私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、
携帯電話さえも使えないので、やむなくインターネットは『フレッツ』の回線で、パソコンを利用している。
そして我が家のパソコンは、主力機はOSと称される基本システムの『ウィンドウズ8(エイト)』で殆ど毎日愛用し、
補助機として旧機の『ウィンドウズ7(セブン)』を時折使用している。
こうした中で我が家は、門扉に近い電信柱から、たった一本の光ファイバー回線を頼りに、
NTT東日本の管轄下で、電話は『ひかり電話』となり、
たまたま世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住んでいるので、都内地域の配線下となっている。
そしてネット回線は『フレッツ』なり、私はパソコンでネットを日々利用している。
或いはテレビも、アンテナ不要の『スカパー!光』となり、
このように我が家はすべて光ファイバー回線となっている。
その上にスマートフォン、フェイスブックそしてモバイルパソコンに無縁で、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思い、
このように稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
私は1998年〈平成10年〉の当時、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
この少し前の年の頃から、若手の20、30代の世代が携帯電話を使い始め、
50代の私たちも、いずれは携帯電話を利用しなければ、と思っていた。
この数年前の頃から音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999年〈平成11年〉の初春に、取引先の物流情報会社に出向となった。
勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品をソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女130名前後で対応した。
東京ドームより広い商品センターの中で、連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、
この出向先で5年半ばかり勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職時を迎えた。
この間の世の中は、殆どの方が携帯電話が愛用する時代となったが、
私は定年後の年金生活の中で、何かの機会で覚えればよい、と思ったりしていた・・。
そして私は携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
5年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要と思い、
新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話とかスマートフォンの各社の広告が入っているので、
ときおり私たち夫婦は見たりし、思案するばかりで今日に至っている。
昨夜、パソコンを開き、【YAHOO! JAPAN】の中の『雑誌』のコーナーを見ていた時、
《 仲間はずれ、誹謗中傷が怖い 大人がネットをやめられない理由 》
という見出しがあり、どういうことなの、と思いながらクリックした。
何かしら記事元は、『週刊朝日』の昨年の2013年11月1日号に於いて掲載された記事のひとつと解り、
好奇心を失くしたらこの世は終わりだ、と私の信念に基づいて、精読してしまった。
無断であるが転載させて頂く。
《・・LINEやフェイスブックへの「SNS依存」や「オンラインゲーム依存」など、
ネットやスマホに依存する大人が増えている。
中にはゲームを1日8時間プレーして無断欠勤をするケースや、
ママ友から嫌われたくないという理由でSNSに依存する人もいるという。
「やめたい」と願っていても、やめられない。
こうした心情は「負の報酬」と呼ばれ、ネット・スマホ依存から簡単には抜け出せない理由の一つだという。
負の報酬とは、ネットやスマホの利用をやめることによって生じるデメリットのことだ。
「ネットの世界で獲得できる充足感や癒やしは、いわゆる『正の報酬』に位置づけられます。
飲酒で味わう陶酔感や、ギャンブルで得られるお金、快感と同じものです。
これも依存の要因となりますが、それに加えてネット・スマホでは『負の報酬』によっても依存が助長される」
(東京大学大学院情報学環の橋元良明教授)
例えば、オンラインゲームでは、プレーヤーが操る登場人物の熟練度が上がると、
他者からの尊敬や注目を集め、達成感を得ることができる。
そうした正の報酬を得られる半面、ゲームをやめてしまうと、
