夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

花祭りの日、駅前まで散策すれば、思いがけない魅了された情景にめぐり逢い・・。

2014-04-08 16:43:41 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
京王線の『仙川』駅の周辺で、本を買い求めに行こう、と10時半過ぎに家を出た。

そして私の住む地域は路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受しているので、
この日も歩きだした。

快晴で暖かな17度前後の中、徒歩15分ばかりの道のりを大通りの歩道を歩き、
坂道を上る途中、桜花が咲き、欅(ケヤキ)の樹は芽吹きが終えて幼い葉が空に向かって伸びていたので、
山口百恵ちゃんのプレイバックのように振り返って撮ったりした。
          

私は桜花も魅了されているが、幼年期に農家の児として育ったので、
落葉樹の芽吹き、やがてたわわな幼い葉が拡げる状景に圧倒的に魅せられている。

やがて坂道を上がり切ると、こんな処に花があったの、と見惚(みと)れたりした。
          

そして5分ぐらい歩くと、お寺の多い地域の中を歩いた。
この周辺は関東大震災の時代、東京の下町一帯が焼失する中にあった数多くの寺院が、
この仙川の地帯に移転してきた。

こうした中、ある寺院には山門の前に、格言が掲げられたりしていたが、
『はなまつり』のポスターも掲示されていたので、あれぇ・・今日は『花祭りの日』だったことを教示された。
          

私の生家の宗派は、日本の中で数多く信愛されている曹洞宗であるが、
私は無念ながら仏教に無知な方なので、過ぎし9年前頃に『花祭り』について、
学んだりしたことがあり、思い浮かべたりした・・。

恥ずかしながら色々と調べ上げたが、1番解り易かったのは、
知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の著作の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この知識にすがり学んだりした。

今回、無断であるが、転記させて頂く。
《・・4月8日の『花祭り』は、仏教の創始者である『お釈迦さま』の誕生日。
それを祝うインドと中国の風習が日本に入ってきたのは、はるか昔の606年(推古14年)の事とされている。

祭礼の名称も、中国にならって『灌仏会(かんぶつえ)』と呼ばれていたが、
1900年頃(明治30年代)から、花祭りと言われるようになった。

灌仏会とは、お釈迦さまの仏像を『灌沐(かんもく)する《水を注いで洗い清める》儀式』という意味である。

この日、お寺では『花御堂(はなみどう)』《花で飾ったお堂》に、
『浴仏盆』という水盤を置き、そこに仏像を安置して、
お経を唱えながら、竹の柄杓で甘茶をかけて、礼拝する儀式が行われる。

甘茶を掛けるのは、釈迦が生まれた時、
空から9頭の竜が香り高い水を注ぎ、産湯にしたという伝説に基づいている。
また水盤は、その時に地下から湧き出て、釈迦の足元を支えたという蓮の花を表現する。
           
肝心のお釈迦さまの像は、右手を天を指し、左手は地面を指している。
これは釈迦が生まれた後、4方を7歩ずつ歩いて、
天と地を指して、『天上天下唯独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)』《宇宙の中で、私より尊いものはいない》
といったという伝説の表現である。
          

釈迦の生没年については、諸説があるが、前5世紀から前4世紀にかけて、80年ばかり生きた事は確からしい。

彼はインドとネパールの国境沿いの小国、カピラバストゥを支配していた『シヤーキャ』族の国王シュッドーダナ(浄飯王)と、
妻マーヤー(麻耶)の長子として、ルンビニー園で誕生した。

釈迦というのは、この種族の名前から出ており、
『釈尊』というのは『釈迦牟尼世尊』《牟尼は聖者》という尊称の略語である。

釈迦の名字は、『ゴータマ』《釈迦族全体の名字》で、名は『シツダールタ』《悉達多》。
モンゴル系かアーリヤ系の人間だったと言われている。

彼はまたサンスクリット語で、『悟った人』《覚者》を意味する『ブツタ』《仏陀》とも呼ばれ、
それが日本で『仏(ほとけ)』となった。
更に『如来』《真理の完成人》とも呼ばれるが、これは『タクーガタ』の訳語である。

生後七日目に実母を失った釈迦は、母の妹にに育てられ、16歳で結婚。
男の子を設けたが、人生の根源にひそむ『苦』《悩み》という問題を考えつめ、
29歳で地位を捨てて、出家した。

