先程、ときおり愛読している朝日新聞社系の基幹サイト【dot.(ドット)】を見ている中、
【 ヒット曲「恋人よ」の誕生秘話 五輪真弓本人が語る 】と見出しを見てしまった。
私は若き20代に、五輪真弓(いつわ・まゆみ)さんのデビュー曲『少女』(1972年)に瞬時に圧倒的に感銘し、
やがて『恋人よ』(1980年)にも、私はささやかながら秘めたることがあり、
この記事を精読してしまった。
この記事の原文は『週刊朝日』の2017年5月26日号に掲載された記事のひとつであり、
朝日新聞社系の基幹サイト【dot.(ドット)】に2017年5月22日に配信されて、
無断ながら転載させて頂く。
《・・ヒット曲「恋人よ」の誕生秘話 五輪真弓本人が語る〈週刊朝日〉
デビューしたのは、21歳のときだ。
アルバム「少女」は、ロサンゼルスでのレコーディングで、
五輪真弓さんのデモテープを聴いて、感銘を受けたキャロル・キングが駆けつけ、参加したことでも話題になった。
「スターになりたいとか、売れたいとか、そんな気負いは一切なかったですね。
ただ、社会に出ていくことで緊張していたし、不安もあったので、
当時のジャケット写真はだいたい表情が暗いの(苦笑)。
実際、生意気なところもあって、取材のときも、ほとんどしゃべらないものだから、
そのうちインタビューの仕事がこなくなっちゃった(笑)」
今でこそ快活な雰囲気だが、「あの頃の私にインタビューなんかしたら、きっと泣いちゃうわよ」などと、
ジョークまじりに言う。
華々しくデビューはしたものの、思うように曲が書けず、デビューして4年で、
スランプに陥ったこともあった。
「私の曲作りは、詞を書くことから始まります。
最初に書いた詞も、“小さいときの思い出を通して、今の心境を言葉にしてみたらどうだろう”と、そんな発想からでした。
一人で黙々と言葉やメロディーを紡いでいると、まるで天とつながっているような気分になれる。
私の大好きな時間でした。
でも24歳ぐらいで“書くべき自分の世界”を見失って、
ちょうどそんなタイミングで、フランスのレコード会社からアルバム制作の申し出があったんです」
日本を離れた暮らしの中で、初めて歌謡曲も含めた日本文化の素晴らしさに気づけた。
以来、日本的な情緒を歌詞やメロディーに加えるようになり、
「そういう経験があったから、のちに『恋人よ』のような曲を作ることができたんだと思います」
と五輪さんは振り返る。
「子供の頃、浴びるように洋楽を聴いていたとき、
英語はわからなくても、曲が言わんとしていることはわかった気がした。
私が詞にメロディーをつけるときも、伝えたいことをどうメロディーに乗せるかに腐心します。
私の音楽がアジアの国々で受け入れられるのは、
メロディーにも、私が言わんとすることを込めたいと考えて作っているせいかもしれない」
「恋人よ」が大ヒットしてからは、忙しい毎日を過ごしていた。
体調を崩し、「休みたい」と心と体が悲鳴をあげた頃に、今の夫と出会い、結婚。
子供が生まれたことをきっかけに、仕事をセーブした。
2013年以降は毎年秋にコンサートツアーを行っていたが、デビュー45周年の今年は、春からのツアーとなる。
「出産と子育てを経験して、私はようやく“人間形成”の時期に入ったの。
こんなふうに笑いながらインタビューを受けられるようになったのも、子供のお陰。
若い頃は、自分の世界を表現することに躍起になっていたけど、
今は人間として高得点を目指したい。
歌だって、今のほうが表現に深みが出ているはずだし(笑)」・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
確か年金生活を始めて6年過ぎた頃、いつもように家内から依頼された買物で、
最寄りのスーパーで買物を終えて帰宅する途中、
橋の歩道がさわやかな風が吹いていたので、足を止めて身をまかせて受けていた・・。
そして、ぼんやりと遠方の情景を眺めていた時、脳裏からひとりの歌が突然に舞い降りて、
私は心の中で唄いだした・・。
♪枯葉散る 夕暮れは 来る日の寒さを もの語り
【『恋人よ』 作詞、作曲・五輪真弓、編曲・船山基紀、唄・五輪真弓 】
と心の中で唄いだしていた。
そして、この後の私は自宅に向かいながら住宅街を歩いたが、
真弓ちゃんの歌かょ、と微苦笑しがなら、私は五輪真弓さんの歌に魅せられた頃が浮かんだりした。
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画・文学青年の真似事をして、はかなくも敗退し、
やむなくコンピュータの専門学校で一年学んだりした。
そして遅ればせながら1970年(昭和45年)の春に、この当時は映像・音響メーカーとして、
大企業であったが、何とか中途入社ができた。
この民間会社は、この中の一部に音楽事業本部があり、
数多くの大手のレーベルを傘下に収め、レコード業界の首位を独走していた。
まもなく、この中の大手レーベルが外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード専門会社に転籍させられた。
そして商品の現場を10ヶ月学んだ後、本社のコンピュータ専任者として配属されたが、
音楽に関しては、文学、映画の次の程度に関心がある程度であった。
やがて1972年(昭和47年)の初秋、私は日曜日で自宅でラジオを聴きながら、
身のまわりの整理をしていた。
♪あたたかい陽のあたる 真冬の縁側に
【 『少女』 作詞・五輪真弓 】
私は思わず手を止めて、ソファに座り、煙草に火を点(つ)けた・・。
♪つもった白い雪が だんだん とけてゆくのを
【 『少女』 作詞・五輪真弓 】
私は楽譜も読めなく楽器も弾けない身であり、制作とは直接に関係ない管理畑であり、
音楽には拙(つたな)い感性を頼りに聴いたりしてきたが、
この『少女』を創られた御方は、感性の鋭い人と感じながら、瞬時に圧倒的に感銘し
初めて作詞・作曲し、唄っている人が、五輪真弓さんと知ったりした。
翌朝、会社で、たまたま私が朝礼の当番であった。
本社の営業本部、同じフロアーの営業所の数多くいる社員の前で、
私は前に立ちながら、ひととおり業務関係のことを云った後、
『・・CBSソニーさんから、凄い感性のある人でデビューします。
10月に発売されますが、五輪真弓という若い女性が・・『少女』というデビュー曲で・・感性と感覚が際立った人で・・』
と私は他社のアーティトであったが、半分得意げで云ったりしてしまった。
たまたま営業の本部長の所に、邦楽の制作本部長が打ち合わせて来ていたのを、
後で知った。
この後、一時間後に、私は制作本部長とエレベータの中で、偶然ふたりとなった。
『・・お前さんねぇ・・よく云うよねぇ・・』
と制作本部長は微苦笑されながら、私に云った。
私はもとより音楽業界のレコード会社は中小業が多く、
中堅のレコード会社で、コンピュータ専任者の身であったが、
この当時は、世間に対しても怖いもの知らずの27歳の時であった・・。
私は偶然に五輪真弓さんの『少女』をラジオで聴いた後、
レコードのアルバムの発売日に待ち焦がれ、『五輪真弓/少女』を買い求めたのは、
確か1972年(昭和47年)の10月の下旬であった。
この頃の私は、自室にレコード・プレイヤー、プリメイン・アンプ、そしてスピーカと、
この当時の普通の音楽ファンの機器構成で聴いていた。
しかし、この当時のオーディオ機器は、私の基本給の月収より数倍高く、私はローンで返済していた。
そして、私は帰宅後、このアルバムに夢中になり、殆ど毎日聴いていたし、
次兄にも賞賛をしたりしていた。
翌年の7月に『風のない世界』が発売されて、
特にこの中の一曲『煙草のけむり』には、この人の才能が満ち溢れている、
と友人らにも絶賛していた。
確か数年後であったと記憶しているが、
虎ノ門ホールで五輪真弓さんのコンサートがあり、この頃に交際していた女性と観たりした。
この女性はある音楽大学のピアノ専攻科を卒業したばかりで、
先生に師事しながら、ピアニストを熱望する人であった。
そして私はピアノを専攻する人に、気後(きおく)れしながらも、
ピアノを弾きながら自身の作詞・作曲され、歌を唄う五輪真弓のコンサートに、誘い出したりした。
この女性とは、コンサートの終了後に食事をしていた時、
虎の門ホールの音響、そして五輪真弓さんに関して才能のある人ね、と私に語ったので、
私は五輪真弓さんのデビュー以来才能を認めていたので、
この女性に同意されたので、私の心は小躍りのような状態であった。
この人とは、渋谷、新宿で幾たびか待ち合わせ、夕食を共にした後、自宅に送り、
この方の母親に可愛がって頂だき、親愛の情をしぐさを見せてくれたりした。
そして私は、自宅に来て貰ったり、私の実家にも連れて行ったりしていた。
このような時、有数なソプラノ歌手のコンサートが東京文化会館の小ホールで開催され、
伴奏としてのピアノを弾く担当に選ばれ、私は当然ながら、このコンサートを観たりした。
ただ会場、ロビーなどは演奏者はもとより、招待された方、音楽大学の卒業生、生徒たちの雰囲気が、
私の今までの人生で体験したことのない特有な雰囲気につつまれていた。
その後、まもなくして、私は結婚したい、と申し込んだ夜、
『貴方が思っているような・・サラリーマンの良い奥さんには・・なれないわ・・』
と云った。
確かに毎日10時間前後は、ピアノ弾いているので、
サラリーマンの普通の生活ペースは無理であるが、私は承知の上だ、
とこのような意味合いの言葉を重ねたりした。
数ヵ月後、貴方に負担をかけたくないの、と私は言われ、
私は失恋をした・・。
そして私は五輪真弓さんに関しては、スターとなった今、
何となく遠ざかり、シャンソンなど曲に夢中になり、深めていった・・。
私は数年後、妹の嫁ぎ先の親から、ひとりの女性を紹介され、
この人と結婚した。
私が家を建て始めて、ローンの負担が重苦しく感じ、数年続いた時、
私は懐かしい唄声を聴いたのである。
♪枯葉散る 夕暮れは 来る日の寒さを もの語り
【『恋人よ』 作詞、作曲・五輪真弓、編曲・船山基紀、唄・五輪真弓 】
私は思わず、真弓ちゃんだ、と心の中で叫んだりした・・。
そして、相変わらず、才能を発露させ、確固たるスターになった五輪真弓さんに、
しばらくぶりだったけれど、凄い詞を書いたよね、と心の中で祝杯したりした。
♪恋人よ そばにいて こごえる私の そばにいてよ
【『恋人よ』 作詞、作曲・五輪真弓、編曲・船山基紀、唄・五輪真弓 】
私はピアノニストに熱望した人は、今はどうしているか解らないが、
私にとっては、若き日の貴重な苦い想いのひとつとなっている。
私は今でも五輪真弓さんの『恋人よ』を聴いたりすると、
このピアニストの演奏だけで、生活できるように熱望した女性が思い浮かび上がり、
私の若かった頃が蘇(よみが)ることが多い。
そして、ときおり思い出したかのように、かぼそい声で鼻歌を唄うこともある。
♪まるで忘却(ぼうきゃく) 望むよに 止まる私を 誘ってる
【『恋人よ』 作詞、作曲・五輪真弓、編曲・船山基紀、唄・五輪真弓 】
このように私には、五輪真弓さんの歌には、
齢ばかり重ねた私は、ささやかな想いでを秘めながら、聴いたりする時もある。
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