夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

人類が初めて遭遇する「寝たきり100歳社会」の悪夢の一部を学び、やがて私は多々学びながら・・。

2016-06-15 17:15:10 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
昼食後、愛読している『デイリー新潮』を見ている中で、
【 人類が初めて遭遇する「寝たきり100歳社会」
           後編〈医学の勝利が国家を亡ぼす 第5回 】と見出しを見たりした。

そして私は、どのようなことですか、と私は思いながら、読んだりした。
          
この記事の原文は、『週刊新潮』2016年6月9日号に掲載されて連載記事のひとつで、
『デイリー新潮』に6月13日に配信され、我らシニア世代はやがて到来する厳粛なテーマであり、
無断であるが大半を転載させて頂く。

《・・
☆寝たきりか、あるいは安楽死か

90歳を超えると7割の人が、認知症になるという。
そうして家族の顔すらわからずに、寝たきりのまま命をながらえる。

それが100歳社会の実態だと知っても、無暗(むやみ)に長生きを望むだろうか。
しかも、延命コストのシワ寄せはすべて、子や孫の世代におよぶのである。
            

☆治療には、やめ時がある

「私は2人の娘に、“植物状態になったら、延命治療をやめてくれ”と伝えてあります。
また、“認知症になったら、施設に入れてくれ”とも伝えている。

特に認知症にはなりたくありません。
ひどい認知症になってしまったら、もう生きていたくないと思います」
 
ジャーナリストの田原総一朗氏(82歳)がこのように語るのは、
来るべき「100歳社会」について、考え抜いた末であるという。

「私は70代のどこかで死ぬんだろうと思っていましたが、気づけばもう80をすぎている。
今後90代をどう生きるかという話が、でてくるかもしれません。

ここまで日本人の寿命が延びた今、われわれが考えるべきは健康寿命と、その逆の不健康寿命についてでしょう。
植物状態になってまで、生きながらえることに意味があるのかという話で、
それは必然的に尊厳死の話にもつながります」
            

100歳社会が、いかに不健康な社会であるか、前回で描写したが、簡単に振り返っておきたい。

50年前は200人に満たなかった100歳以上の高齢者の数が、昨年6万人を超えた。
今後も2020年には12万人、30年には27万人と倍々ゲームで増え続け、50年には68万人に達すると見られている。

“予備軍”の数は、それどころではない。
75歳以上の後期高齢者の数が、25年に約2200万人と、日本の人口の18%に達すると推計されているのだ。

誰もが健康な100歳社会が、到来するならいい。
だが、75歳を超えると、心身の健康度が下がって、病気のリスクが一気に高まるという。

昔なら、その年齢で重篤な病気にかかれば、寿命と考えてあきらめたものだが、
今は膨大な国費を投じて、高価な薬を使い、生かしてしまう。

その結果、認知症が進行した患者に胃瘻(いろう)をつくり、寝たきりの状態で、無理に延命するケースが後をたたない。

また、救命救急センターも高齢者であふれ、寝たきりの人が心肺停止で運ばれ、
何百万円もかけて応急措置が施された結果、寝たきりの期間がさらに延長される、という事態も日常茶飯事だという。

しかも、こうして不健康寿命を延ばすのにかかる膨大な医療費を負担するのは、
超高齢者の増加に反比例して、その数が減り続けている現役世代なのである。
            

さて、田原氏は認知症への強い懸念を語ったが、実際、認知症の罹患率は、年齢が上がると急増する。

東京都福祉保健局の調査によれば、70代前半では4・3%にすぎないが、70代後半になると10・1%に跳ね上がる。
そして80代前半が23・4%、80代後半が43・6%で、90歳を超えると69・2%。
3人に2人は認知症になってしまう。

すなわち、100歳社会はおろか、田原氏の言う「90代をどう生きるか」という社会も、
認知症の超高齢者があふれ返る「悪夢」の具現化に、ほかならないのだ。


そんな中で、自らも寝たきりで、家族の顔すらわからなくなったまま、生きながらえたいと望む人が、どれだけいるだろうか。

国際医療福祉大学大学院の高橋泰(たい)教授が言う。
「私は食事と排泄が、自分でできなくなることが、人生の分岐点だと考えます。
食事がとれなくなったり、嚥下(えんげ)障害が起きたりした時点で、
無理に食べさせない選択をすれば、2週間から1カ月ほどで枯れるように亡くなっていきます。