仲間から相手にされなくなる不安や、迷惑をかけるかもしれないという罪悪感、つまり負の報酬も抱くというのだ。
SNS依存でもコミュニティーから抜けることで、仲間から中傷されたり、グループからの隔絶に不安を抱いたりして、
本人がやめたいと思っていてもやめられないケースが多いという。
「正と負の報酬が相まって、自分の意思で使用をコントロールできなくなる。
ネット・スマホ依存の特性と言ってもいい」(同)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
この記事を読み終えた後、ネットの世界でも『正の報酬』と『負の報酬』があるんだなぁ、
と微苦笑させられたのである。
確かに固定の光ファイバー回線を頼りにパソコンを活用している私でも、
ネットから『正の報酬』を受けたりしたいる。
テレビのニュースを視聴したり、或いは購読している読売新聞を読んだりしている中、
政治、外交、軍事、経済、社会などの問題について考えさせられた時、
ネットで更に検索したりいることが多い。
そして更に私なりに解明したい時は、本屋により買い求めたりしてきた。
たとえば福島原発の難題の時は、武田邦彦(たけだ・くにひこ)・著『エネルギーと原発のウソをすべて話そう』(産経新聞出版)、
電子書籍の問題の時は、山田順(やまだ・じゅん)・著『出版大崩壊 ~電子書籍の罠~』(文春新書)、
正社員でもリストラの難題の今日は、溝上憲文(みぞうえ・のりふみ)・著『非常の常時リストラ』(文春新書)、
女性の就職、勤務の実態史は、上野千鶴子(うえの・ちずこ)・著『女たちのサバイバル作戦』(文春新書)、
など多々教示されてきた。
或いはネットから私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に於いて、
ネットを検索して、その地の地図、観光情報、宿泊先の情報など数多く学び、
遊学してきた。
そして2004年(平成16年)の秋に定年退職し、まもなくブログの世界を知り、
この後はパソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
もとよりブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれのお方が自由に私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済などの分野まで表現でき、
まさに10数年前の頃から、誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。
この少し前の時代は、それぞれの専門知識のある有識者が雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の愛読者は、新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
もとより掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。
私のブログの根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。
そして年金生活を過ごしている今、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。l
こうした中で、特にシニア層の綴られた投稿文を読ませて頂くと、
日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。
そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。
こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ色々な苦楽の深淵を感じながら年金生活を過ごしたりしている。
少なからずこうしたことは、私はネットで恩恵を受けてきたのて、
まぎれなくネットの『正の報酬』を受けてきた。
これらに反して『負の報酬』は、スマートフォンの使えない私でも、
ここ数年に於いて、余りにもスマホ依存の実態の社会に憂いているひとりである・・。
過ぎし一昨年の2011年12年に於いて、平素の買物専任者の私は、
駅前のスーパーに行った時、駅近くの商店街を歩いていると、
若き20代の女性が前かがみで何かを見ながら歩いていた。
その後、駅前の広場を足早に歩いていた若き30代の男性も、
やはり前かがみで何かを見ながら歩いていた。
私は驚きながら周辺を見渡すと、10人ぐらいの方が前かがみで何かを見ながら歩いていたので、
まるで江戸時代末期に農民の児として育った二宮金次郎のような方が増えた、と私は苦笑したりした・・。
もとより二宮金次郎は、貧困の少年時代を過ごし奮闘しながら朝から晩まで働き、
この間に薪(まき)を背負っての道中に本を読んで勉学に励んだ人で、
私が学んだ小学校の校庭の片隅に銅像があった。
私は注視しながら見ていると、何かしら携帯電話のような物に覗き込むように見ている人が多く、
無念ながら携帯電話も使えず、世の中の時流から取り残されている私でも、
ここ一年ぐらい話題となっている高性能携帯電話と称されているスマートフォンだ、と解った。
そして過ぎし日に雑誌などで教示され、従来の携帯電話はもとより、バソコン、デジカメ、
カーナビ、携帯音楽プレーヤー、ゲーム機、電子辞書なども有している機能もある、
と知り私は驚いているひとりである。
この後日、私は久々に電車に乗ろうと改札口に入り、
地下にあるプラットフォームに通じるエレベータ乗った時、
隣にいる若き20代の女性が、このスマートフォンを忙しそうに画面を変えていた。
そしてエレベータの降り口から平坦となったプラットフォームを歩いていても、
スマートフォンの画面から目を離さないので、人の多い所で危ないなぁ、と私は危惧したりした。
その後、やはりこの女性は40代ぐらいの男性にぶつかり、目礼しながら謝ったりしていた。
私は身体の衰えた高齢者、或いは構内のベンチとかに、ぶつかったり、
最悪の場合は電車が入線してきたら、と私の方がハラハラしてしまうのである。
或いは、私は近くの野川の遊歩道を散策していた時であった。
落葉樹のたわわな葉は、紅色、朱紅色、黄色など染められている錦繍(きんしゅう)の情景が終わりかけ、
枝には少しばかりの葉が残り、朝のまばゆい陽射しが樹木の枝葉を照らしだして、
私は思わず足を止めて、見惚〈みと〉れていた・・。
まもなく後方から足音が聴こえ、突然に足音が消え、私は後ろを振り向くと、
わずか1メートルぐらいで、若き20代のツーピスを召された女性が、驚いたように立ちすぐんでいた。
私はこの女性の顔立ちを見た後、手に握りしめたスマートフォンに気付いた。
そして、この女性は人影の少ない遊歩道で、スマートフォンで情報を検索しながら歩いているうちに、
私の姿を手前で気付いた、と思われる。
この女性は私に目礼をして立ち去ったのであるが、
私の方が、もっと驚いたょ、と私は心の中で呟〈つぶや〉いたりした。
このように昨今は何かと慌ただしく、世の中は情報に溢れているが、
働いて下さる若き諸兄諸姉、せめて歩いている時ぐらいは、前方を見据えて颯爽と歩くのが何よりも美しい、
とサラリーマンを35年近く体験した私は確信を深めている。
このような私の提言としては、街中でスマホを使用する場合、ご自身の安全の為に「歩きスマホ」は自己抑制し、
やむなく使用する場合は、電車とかバスの中とで自身が停止できる状態、或いは職場に早めに出勤して使用する。
ここ10数年、短期に職務の成果を求められる時代であるが、
この提言の範囲でスマホを時間以外に使用すれば、と思案したりしている。
そしてここ10数年、携帯電話が普及する中で、働いた下さる諸兄諸姉は、
通常の業務には必須の情報機器であり、そして4年前の頃からはスマホが急速に活用されてきている。
そして第一線を退かれた60代、70代の殆どの方が、携帯電話かスマホを利用され、
ご高齢の80代以上の方たちも家族間の連絡、緊急連絡でお守り代わりに利用されている状況となっている。
まして若き10、20代の世代の人の一部には、新聞も購読せず、パソコンも所有せず、
スマホだけを頼りに生活をされている現実がある。
このような情報があふれるような社会状況となっている今日、程ほどの利用は必要であるが、
たえずスマホを手にされて頼りにされるのは、いかがなものかしら、と私は憂いている。
まして私生活の貴重な時間に於いては、スマホの活用は程ほどの節度が必要と確信を深めている。
私が平素は自宅の近くの遊歩道を散策することが多く、
たまたま日曜日に散策していた時、若き30歳前後の男女が前方から歩いてきた・・。
仲良し恋しのおふたりと私は好感しながら眺めながら歩いた。
そして20数メートルの前方の距離になると、
この男性の右手にはスマホと思われる情報機器を持ち、ときおり見ながら、
連れ合いの女性にうなずくような歩いてこられた。
私はすれ違った後、この若き男女の後ろ姿を見ながら、
たぶん休日の日と思いながらも、スマホなどは自宅に置き、
せめてこうした時ぐらいは情愛を深め、語り合うことをされたら、と思ったりしたのである。
このようにネット、特に余りにもモバイル依存の実態の中、
「歩きスマホ」は、駅中や大通りの雑踏、さらには横断歩道など、非常に混雑した場所で、
メールやSMSと称せられる短い文章によるメッセージを送受信するサービスなど、
或いはフェイスブックのステータス・アップデートをチェックするなど、
モバイルのコミュニケーション依存症に危惧しているひとりである。
