高齢者医療の専門医が「老いと闘うな」と訴えるワケ 』、
と題された見出しを見たりした。
こうした根底のひとつには、過ぎし年に家内が大病に遭遇して、
私は家内より先に要支援、要介護などになることは、夫の責務を放棄することであるので、
何とか多少の自助努力で、ボケずに健康でいたい、と思い深めている。
今回、《・・高齢85歳を過ぎて・・認知症傾向のない人はいない・・》と読み、
小心者の私はドキューンとしてながらも、見果てぬ85歳前後の状況を
高齢者医療の専門医の第一人者の御方より、真摯に学びたく、記事を読んでしまった・・。
この記事は、和田秀樹さんの著作の『老いの品格 品よく、賢く、おもしろく』(PHP新書)の一部を
再編集された記事で、【 プレジデントオンライン 】に於いて、6月3日に配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。
《・・老いとは、どう向き合えばいいのか。
「どれほど気をつけて努力したところで、ある程度の高齢になれば、認知症になることは避けられない。
老いを受け入れて、できることを大切にするほうが、よりよい人生を送れる」という――。
☆----------------------------------------------------------☆

☆「90歳でもこんなに元気に歩いています」はうらやましいのか
いま、老いに対する人びとのスタンスが、二極化していると感じます。
一方は、老いとずっと闘いつづけなければならないと考える、「アンチエイジング派」です。
いつまでも若々しくありたい、老け込みたくない、
寝たきりや認知症にならないようにしたい、と考える人たちです。
健康食品のコマーシャルで、「90歳でも、こんなに元気に歩いています」、
「人間、心がけしだいで、いくつになっても若くいられます」と語る人たちを見て、
「私もそうなりたい」と思う人も多いことでしょう。
もう一方は、その対極の反アンチエイジング、「自然に老いる派」です。
50歳そこそこで早くも「自然に歳をとりたい」と、
反アンチエイジングを公言する女性芸能人も見かけます。
90代の女性脚本家が、認知症になって生きることをよしとせず、安楽死を望む一方で、
50代の女優が、早々に老化を受け入れる姿勢を見せているというのは、
何やら奇妙にも思えます。
いつまでも老いと闘いつづけるべきという考えのもと、
美容医療やカツラの装着にも意欲的で、アンチエイジングに余念がないグループと、
「ボトックス注射で、しわをとるなんて許せない」と批判したり、
「ヅラ疑惑」と揶揄したりするグループに二分されている現状があります。

☆遺体が語る「85歳を過ぎると、がんがない人はいない」実態
老いと闘うか、受け入れるか。
私自身は、残念ながら、人間は最終的に、老いを受け入れざるをえないと考えています。
そのベースにあるのは、高齢者医療の現場での経験です。
私が勤めていた浴風会病院は、もともとは関東大震災で身寄りを失った高齢者の救護施設として、
皇室の御下賜金などをもとに設立されました。
その後、老年医学の研究のため、当時の東京帝国大学医学部から、
この施設に医師が派遣され、入所者の診療を行うとともに、
亡くなった人の解剖を行い、高齢者の脳や臓器について研究が進められました。
いまでもその伝統が残っており、私が勤務していた当時は、
年間100例ほどの解剖が行われていました。
私は、その解剖結果をずっと見てきました。
その結果、わかったのは、85歳を過ぎると、
脳にアルツハイマー型の神経の変性がない人、体内にがんがない人、
動脈硬化が生じていない人は、一人もいないということです。
☆いずれにせよ人間は、いつか必ずボケるし、歩けなくなる
つまり、どれほど認知症にならないように、がんばったところで、
あるいは、生活習慣病を予防するために、食生活や運動に気をつけたところで、
ある程度の高齢になれば、誰もが認知症になるし、生活習慣病にもなるのです。
かつては成人病と呼ばれていた脳卒中や心臓病などを、
「生活習慣病」と改称することを提唱したのは、
100歳を過ぎても現役医師として活躍していた日野原重明先生(享年105)ですが、