一方、胃瘻をつくれば2~3年は延命できますが、健康状態を取り戻せる可能性は低い」
            

そういう現実を間近で、見ていればこそだろう、
「医療関係者を対象に、自分が治る見込みがない場合に、胃瘻をふくむ延命治療を望むか、とたずねた調査では、
“望まない”という回答が医師で85・1%、看護師では88・8%と、いずれも高い割合を示した、という結果があります」
と、桜美林大学老年学総合研究所の鈴木隆雄所長。

医療関係者のみならず、食事や排泄の介助が必要になってまで生きたくない、と答える人が多数派だというデータもある。


しかし、現実には、本人の意思とは裏腹に「生かされて」しまっているというのである。
臨床医の里見清一氏が語る。

「不健康な状態で長く生きることが、本人にとってどれだけ良いことなのか。
75歳をすぎて大きな病気になったら、寿命だとあきらめたほうが、幸せなのではないでしょうか。

しかし家族はそう思わず、ある意味、家族の側の納得、もしくは満足感のために生かされてしまうことがままある。
むろん、家族に悪気はまったくなく、むしろ、せめてもの親孝行だと思っているわけですが、
そうした考え方からの転換点を見つける必要があると思います」
            

☆すべては子供や孫の負担に

本人は望んでいないにもかかわらず生かされ、生かすためのコストで国家財政が逼迫する。
そうであるなら、二重の悲劇である。

「われわれ日本人は、医学の進歩のおかげで、寿命を延ばしてきました。
一方、このまま平均寿命だけが延び、不健康な期間が長くなれば、当然、巨額の医療費と介護費用が発生するわけで、
国家財政にも大きな負担になるということを十分認識しておくべきです」
と鈴木所長は語るが、現実にはその認識がまだ十分ではないようだ。

次の逸話もそのことを物語る。
「私自身、終末期の高齢者と家族のありようを数多く見てきましたが、
胃瘻をつくることを強く訴えたあと、あまりお見舞いに来ない家族もいました。

一方、あえて延命治療を望まず、本人が納得して眠るように死を迎えることを選択し、
最後まで付き添う家族もたくさんいました」(同)
(略)
「私は治療には、やめ時があると考えています。
際限なく治療を継続することが、本当に患者本人のためになるのか。
            

そうした議論をていねいに尽くせば、終末期医療における人間の尊厳と医療経済の状況改善は、両立できると思います」
日本尊厳死協会副理事長で医師の長尾和宏氏は、そう語りつつも、

「しかし」と継いで、こう続ける。
「日本には本人の意思を尊重するための法的担保がありません。
ですから、ご本人がリビング・ウィル(生前の意思表示)で延命治療を拒んでいても、家族がそれを蔑ろにするということが起こっています。

そういう事態に直面した際、医療者は本人の意思を尊重するか、家族の意見を聞くかで迷うのですが、
結局は、訴訟リスクを恐れて、家族の意見を優先せざるをえない場合があるのです」

その一方で、皮肉な現象もあるという。
「天涯孤独のいわゆる“おひとり様”たちは、希望どおり延命治療なしで、自宅で看取られています。
本人の意思を通すのを邪魔する家族がいないから、それが叶うのです」(同)
(略)
            

☆氷山が眼の前にあるから

日本尊厳死協会の白井正夫理事も、
「本人のリビング・ウィルを家族が否定するというケースは、日本特有の問題かもしれません」
と指摘して、続ける。

「極めて個人主義の社会であるヨーロッパに対し、日本は家族主義。
個人の意思はあくまでも家族という枠組みの中で、尊重されるところがある。
そのうえ尊厳死を規定する法律もないので、家族が強く反対すれば、本人の意思が生かされない」

人生を自らの意思で、締めくくることすら許されない──。
そうだとすれば、日本人は不幸であろう。
            

欧米諸国ではどうなのか。
「ヨーロッパには元来、尊厳死は当たり前という風潮があるので、わざわざ法整備しない国が多いといわれますが、
フランスには尊厳死法が、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国には安楽死法があります。

スイスも法律はないものの、安楽死が認められています。
また、アメリカではオレゴン、ワシントン、モンタナ、バーモント、ニューメキシコの5州が、
医師による自殺幇助を認めている。
カナダも安楽死法案を審議中です」(同)

実は、この流れはアジア圏にもおよんでおり、
「台湾では昨年12月、新しい尊厳死法が成立し、韓国でも2018年から尊厳死法が施行されます」(同)
(略)
ところで、こうして延命の是非と老人の死に方に繰り返し言及するのは、あらためて言うが、
本人の幸福につながるとは思えない延命が、次世代の不幸に直結するからだ。
            

