私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
ここ一週間は小庭の手入れをすることが多く、本日も家内の支援を受けて、私たち夫婦は奮闘した。
この間、私は無念ながら体力の衰え、30分毎に簡易椅子に座り、ペットボドルの煎茶を飲み、
5分ぐらい休息としたりした。
こうした時、昨夕ネットで偶然に知った女優・月丘夢路(つきおか・ゆめじ)さんが、
死去されたニュースが甦(よみがえ)りした。
私が読んだ記事は、『日刊スポーツ』が5月8日に配信された記事で、無断ながら転載させて頂く。
《・・元宝塚、女優の月丘夢路さん死去 95歳、肺炎
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170508-01820111-nksports-ent.view-000
月丘夢路さん(1954年8月2日撮影)
宝塚歌劇団の元娘役スターで、映画、ドラマでも活躍した女優・月丘夢路さん(本名・井上明子=いのうえ・あきこ)が
3日午後1時50分に肺炎のため、都内病院で死去したことが8日、分かった。95歳。
葬儀はすでに近親者のみで営まれ、後日お別れの会を予定している。
月丘さんは、広島県生まれで、広島第一高女(現広島皆実高)から、1937年に宝塚音楽学校に入学。
同期には越路吹雪、乙羽信子、東郷晴子、大路三千緒らがいる。
娘役スターとして活躍していた1942年、「新雪」で映画デビューし人気になった。
退団後は、大映、松竹の作品に出演し、日活へ移籍。100本以上の映画に出演した。
夫は10年に亡くなった映画監督の井上梅次さん(享年86)、長女は料理研究家の井上絵美氏。
代表作に、映画は「美徳のよろめき」「ひろしま」「二十四の瞳」「夜の牙」など、
ドラマは「華岡青洲の妻」「犬神家の一族」など、舞台は「マイ・フェア・レディ」など。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は1944年(昭和19年)秋に、農家の児として長兄、次兄に続いて三男坊として生を受け、
そして妹ふたりの間に育ち、長年サンドイッチのような中で、過ごしてきた。
やがて小学2年生の頃から、父の妹である叔母が未婚だった当時、
都心に住んでいる叔母の友人が来宅して、私は言葉、しぐさ、表情にに魅了されて、
素敵なお姉さん・・と感じたりして以来、何かしら女性に憧憬を深めたりしてきた・・。
そして確か1954年(昭和29年)の秋、小学4年生だった私たち生徒は、
先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
京王線の布田駅の近くの映画館で、木下惠介・監督の『二十四の瞳』を観賞した・・。
この当時の私は、海も観たことのない少年であり、
映画のシーンの小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、あれが海かょ、と衝撃をを受けたりした。
そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。
この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生(高峰秀子さん)の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉(田村高廣さん)が、一年生の時に先生と生徒12名の記念写真を指差しながら、
生徒全員の位置を示すシーンであった。
そして、この時に廊下に立っていた成人した生徒の女性(月丘夢路さん)が
『浜辺の歌』を唄うシーンであった。
こうした時、月丘夢路さんのしぐさ、表情を観たりして、綺麗なお姉さん・・と
と見惚(みと)れたりしていた。
そして『二十四の瞳』を観賞した後、まもなく独りで映画館に通った映画少年となり、
やがて映画の脚本家になりたくて大学を中退したりしてきたので、数多くの映画作品を鑑賞してきた・・。
こうした中で、恥ずかしながら女優に対して、初めてときめいた御方は月丘夢路さんとなっている。
やがて私は、国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の底で、『浜辺の歌』を唄ったりすることが多い。
このようなことを思い馳せ、私は独り微苦笑を重ねたりした。
今回、ご訃報に接し、改めて心から哀悼の意を表します。
そして安らかにご永眠されますようお祈りいたします。
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ここ一週間は小庭の手入れをすることが多く、本日も家内の支援を受けて、私たち夫婦は奮闘した。
この間、私は無念ながら体力の衰え、30分毎に簡易椅子に座り、ペットボドルの煎茶を飲み、
5分ぐらい休息としたりした。
こうした時、昨夕ネットで偶然に知った女優・月丘夢路(つきおか・ゆめじ)さんが、
死去されたニュースが甦(よみがえ)りした。
私が読んだ記事は、『日刊スポーツ』が5月8日に配信された記事で、無断ながら転載させて頂く。
《・・元宝塚、女優の月丘夢路さん死去 95歳、肺炎
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170508-01820111-nksports-ent.view-000
月丘夢路さん(1954年8月2日撮影)
宝塚歌劇団の元娘役スターで、映画、ドラマでも活躍した女優・月丘夢路さん(本名・井上明子=いのうえ・あきこ)が
3日午後1時50分に肺炎のため、都内病院で死去したことが8日、分かった。95歳。
葬儀はすでに近親者のみで営まれ、後日お別れの会を予定している。
月丘さんは、広島県生まれで、広島第一高女(現広島皆実高)から、1937年に宝塚音楽学校に入学。
同期には越路吹雪、乙羽信子、東郷晴子、大路三千緒らがいる。
娘役スターとして活躍していた1942年、「新雪」で映画デビューし人気になった。
退団後は、大映、松竹の作品に出演し、日活へ移籍。100本以上の映画に出演した。
夫は10年に亡くなった映画監督の井上梅次さん(享年86)、長女は料理研究家の井上絵美氏。
代表作に、映画は「美徳のよろめき」「ひろしま」「二十四の瞳」「夜の牙」など、
ドラマは「華岡青洲の妻」「犬神家の一族」など、舞台は「マイ・フェア・レディ」など。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は1944年(昭和19年)秋に、農家の児として長兄、次兄に続いて三男坊として生を受け、
そして妹ふたりの間に育ち、長年サンドイッチのような中で、過ごしてきた。
やがて小学2年生の頃から、父の妹である叔母が未婚だった当時、
都心に住んでいる叔母の友人が来宅して、私は言葉、しぐさ、表情にに魅了されて、
素敵なお姉さん・・と感じたりして以来、何かしら女性に憧憬を深めたりしてきた・・。
そして確か1954年(昭和29年)の秋、小学4年生だった私たち生徒は、
先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
京王線の布田駅の近くの映画館で、木下惠介・監督の『二十四の瞳』を観賞した・・。
この当時の私は、海も観たことのない少年であり、
映画のシーンの小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、あれが海かょ、と衝撃をを受けたりした。
そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。
この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生(高峰秀子さん)の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉(田村高廣さん)が、一年生の時に先生と生徒12名の記念写真を指差しながら、
生徒全員の位置を示すシーンであった。
そして、この時に廊下に立っていた成人した生徒の女性(月丘夢路さん)が
『浜辺の歌』を唄うシーンであった。
こうした時、月丘夢路さんのしぐさ、表情を観たりして、綺麗なお姉さん・・と
と見惚(みと)れたりしていた。
そして『二十四の瞳』を観賞した後、まもなく独りで映画館に通った映画少年となり、
やがて映画の脚本家になりたくて大学を中退したりしてきたので、数多くの映画作品を鑑賞してきた・・。
こうした中で、恥ずかしながら女優に対して、初めてときめいた御方は月丘夢路さんとなっている。
やがて私は、国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の底で、『浜辺の歌』を唄ったりすることが多い。
このようなことを思い馳せ、私は独り微苦笑を重ねたりした。
今回、ご訃報に接し、改めて心から哀悼の意を表します。
そして安らかにご永眠されますようお祈りいたします。
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