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私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、
携帯電話さえも使えないので、やむなくインターネットは『フレッツ』の回線で、パソコンを利用している。
そして我が家のパソコンは、主力機はOSと称される基本システムの『ウィンドウズ8(エイト)』で殆ど毎日愛用し、
補助機として旧機の『ウィンドウズ7(セブン)』を時折使用している。
こうした中で我が家は、門扉に近い電信柱から、たった一本の光ファイバー回線を頼りに、
NTT東日本の管轄下で、電話は『ひかり電話』となり、
たまたま世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住んでいるので、都内地域の配線下となっている。
そしてネット回線は『フレッツ』なり、私はパソコンでネットを日々利用している。
或いはテレビも、アンテナ不要の『スカパー!光』となり、
このように我が家はすべて光ファイバー回線となっている。
その上にスマートフォン、フェイスブックそしてモバイルパソコンに無縁で、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思い、
このように稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
私は1998年〈平成10年〉の当時、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
この少し前の年の頃から、若手の20、30代の世代が携帯電話を使い始め、
50代の私たちも、いずれは携帯電話を利用しなければ、と思っていた。
この数年前の頃から音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999年〈平成11年〉の初春に、取引先の物流情報会社に出向となった。
勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品をソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女130名前後で対応した。
東京ドームより広い商品センターの中で、連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、
この出向先で5年半ばかり勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職時を迎えた。
この間の世の中は、殆どの方が携帯電話が愛用する時代となったが、
私は定年後の年金生活の中で、何かの機会で覚えればよい、と思ったりしていた・・。
そして私は携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
5年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要と思い、
新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話とかスマートフォンの各社の広告が入っているので、
ときおり私たち夫婦は見たりし、思案するばかりで今日に至っている。
昨夜、パソコンを開き、【YAHOO! JAPAN】の中の『雑誌』のコーナーを見ていた時、
《 仲間はずれ、誹謗中傷が怖い 大人がネットをやめられない理由 》
という見出しがあり、どういうことなの、と思いながらクリックした。
何かしら記事元は、『週刊朝日』の昨年の2013年11月1日号に於いて掲載された記事のひとつと解り、
好奇心を失くしたらこの世は終わりだ、と私の信念に基づいて、精読してしまった。
無断であるが転載させて頂く。
《・・LINEやフェイスブックへの「SNS依存」や「オンラインゲーム依存」など、
ネットやスマホに依存する大人が増えている。
中にはゲームを1日8時間プレーして無断欠勤をするケースや、
ママ友から嫌われたくないという理由でSNSに依存する人もいるという。
「やめたい」と願っていても、やめられない。
こうした心情は「負の報酬」と呼ばれ、ネット・スマホ依存から簡単には抜け出せない理由の一つだという。
負の報酬とは、ネットやスマホの利用をやめることによって生じるデメリットのことだ。
「ネットの世界で獲得できる充足感や癒やしは、いわゆる『正の報酬』に位置づけられます。
飲酒で味わう陶酔感や、ギャンブルで得られるお金、快感と同じものです。
これも依存の要因となりますが、それに加えてネット・スマホでは『負の報酬』によっても依存が助長される」
(東京大学大学院情報学環の橋元良明教授)
例えば、オンラインゲームでは、プレーヤーが操る登場人物の熟練度が上がると、
他者からの尊敬や注目を集め、達成感を得ることができる。
そうした正の報酬を得られる半面、ゲームをやめてしまうと、