評論家の大宅映子さん(75歳)が言う。
「日本の医療費は、若年層よりも、老人に多く分配されすぎています。

貯金があるのは、老人なのに。
老人に医療費を注ぎ込んでも生産年齢に戻るわけでなく、一度病気になれば、医療費を注ぎ込み続けなければなりません。
日本は人間が資源なのに、そのお金を保育や教育に回さなければ、人間の質がどんどん下がってしまいます。

こういうことを言うと、“姥捨て山だ”と非難する人が出てきます。
でも、このままでは、ギリシャどころではすまない危機が、自分たちの子供が住む日本を襲いかねません。
自分たちは医療費を使ってぬくぬくと生き、子供や孫に負担を押しつけ、“はい、さようなら”でいいのか」

この連載では、年間3500万円かかる肺がんの新しい治療薬「ニボルマブ(商品名はオプジーボ)」を、
薬価、ひいては医療費高騰の象徴として取り上げてきた。
仮に5万人が1年間使えば1兆7500億円。

今後も次々と登場する高価な新薬を同様に使い続ければ、
「間違いなく、国家財政がもたない」
里見清一氏はこう訴える。

それはすなわち、われわれの子供や孫が、まともな医療すら受けられないような社会の到来に、
つながりかねないということである。
            

だから里見氏は、
「75歳以上では、延命治療を中止すべきではないか」
と提案するのだ。

あらためて里見氏が語る。
「75歳は、ひとつの目安として、いいところだと思います。
(略)
やはり人間は、どこかに死ぬべき時がある。
ただし、私は高齢者に“今すぐ死ね”と言っているのではない。“先に死ぬべきだ”と言っているだけです。
年寄りから順に死ぬのが、もっとも健全な社会です。
老人の命が大切だとしても、若い人を押しのけてしまっていいのか」
(略)
膨大なコストをかけ、本人すら望まない不健康寿命を延ばすことによって到来する、空前の100歳社会。
ゆめゆめそれを正夢にしてしまってはなるまい。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
                              

私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭であり、
過ぎし11年半前の定年後の頃から、漠然としながらも私は家内に死生観について話し合ったりしてきた。
こうした中で、自分の口で食事が食べられなかった時は死ぬ時であり、延命治療はしないで、
と幾たびか言ったりしている。

過ぎし2010年8月下旬の頃に、私は医学博士で病院長の帯津良一さんに、紙上でめぐり逢えた。
新聞の出版広告で偶然に読み、この雑誌が女性月刊誌の『婦人公論』と知り、
私は恥ずかしながら買い求めて、精読したりした。

《・・(略)・・私の理想は、「達者でポックリ」逝くことです。
死ぬ直前まで自分の足で歩き、自分の口で食べ、自分の頭で考えることができる。
「寝たきり」とは180度対照的な死に方が、「達者でポックリ」だと言えるでしょう。
・・
人生は生老病死ーーつまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。
                                   

「いたずらに死を恐れるあまり不要に長生きしても意味がない」と考えるようになったのは、
このホリスティック医学の考え方に共鳴し、
その理念に基づいて自らの病院を設立した40半ば以降です。
・・
私もブラッと飲みに行けなくなったら、そろそろ「死に時」ですかねぇ(笑)。
理想は、下町の小料理店に出向き、さぁ、今日は何をツマミに飲もうかなとワクワクして暖簾をくぐっているときに、
心筋梗塞でバタッと倒れるなんていうのがいいですね。

年齢に関していえば、80歳くらいまで生きれば十分ではないですか。
もちろん、肉体面でも精神面でも人それぞれ個人差がありますから一概には言えません。

しかし、自力で自由に動けるのは、せいぜい80代まででしょう。
90代になると、何かしら衰え、欠けてくる。
いくら頭がしっかりとしている人でも、足腰が立たなくなったり、その逆のケースも起こります。

ましてや100歳なんて、どんな人でもポンコツになっているはずですよ(笑)。
おめでたいと言うけれど、100歳以上は、やはり「生き過ぎ」だと私は思います。

これとこれができなくなったら、自分はそろそろ「死に時」かもしれない。
その線引きは人それぞれですし、それがわかれば、
「生きているうちにこれだけはやり遂げておこう」という人生のテーマも見えてくる。

つまり、自分にとってベストな「死に時」を考えことは、
今、生きているこの時間を最大限に充実させて生きていくことにもつながるのである。(略)・・》
                                   

このような深く学び、今後の確かな晩年期の導きの御人にめぐり逢えた、と深く感じて、
これ以降、帯津良一さんの言動に注視して、信愛を重ねている。

そして私は9月に72歳を迎える身として、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする