と題された見出しを見たりした・・。
私は定年退職する一か月前、家内から定年退職の記念品として、
何か買い求めたら、と私は言われたりした。
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やがて確か7年前、三代目のパナソニックの『LUMIX(ルミックス)
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あんな情景があったのか、と愛惜を重ねたりしている。
こればかりは・・と独り微苦笑をしたりしてきた。
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家電批評の『デジカメ ビデオカメラがまるごとわかる本 2021』、
買い求めてデジカメも加速されて進化していたことを学んだりした・・。
世の中は新コロナウィルスの烈風で閉塞感があり、
私も好きな国内旅行も、『三密(密集、密接、密閉)』の信義の前では、
つたない私でも天に唾(つば)をかける行為で、まぎれなく非国民に該当するので、
旅行はダメだよなぁ・・、我慢しながら断念してきた。
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せめて衰えた心身を私自身を鼓舞させる為に、
デジカメを買い改めて、日常生活を活性化しょうと、
秘かに思案したりしてきた。
こうした中で、デジカメは私の乏しい技巧でも、
少し背伸びした機種を選定しょう、と思い深めたりした。
そしてヨトバシカメラのマルチメディア吉祥寺店に行き、
レンズはズーム型の好きな私としては、ソニーの24~240mm、として、購入した。
このようにデジカメで散策した時に、魅了された情景を撮る、
シロウトの身であるが、恐れ多くも写真で御飯を食べている
プロ写真家の人生の軌跡を学びたく、記事を読んでしまった・・。
この記事は、【 AERA dot.】に於いて、2021年8月25日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。
《・・ 写真家・小松健一さんが『写真家の心 詩人の眼』(本の泉社)を出版した。
本書に収められているのは、大竹省二、石川文洋、竹内敏信、田沼武能、田村茂、丹野章、
中村征夫、水越武、渡辺義雄・・・戦後日本の写真界を代表する
そうそうたる写真家ついて書かれた文章や対談、インタビューである。
![第38回木村伊兵衛写真賞の授賞式・パーティーで。右から野町和嘉、田沼武能、水越武、中村征夫の各氏(2012年2月、東京會舘で。撮影:小松健一)](http://cdn.images-dot.com/S2000/upload/2020082400016_1.jpg?update=20200824174728)
第38回木村伊兵衛写真賞の授賞式・パーティーで。
右から野町和嘉、田沼武能、水越武、中村征夫の各氏(2012年2月、東京會舘で。撮影:小松健一)
☆「なんで小松は土門さんが怖くないんだよ?」
小松さんは、世界の辺境を旅してきた写真家であるとともに、
中学時代から短歌に打ち込んできた文筆家、そして稀有なインタビュアーでもある。
揺さぶるような大きな体躯。
どんな相手でも、心を開かせてしまう茶目っ気のある笑顔。
小心者の私は、いつも小松さんに会うと引け目を感じてしまう。
そんなわけで、小松さんときちんと会話を交わしたのは、今回が初めてである。
ページをめくるたびに、「よくここまで相手の懐に入り込んで、話を聞き出せたなあ」と、
私は嫉妬のかたまりになってしまうのだ。
例えば、こんな文章。
<たった一発、それもたまたま出くわして撮った写真が、俺の代表作とは情けねェーなあ>
林忠彦が、発した生きのよい言葉をとらえ、綴っている
(あの太宰治を銀座のバーのカウンターで写した名作のことだ)。
「写真の鬼」と呼ばれた土門拳にも、かわいがられた。
「単に孫くらい歳が離れていたからでしょう」と、本人は笑うが、
先輩の写真家からは「なんで小松は、土門さんが怖くないんだよ?」と、
嫉妬の混じりの言葉をぶつけられている(それを聞くと、ちょっとうれしい)。
![「丹野さんの米寿を祝う会」で。前列左から丹野さん、御歳99歳を迎える芳賀日出男さん、小松さん(左上)と、丹野さんの愛弟子、沖縄在住の小橋川共男さん(2013年8月8日、池袋・みやらびで。撮影:熊切圭介)](http://cdn.images-dot.com/S2000/upload/2020082400016_2.jpg?update=20200824174728)
「丹野さんの米寿を祝う会」で。
前列左から丹野さん、御歳99歳を迎える芳賀日出男さん、小松さん(左上)と、
丹野さんの愛弟子、沖縄在住の小橋川共男さん
(2013年8月8日、池袋・みやらびで。撮影:熊切圭介)
☆洗面器でつくったラーメンを囲って食べた竹内敏信
「いま考えてみりゃ、若いのにいろいろな人たちに出会えて、ラッキーだったね。
俺はいつもおじいちゃん連中に、お茶を出していたんだよ。
そうすると、『おい、ここへ来てだまって聞いてろ。勉強になるから』って。
タバコを買ってきたり、丁稚小僧みたいな感じだな。
だけど、そういう話をぜんぶ聞いていた」
1953年、岡山県生まれ。
群馬県で育った小松さんは、1974年に東京・四谷に設立されたばかりの「現代写真研究所(現研)」に入学。
本格的に写真を学んだ。
いまも「花の一期生ですよ」というのが自慢だ。
「写真家の土門拳、田村茂、藤本四八、丹野章、評論家の田中雅夫、伊藤逸平、伊藤知己先生たちが
中心になって現研ができるということを知って、
そこに何かエネルギッシュで、創造的なものを感じた」と、書いている。
そこから自然と編み進んでいった人とのつながりが、本書のベースとなったのだろう。
例えば、当時の講師の一人に、後に風景写真家となる竹内敏信がいた。
「竹さんは、あのころまだ若くてね、愛知県・岡崎から夜行列車で通っていた。
泊るところがないから、いつも生徒の家を泊まり歩いていた。
洗面器でラーメンをつくって、みんなでよく囲んで食べたよ。
竹さんからすれば、いまさらそんなことは書いてほしくないかもしれない。
偉い人になっちゃったからね。
でも今回、『載せます』って、はがきを出したら、何も言ってこなかったから、
昔の対談をそのまま載せました」
![万年雪をたたえるトロンパスピーク(6481メートル)の山麓にあるヒンドゥー教とチベット仏教の聖地ムクティナートをめざす巡礼者(撮影:小松健一)](http://cdn.images-dot.com/S2000/upload/2020082400016_3.jpg?update=20200824174728)
万年雪をたたえるトロンパスピーク(6481メートル)の山麓にある
ヒンドゥー教とチベット仏教の聖地ムクティナートをめざす巡礼者(撮影:小松健一)
同じ自然写真の分野では、若いころの中村征夫の話が胸を打つ。
「中村さんは、上野・御徒町で柿の種を仕入れて、袋詰めしてね、
それをバイクで、神奈川の方まで売り歩いていたんだよ。
その前は、酒屋の御用聞きで一軒一軒歩いてさ。
いまの中村さんの姿からは、想像できないような苦労をしている」
中村青年の仕事ぶりにほだされた酒屋のおばちゃんは
「この店をあんたに、譲りたいんだけども」と相談する。
しかし中村は、「僕、やりたい仕事、方向が見みつかったので、
このままここにいても、おばちゃんに迷惑をかけるから」
と言って店をやめるのだ。
そして、行商をしながら、水中写真に打ち込むのだ。
「そういうことって、あまり知られていないから」
次の世代の若い写真家に、どうしても伝えておきたいと、小松さんは言う。
「それくらい気合を入れて撮れ、っていうこと。
苦労しないというか、金になる頼まれ仕事しかしないやつって、結局、何にも残らないから・・・。
田沼武能さんなんか、40代の最後、自分の家を担保に入れて
借金して南米・アンデスをまわった。
帰ってきたら車を売り飛ばして、現像代にあてた。
そうやって出した写真集『アンデス讃歌』(1984年、岩波書店)は
すごくいい仕事で、田沼さんの代表作になった」
「渡辺義雄さんは、1953年に初めて伊勢神宮(の式年遷宮)を撮影したとき、
『あいつは特権階級で、コネを持っていたから撮れた』って、
相当叩かれたけど、とんでもない、と。
もちろん、疎開先で、たまたま大宮司と知り合ったこともあるけれど、
それでもダメなところは、何回も何回も足を運んで、自分の理屈が通っただけだから、と。
俺は越後人だから、義理がたいし、約束は守るから2回目(1973年)は
寛大なことで撮影できた、と言っている」