仲間から相手にされなくなる不安や、迷惑をかけるかもしれないという罪悪感、つまり負の報酬も抱くというのだ。
SNS依存でもコミュニティーから抜けることで、仲間から中傷されたり、グループからの隔絶に不安を抱いたりして、
本人がやめたいと思っていてもやめられないケースが多いという。
「正と負の報酬が相まって、自分の意思で使用をコントロールできなくなる。
ネット・スマホ依存の特性と言ってもいい」(同)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
この記事を読み終えた後、ネットの世界でも『正の報酬』と『負の報酬』があるんだなぁ、
と微苦笑させられたのである。
確かに固定の光ファイバー回線を頼りにパソコンを活用している私でも、
ネットから『正の報酬』を受けたりしたいる。
テレビのニュースを視聴したり、或いは購読している読売新聞を読んだりしている中、
政治、外交、軍事、経済、社会などの問題について考えさせられた時、
ネットで更に検索したりいることが多い。
そして更に私なりに解明したい時は、本屋により買い求めたりしてきた。
たとえば福島原発の難題の時は、武田邦彦(たけだ・くにひこ)・著『エネルギーと原発のウソをすべて話そう』(産経新聞出版)、
電子書籍の問題の時は、山田順(やまだ・じゅん)・著『出版大崩壊 ~電子書籍の罠~』(文春新書)、
正社員でもリストラの難題の今日は、溝上憲文(みぞうえ・のりふみ)・著『非常の常時リストラ』(文春新書)、
女性の就職、勤務の実態史は、上野千鶴子(うえの・ちずこ)・著『女たちのサバイバル作戦』(文春新書)、
など多々教示されてきた。
或いはネットから私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に於いて、
ネットを検索して、その地の地図、観光情報、宿泊先の情報など数多く学び、
遊学してきた。
そして2004年(平成16年)の秋に定年退職し、まもなくブログの世界を知り、
この後はパソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
もとよりブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれのお方が自由に私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済などの分野まで表現でき、
まさに10数年前の頃から、誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。
この少し前の時代は、それぞれの専門知識のある有識者が雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の愛読者は、新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
もとより掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。
私のブログの根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。
そして年金生活を過ごしている今、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。l
こうした中で、特にシニア層の綴られた投稿文を読ませて頂くと、
日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。
そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。
こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ色々な苦楽の深淵を感じながら年金生活を過ごしたりしている。
少なからずこうしたことは、私はネットで恩恵を受けてきたのて、
まぎれなくネットの『正の報酬』を受けてきた。
これらに反して『負の報酬』は、スマートフォンの使えない私でも、
ここ数年に於いて、余りにもスマホ依存の実態の社会に憂いているひとりである・・。
過ぎし一昨年の2011年12年に於いて、平素の買物専任者の私は、
駅前のスーパーに行った時、駅近くの商店街を歩いていると、
若き20代の女性が前かがみで何かを見ながら歩いていた。
その後、駅前の広場を足早に歩いていた若き30代の男性も、
やはり前かがみで何かを見ながら歩いていた。
私は驚きながら周辺を見渡すと、10人ぐらいの方が前かがみで何かを見ながら歩いていたので、
まるで江戸時代末期に農民の児として育った二宮金次郎のような方が増えた、と私は苦笑したりした・・。
もとより二宮金次郎は、貧困の少年時代を過ごし奮闘しながら朝から晩まで働き、
この間に薪(まき)を背負っての道中に本を読んで勉学に励んだ人で、
私が学んだ小学校の校庭の片隅に銅像があった。
私は注視しながら見ていると、何かしら携帯電話のような物に覗き込むように見ている人が多く、
無念ながら携帯電話も使えず、世の中の時流から取り残されている私でも、
ここ一年ぐらい話題となっている高性能携帯電話と称されているスマートフォンだ、と解った。
そして過ぎし日に雑誌などで教示され、従来の携帯電話はもとより、バソコン、デジカメ、
カーナビ、携帯音楽プレーヤー、ゲーム機、電子辞書なども有している機能もある、
と知り私は驚いているひとりである。
この後日、私は久々に電車に乗ろうと改札口に入り、
地下にあるプラットフォームに通じるエレベータ乗った時、
隣にいる若き20代の女性が、このスマートフォンを忙しそうに画面を変えていた。
そしてエレベータの降り口から平坦となったプラットフォームを歩いていても、
スマートフォンの画面から目を離さないので、人の多い所で危ないなぁ、と私は危惧したりした。
その後、やはりこの女性は40代ぐらいの男性にぶつかり、目礼しながら謝ったりしていた。
私は身体の衰えた高齢者、或いは構内のベンチとかに、ぶつかったり、
最悪の場合は電車が入線してきたら、と私の方がハラハラしてしまうのである。
或いは、私は近くの野川の遊歩道を散策していた時であった。
落葉樹のたわわな葉は、紅色、朱紅色、黄色など染められている錦繍(きんしゅう)の情景が終わりかけ、
枝には少しばかりの葉が残り、朝のまばゆい陽射しが樹木の枝葉を照らしだして、
私は思わず足を止めて、見惚〈みと〉れていた・・。
まもなく後方から足音が聴こえ、突然に足音が消え、私は後ろを振り向くと、
わずか1メートルぐらいで、若き20代のツーピスを召された女性が、驚いたように立ちすぐんでいた。
私はこの女性の顔立ちを見た後、手に握りしめたスマートフォンに気付いた。
そして、この女性は人影の少ない遊歩道で、スマートフォンで情報を検索しながら歩いているうちに、
私の姿を手前で気付いた、と思われる。
この女性は私に目礼をして立ち去ったのであるが、
私の方が、もっと驚いたょ、と私は心の中で呟〈つぶや〉いたりした。
このように昨今は何かと慌ただしく、世の中は情報に溢れているが、
働いて下さる若き諸兄諸姉、せめて歩いている時ぐらいは、前方を見据えて颯爽と歩くのが何よりも美しい、
とサラリーマンを35年近く体験した私は確信を深めている。
このような私の提言としては、街中でスマホを使用する場合、ご自身の安全の為に「歩きスマホ」は自己抑制し、
やむなく使用する場合は、電車とかバスの中とで自身が停止できる状態、或いは職場に早めに出勤して使用する。
ここ10数年、短期に職務の成果を求められる時代であるが、
この提言の範囲でスマホを時間以外に使用すれば、と思案したりしている。
そしてここ10数年、携帯電話が普及する中で、働いた下さる諸兄諸姉は、
通常の業務には必須の情報機器であり、そして4年前の頃からはスマホが急速に活用されてきている。
そして第一線を退かれた60代、70代の殆どの方が、携帯電話かスマホを利用され、
ご高齢の80代以上の方たちも家族間の連絡、緊急連絡でお守り代わりに利用されている状況となっている。
まして若き10、20代の世代の人の一部には、新聞も購読せず、パソコンも所有せず、
スマホだけを頼りに生活をされている現実がある。
このような情報があふれるような社会状況となっている今日、程ほどの利用は必要であるが、
たえずスマホを手にされて頼りにされるのは、いかがなものかしら、と私は憂いている。
まして私生活の貴重な時間に於いては、スマホの活用は程ほどの節度が必要と確信を深めている。
私が平素は自宅の近くの遊歩道を散策することが多く、
たまたま日曜日に散策していた時、若き30歳前後の男女が前方から歩いてきた・・。
仲良し恋しのおふたりと私は好感しながら眺めながら歩いた。
そして20数メートルの前方の距離になると、
この男性の右手にはスマホと思われる情報機器を持ち、ときおり見ながら、
連れ合いの女性にうなずくような歩いてこられた。
私はすれ違った後、この若き男女の後ろ姿を見ながら、
たぶん休日の日と思いながらも、スマホなどは自宅に置き、
せめてこうした時ぐらいは情愛を深め、語り合うことをされたら、と思ったりしたのである。
このようにネット、特に余りにもモバイル依存の実態の中、
「歩きスマホ」は、駅中や大通りの雑踏、さらには横断歩道など、非常に混雑した場所で、
メールやSMSと称せられる短い文章によるメッセージを送受信するサービスなど、
或いはフェイスブックのステータス・アップデートをチェックするなど、
モバイルのコミュニケーション依存症に危惧しているひとりである。
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