傾斜には竹林が手入れされていなく密集ばかりし、下方に池があった。

そして私は近所の父親の知人より、小説家が引っ越してきた、と私は聞いたりして、
私は独りで下校の時に遠廻りし、この脇道を通った時に、
この小説家が難しい顔して池を見詰めていた。

『あれが小説家かょ・・何か難しい顔しているが・・
竹は生え放題・・孟宗竹のこと・・ぜんぜん解っていないなぁ』
と私は子供心に内心呟(つぶや)いた・・。

後年、私が高校生に入学してまもない時、最寄駅に近い本屋に寄った時、
店内の壁面に色紙と写真が掲げられていた。
そして、さりげなく《武者小路実篤》と明示されていたので、
私はあのお爺さんが・・武者小路実篤かょ、と気づかされたのである。
          

私が大学入学後、ある体育系の部に所属した時、
同期の方が福井県、福岡県の友がいた。
地上から5cm以上、芽を出し伸びたものは筍(たけのこ)じゃない、と言ったりした時、
半信半疑の目付きをされたので、困ったりした。

私の新婚旅行の時、京都市内の外れで、筍(たけのこ)の売り場を観た時、
15センチの高さ、根回りが5センチが3月末に売られていた。

私の生家では、少なくとも30センチ、根回りが10センチ以上が基準値であったので、
これが筍(たけのこ)かょ、と感じたりした。

このような思いがあり、地方のお方は理解してくれるかしら、と思い続けていた。


その後、確か2006年〈平成16年〉の5月に、
購読している読売新聞に於いて、【彩事記】が随時掲載をされている記事であり、
私の思いに近い記事で、榊原智子・記者が綴られた記事が掲載されていた。
無断ながら引用させて頂く。

《・・今春は寒い日が多かったため、タケノコが生えてくるのが、例年より遅くなった。
一番手の孟宗竹は、関東では4月下旬から頭を出し始め、
首都圏のタケノコ園ではこの連休に、タケノコ狩りのピークを迎えているという。

タケノコの産地といえば鹿児島、京都、静岡などの暖かい地方が知られている。
中でも京都産は軟らかく味のよさで有名だが、
実は東京も、戦前まで京都と並ぶタケノコの産地だった。

とりわけ『目黒のタケノコ』は、知る人ぞ知る名産だった。
目黒区守屋教育会館・郷土資料室によると、
京都では土や肥料をふわりとかけて、軟らかいタケノコを育てるのに対し、
目黒では根っこのあたりまで深く掘り、肥料を加えては固く戻したという。
この作業を数回繰り返す独自の栽培法で、身が締まり、味のいいタケノコを作っていた。

これが《初物好き》の江戸っ子の間で人気となり、
値段が高騰したため、質素倹約を求めた天保の改革(1841~43年)では、
『早い時期の掘り出しはダメ』と禁制まで敷かれたという。

それほど盛んに栽培されたタケノコだが、関東大震災の後に郊外に広がった宅地開発や、
高度経済成長期の都市の拡大で、タケノコ畑はじりじりと減少。(略)・・》
このように時代の趨勢を綴られていた。
          

その後、私は2009年〈平成21年〉の4月、私たち夫婦は家内の母を誘い、
鹿児島市内と霧島温泉に5泊6日の旅をした時である。

この中で、鹿児島市の郊外にある島津家の別邸で名高い磯庭園と称せられた『仙厳園』に、
私は独りで観て廻ったりした。

この時は、4年前に、家内と団体観光ツアーでこの『仙厳園』と隣接された『尚古集成館』を訪れた時は、
わずか2時間半ばかりで慌(あわ)ただしく拝見した程度であり、
何かと心残りがあったのも本心でもあった。

一時間近く歩き廻り、喉の乾きを覚えたので、『竹徑亭』に寄り、抹茶を飲みながら、和菓子を頂き、
窓辺からはボタンの花がたわわに咲き、それぞれの色合いに染められ、この時節を教示してくれた。

この後、奥にある曲水の庭の外れに、『江南竹林の碑』と明記された石碑があり、
漢文で碑文が明示されていたので、私は『仙厳園』に入園した時に頂いた解説文を読んだりした。
《・・「浄国公(21代吉貴)が琉球に江南竹(孟宗竹)のあることを聞き、
日本にはまだないので植えたいと願って取り寄せたが2株しかもらえず、それを仙巌園の裏山に植えた。

その後、この竹が繁殖し、藩内のみならず国内各地に移植した。
そのタケノコがおいしくて、万人に愛されている。
この竹で利益を得るものは、浄国公のおかげだから、その名をたたえよ」・・》

こうした解説文を読み、この地から日本の各地に孟宗竹が拡がり、
やがて多くの方に筍(たけのこ)を愛食されたのか、と私は長らく孟宗竹の竹林を見つめていた・・。
          


ここ35年近く、私が住んでいる近くに生家だった長兄の宅より、
この時節になると筍(たけのこ)を毎年頂いている。
長兄の宅の宅地のはずれに、わずか5坪ぐらいの竹林があり、
手入れも昔ほど出来なくなり、地表に出た、カラスを掘り起こしている。

このカラスと称した筍(たけのこ)であるが、家内に料理してもらい、
私は3日も続けて食べたりし、幼年期の愛惜感も増して、この世の最上の食べ物のひとつである、
と思いを深めながら頂いている。

そして年金生活の中、ときおり遠方に散策したりする時、偶然に孟宗竹の竹林に出会った時は、
思わず足を止めて、しばらく眺めたりしている・・。

或いは国内旅行の旅先で、孟宗竹の竹林を観た時も、私は時間が許す限り、眺めたりしている・・。

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コメント (2)
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