私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
昼食後、ネットで愛読している『ダイヤモンド・オンライン』を見ている中、
【 思い煩うことなく酒を飲み、長生きした井伏鱒二 】と見出し見て、私は読んだりした。
この記事は、小説家・料理人の樋口直哉さんの『長寿の食卓~あの人は何を食べてきたか』連載寄稿文で、
第13回として亡き作家・井伏鱒二さんの名言を記載し、2015年4月9日に配信されているが、
無断ながら転載させて頂く。
《・・思い煩(わずら)うことなくうことなく酒を飲み、長生きした井伏鱒二
井伏鱒二【1898年(明治31年)~1993年(平成5年)】の小説は、教科書で初めて触れたという人も多い。
教科書に多く掲載されている短編『山椒魚』は井伏の代表作だが、個人的にも奇妙な味わいが記憶に残っている。
太宰治【1909年(明治42年)~1948年(昭和23年)】の師匠としても知られる井伏鱒二は、
戦前から戦後にかけて長い間、活躍した作家だ。
戦前には『ジョン萬次郎漂流記』(この作品で直木賞を受賞)、戦後の作品として『黒い雨』などがある。
「文士が通った店」という縁が語られる店は数多いが、作家では井伏鱒二の逸話が最も多いのではないだろうか。
神田のうなぎ店、大久保や中野の居酒屋、早稲田のそば屋、阿佐谷の中華料理店、西荻窪フランス料理店・・
さまざまな店に通い、請われれば店の命名もしている。
井伏鱒二の自宅は、東京の西側、荻窪にあった。
井伏鱒二が『荻窪風土記』に書き記したような自然は少なくなったが、
荻窪には今も井伏鱒二が書いた「昼間にどてらを着て歩いていても、後ろ指を指されるようなことはない」という雰囲気は残っており、
商店街には「井伏さんはよく来たよ」という店がまだいくつもある。
作家は亡くなるまで、庶民の街で過ごし、その人柄は誰からも愛された。
昔、NHKのテレビ番組で見た僕の好きなエピソードがある。
ある日、小説家の開高健【1930年(昭和5年)~1989年(平成元年)】が、井伏鱒二の自宅を訪ねた。
50歳を過ぎ、小説が書けずにいた開高健は
「時代がデリケートで、モノを書く野蛮さが湧かない。
ホンマに言うんですが、書けないんです。先生、どうすればいいでしょう」と尋ねた。
井伏鱒二は酒を片手に、悠然とした態度でこう言った。
「書けない時は、何でも書くことですな。
書くことがなければ、いろはにほへと、と書けばよろしい」
その言葉を聞いた開高健は、参りましたとばかり、笑うしかなかった。
悩みがちなこの小説家は、井伏鱒二よりも先に逝ったが、
井伏鱒二の長寿の理由は、こんなところにあったのかもしれない。
ひょうひょうとして動じず、悩みもユーモアで、包み込む。
好きなものを食べ、酒を飲む。井伏鱒二は特にウイスキーを愛した。
「飲んだ時は酔った方がいい。飲んで酔わないと体に悪い」とうそぶき、
二日酔いの解消法は、ぬるめの風呂に入り、ゆっくりと沸かしていくという体に悪そうな方法だった。
それで酔いが冷めたら、また飲みはじめる。
それでも95歳まで、作家は生きたのだ。
井伏鱒二が訳した「于武陵の勧酒」という詩は、特に知られる。
「この杯を受けてくれ、どうぞなみなみと、注がせておくれ、
花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」
人生は思い煩(わずら)うことなく過ごすべきだ。
誰かと酒を酌み交わす時間、今、この瞬間、瞬間を大事にしなければいけない。
そう、誰もがいつか別れるのだから。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くし、それぞれの作家の年表を補記した。
私は若き20代の前半期に文学青年の真似事をしていたので、
もとより井伏鱒二さんの作品は、殆ど拝読していた・・。
私は50年ぶりに《・・さよならだけが人生だ・・》に接したり、
そして《・・人生は思い煩(わずら)うことなく過ごすべきだ。・・
今、この瞬間、瞬間を大事にしなければいけない。》とこのような秘められた思いを改めて読んだりしたが、
若き青年時代は、深みある人生教訓も知らず、うわべの文だけ読み、通り過ぎてきた。
今回、改めて作家・井伏鱒二さんの遺(の)された名言をかみしめて、
まもなく9月に72歳になる私は、確かにそうですよね、と深く教示されている。
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【 思い煩うことなく酒を飲み、長生きした井伏鱒二 】と見出し見て、私は読んだりした。
この記事は、小説家・料理人の樋口直哉さんの『長寿の食卓~あの人は何を食べてきたか』連載寄稿文で、
第13回として亡き作家・井伏鱒二さんの名言を記載し、2015年4月9日に配信されているが、
無断ながら転載させて頂く。
《・・思い煩(わずら)うことなくうことなく酒を飲み、長生きした井伏鱒二
井伏鱒二【1898年(明治31年)~1993年(平成5年)】の小説は、教科書で初めて触れたという人も多い。
教科書に多く掲載されている短編『山椒魚』は井伏の代表作だが、個人的にも奇妙な味わいが記憶に残っている。
太宰治【1909年(明治42年)~1948年(昭和23年)】の師匠としても知られる井伏鱒二は、
戦前から戦後にかけて長い間、活躍した作家だ。
戦前には『ジョン萬次郎漂流記』(この作品で直木賞を受賞)、戦後の作品として『黒い雨』などがある。
「文士が通った店」という縁が語られる店は数多いが、作家では井伏鱒二の逸話が最も多いのではないだろうか。
神田のうなぎ店、大久保や中野の居酒屋、早稲田のそば屋、阿佐谷の中華料理店、西荻窪フランス料理店・・
さまざまな店に通い、請われれば店の命名もしている。
井伏鱒二の自宅は、東京の西側、荻窪にあった。
井伏鱒二が『荻窪風土記』に書き記したような自然は少なくなったが、
荻窪には今も井伏鱒二が書いた「昼間にどてらを着て歩いていても、後ろ指を指されるようなことはない」という雰囲気は残っており、
商店街には「井伏さんはよく来たよ」という店がまだいくつもある。
作家は亡くなるまで、庶民の街で過ごし、その人柄は誰からも愛された。
昔、NHKのテレビ番組で見た僕の好きなエピソードがある。
ある日、小説家の開高健【1930年(昭和5年)~1989年(平成元年)】が、井伏鱒二の自宅を訪ねた。
50歳を過ぎ、小説が書けずにいた開高健は
「時代がデリケートで、モノを書く野蛮さが湧かない。
ホンマに言うんですが、書けないんです。先生、どうすればいいでしょう」と尋ねた。
井伏鱒二は酒を片手に、悠然とした態度でこう言った。
「書けない時は、何でも書くことですな。
書くことがなければ、いろはにほへと、と書けばよろしい」
その言葉を聞いた開高健は、参りましたとばかり、笑うしかなかった。
悩みがちなこの小説家は、井伏鱒二よりも先に逝ったが、
井伏鱒二の長寿の理由は、こんなところにあったのかもしれない。
ひょうひょうとして動じず、悩みもユーモアで、包み込む。
好きなものを食べ、酒を飲む。井伏鱒二は特にウイスキーを愛した。
「飲んだ時は酔った方がいい。飲んで酔わないと体に悪い」とうそぶき、
二日酔いの解消法は、ぬるめの風呂に入り、ゆっくりと沸かしていくという体に悪そうな方法だった。
それで酔いが冷めたら、また飲みはじめる。
それでも95歳まで、作家は生きたのだ。
井伏鱒二が訳した「于武陵の勧酒」という詩は、特に知られる。
「この杯を受けてくれ、どうぞなみなみと、注がせておくれ、
花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」
人生は思い煩(わずら)うことなく過ごすべきだ。
誰かと酒を酌み交わす時間、今、この瞬間、瞬間を大事にしなければいけない。
そう、誰もがいつか別れるのだから。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くし、それぞれの作家の年表を補記した。
私は若き20代の前半期に文学青年の真似事をしていたので、
もとより井伏鱒二さんの作品は、殆ど拝読していた・・。
私は50年ぶりに《・・さよならだけが人生だ・・》に接したり、
そして《・・人生は思い煩(わずら)うことなく過ごすべきだ。・・
今、この瞬間、瞬間を大事にしなければいけない。》とこのような秘められた思いを改めて読んだりしたが、
若き青年時代は、深みある人生教訓も知らず、うわべの文だけ読み、通り過ぎてきた。
今回、改めて作家・井伏鱒二さんの遺(の)された名言をかみしめて、
まもなく9月に72歳になる私は、確かにそうですよね、と深く教示されている。
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