様々な苦行を重ねたが、問題の解明に至らず、最後は菩提樹の下で思索にふけって、悟りを開いたという。

苦悩を解決しようとする釈迦の教えを伝える最古のお経は、彼の孫弟子の時代に成立したという。

日本で花祭りが盛んになったのは、4月8日に、豊作を願って行われた古くからの農耕儀礼や、
山の神や田の神を祭る風習と結び付いたことに、一因があると言われている。・・》
注)原文にあえて改行を多くした。


私は再び歩きだしたが、隣接して小さな寺の門に、しだれ桜が咲いていて、見惚れながら、
先程の《お釈迦さま》について、ぼんやりと思い馳せたした・・。
          

もとより私は農家の児として育ち、やがてサラリーマンの都会の垢(あか)にまみれて35年ばかり勤めて退職した身であり、
実家は仏教のごくありふれた曹洞宗であるが、お釈迦さま、と云われても遥かに遠い存在の方である。

少し興味があったのは、『天上天下唯独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん』と掲(かか)げられたことである。
もとより、宇宙の中で私より尊いものはいない、と云ったかのような伝説はあるが、
私は孫弟子の人たちが、釈迦の教えを広く普及させるために、
権威をもたらすためにつくられた言葉と解釈してしまった・・。

このようなことを考えていたら、日本の史上に於いて、
『唯独尊』のような振る舞いをされた人物はどのお方であったろうか、と余計なことを思案したのである。
              

鎌倉幕府の創設者の源 頼朝、室町幕府の足利尊氏、
その後の織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康かしら、と思ったりしたが、
案外、地方の一国一城の大名である殿様の方が『唯独尊』が可能であった、とも思えたのである。

全国規模の統一者は、たえず苦楽を共にしながら統治する責務と権力があるが、
地方の有力大名の方が、幾分楽でそれなりにわがままを振舞えた、と思ったのである。


このようなせんなきことを思い馳せたりして、再び歩きだした・・。
やがて音楽専門学校の桐朋学園仙川キャンパスが見えたが、
この中の校門のひとつから、校内にあるしだれ桜が風もないのに、桜花が散り始めて、
私は見惚(みと)れてしまった・・。
          

やがて私は遠回りして駅前に向った。
そして私の住む市が総合文化芸術の街として、東京アート・ミュージアム、せんがわ劇場の並ぶ中を歩いたりした。
何かしらこの建物は建築家の安藤忠雄さんが設計され、2008年に開設されていたが、
たまたま私は『せんがわ劇場』で、どのような公演しているのか、と正面の入口に掲載されているポスターを見たりした。

この中のひとつに、『朗読ワークショップ~向田邦子 愛のカタチ~』のポスターが掲示されていた。
             
そしてポスターを精読すれば、ネット情報も明記されていた。
http://www.sengawa-gekijo.jp/events/11314.html
☆調布市 せんがわ劇場 公式サイト==>『朗読ワークショップ~向田邦子 愛のカタチ~』☆

私は亡き作家の向田邦子さんが遺された小説、随筆、テレビドラマに関して、
一時は物狂いのように熱愛したひとりで、現在は平熱となり時折再読したりしているひとりである。

何よりも驚いたのは、田園調布にお住まいの心清き奥方が、
この『朗読ワークショップ~向田邦子 愛のカタチ~』に関して投稿文を認(したた)められていたので、
大田区と同様に我が街の調布市でも同じようなことがされる、と私は微笑んだりした。


この後、私は駅前に出て、市民たちから長らく愛されている桜を観に行った。
          
そして駅前にある2本の桜は一時は再開発に伴い、伐採される予定であったが、
数多くの住民の署名の結果、少し移植して保存された樹である。
          

私は長らく見惚(みと)れた後、駅ビルの中にある本屋で、
本を買い求めたりした。

そして家内のお気に入りのパン専門店『ANDERSEN(アンデルセン)』で、
フランスパンとケーキのような菓子パンを購入した後、帰路に向った。
          

やがて私は自宅に向かい、長い坂路を下っていると、幾重かの思いがけない魅了された情景に、
めぐり逢えた、と幸福感につつまれた。

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