![サハリンのスターロードゥブスコィエ(旧栄浜)で。宮沢賢治はこの浜に何時間もたたずんで亡くなった最愛の妹トシとの「交信」をしていたという(撮影:小松健一)](http://cdn.images-dot.com/S2000/upload/2020082400016_4.jpg?update=20200824174728)
サハリンのスターロードゥブスコィエ(旧栄浜)で。
宮沢賢治は、この浜に何時間もたたずんで、亡くなった最愛の妹トシとの「交信」をしていたという(撮影:小松健一)
小松さんは、1983年度新日本歌人協会新人賞を受賞した直後に
歌の世界から身を引き、写真の世界に信念を持って携わってきた。
今回収めた文章は、1984年から最近までの膨大な著作や記事のなかから、
選び出したものだ。
そこには「先生方、先輩、そして仲間たちが残した珠玉の言葉が、綺羅星のごとくあった。
自分だけのものにしておくは、あまりにももったいない」。
その気持ちが、本書をつくり上げる原動力となった。
その一方で、いまの写真界に対する危機感が、文章のはしばしからにじみ出る。
「写真というのは、まだ生まれてから180年ほどしかたっていない新しい芸術でしょう。
文学や音楽に比べれば、はるかに新しい表現手段なのにもかかわらず、
これからの社会のなかで、廃れていってしまうというか、
忘れられていってしまうんじゃないか、という不安があった」
小松さんは、両手でカメラを構えるしぐさをした。
そして「写真って、これだけでしょう」と言って、シャッターを切るように人さし指を動かした。
「1/250秒とかね、写真って、ほんの一瞬だけが自分で、
ほとんど他人まかせみたいな部分がありますから、圧倒的に手づくりじゃないわけですよ」
例えば、俳句は、推敲に推敲を重ねて五・七・五の17音をつくり上げていく。
絵画や彫刻もそうだ。
「これから写真は、記録性と訴求性だけでは、生き残れないでしょう。
もっと人の内面性、感情とか機微、心のひだみたいなものをプラスアルファしていかないと、
なかなか人を感動させることはできない。
もともと写真は、そういう部分がほかの芸術と比べて弱いですから。
まあ、難しいんですけどね。というか、相当難しい・・・」
ユージン・スミスの作品を見ると、詩的なものを感じることが多いと言う。
その一枚に、母に抱かれて入浴する水俣病の娘を写した「入浴する智子と母」を挙げた。
「あの作品には、何もいらない。言葉もいらない。
普遍的なものがにじみ出ているから」
未来の写真家を志す人たちへのささやかな伝語となってほしい
実をいうと、本書をつくるきっかけをたずねた際、
最初に返ってきたのは「新型コロナで仕事がなくてヒマだったから」。
あとがきは、こう結んでいる。
<皮肉なもので、世界中を震撼させているコロナ禍のなかで生まれた本書は、
果たして未来の写真家を志す人たちへの、ささやかな伝語となり得るだろうか・・・>
そうなることを切に願っている。(文・アサヒカメラ 米倉昭仁)
![](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/P/4780719763.09.LZZZZZZZ.jpg)
小松健一 ・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は記事を読みながら、突出した写真を拝見して、圧倒的に魅了されたりした・・。
やはりプロの写真家は、もとよりカメラとレンズの性能、フィルターを駆逐する技巧、そして構図も優れ、
何よりも突出した優れた感性がある御方が発露された写真は、
多くの御方に感動させる写真集を発刊して生活されている。
私は15年前の頃、総合雑誌の『サライ』にあった写真家の竹内敏信さんの連載記事、
風景写真を二葉を明示した上で、文章も兼ね備えて掲載されていて、
やはりプロの写真家の底知れぬすごさを感じ深めたりしていた。
昨今、写真業界は厳しい、と知人から教えられてきたが、
私なりに飛躍して、音楽業界はアナログからデジタルに急激に変貌して、
オーディオ評論家、或いは音楽評論家・・、同じような冷遇時代となっている。
今回、特に教示させられたことは、これから写真家をめざす御方は
《・・これから写真は、記録性と訴求性だけでは、生き残れないでしょう。
もっと人の内面性、感情とか機微、心のひだみたいなものをプラスアルファしていかないと、
なかなか人を感動させることはできない。・・》