その日野原先生でさえ、晩年は脳内に変化が起こっていたと考えられます。
同じくらい脳が縮んでいても、すっかりボケたようになってしまう人と、
驚くほど頭がしっかりしている人がおり、症状の表れ方には個人差があります。
認知症になったとしても、頭を使いつづけて、
なるべくしっかりした状態を保つようにしてほしいと思います。
いずれにせよ、人間はいつかボケます。
いつかは、歩けなくなります。
それを覚悟しておく必要があります。
☆安楽死を望むよりも、「ボケたら、しかたない」と考えるほうが健全
認知症について「ボケる」と表現するのは、
侮蔑的であるとして、避けるのが一般的になっていますが、
私は、必ずしもネガティブなニュアンスの言葉とは思っていません。
むしろ、脳の老化がもたらす自然な状態を表すものと認識しているので、
本稿でも使用することを、ここでお断りしておきます。
認知症の検査法である「長谷川式簡易知能評価スケール」を開発したことでも知られる、
精神科医の長谷川和夫先生は、88歳のときに、みずからが認知症であることを公表しました。
日本の認知症医療の第一人者といわれる当人が、認知症になったわけですが、
長谷川先生本人は、新聞のインタビューで
「隠すことはない、年を取ったら、誰でもなるんだな、
と皆が考えるようになれば、社会の認識は変わる」とあっさり言い、
「認知症の人自身が、何を感じているかを伝えたい」と、講演活動を始めました。
認知症を受け入れず、「認知症になってまで、生きたくない」と安楽死を望むより、
「ボケたら、しかたがない。ボケたなりに、できることをやろう」と考えるほうが、
老いに対するスタンスとして、健全なのではと私は思います。
☆老いと闘ったほうがいい時期は存在する
老いと闘うことと、老いを受け入れることは、
二項対立ではなく「移行」だと、私は思っています。
老いと闘えるあいだは、闘ったほうがいいと思います。
まだ十分に闘える時期なのに、そうしないと、年齢以上にずっと老け込んでしまいます。
定年後に何もしない生活をしていると、60代でも歩行がよろよろしたり、
すっかり老人そのものの顔つきになったりする人もいます。
70歳そこそこで寿命がきていた時代であれば、それでもかまわないと思いますが、
いまや日本人の平均寿命は、男性が81歳、女性が87歳を超えています。
これは平均ですから、60歳より前に亡くなる人がいることを考慮し、
平均余命を見るかぎり、男性でも85歳くらいまで生きる人が、多数派でしょう。
60代から20年以上ものあいだ、ヨボヨボの状態で過ごすというのは、
さすがにつらいのではないでしょうか。
歩けなくなると、行動範囲がかなり狭くなってしまうので、
できるかぎり毎日、散歩を楽しむようにしたいですね。
また、認知機能があまりにも急に衰えると、本も読めなくなるし、
人との会話もままならなくなるので、なるべく頭を使いつづけるようにすることです。
こうして、ある時期までは、老いと闘っておいたほうが、
少なくとも残りの人生を楽しめると思います。
ただ、認知症になって、軽い物忘れが始まった、あるいは歩行がおぼつかなくなったら、
それで人生終わりかといえば、そんなことはありません。
老いを受け入れるということは、老いているなりに、どう生きるかということです。
老いと闘うフェーズが終われば、次は老いを受け入れるフェーズがあって、
そこでジタバタしないことが、格好よく老いることだと思います。
☆できなくなったことを悲観せず、できることを大切にする
歳をとると、体や脳が衰えてきます。
それは確かですが、だからといって、いきなり何もできなくなるわけではありません。
たとえば、認知症になると、とたんに何もかもわからなくなると思われがちですが、
初期には、記憶障害が起こるものの、理解力などはそれほど低下せず、
それこそ長谷川和夫先生のように講演さえできるものです。
また、認知機能は衰えても、体は丈夫で長く歩けるという人もいれば、
反対に、歩行困難で車いす生活を送らざるをえないものの、頭はシャキッとしている人もいます。
老化によって、すべての能力が、一様に低下するわけではないのです。
ニュースキャスターの安藤優子さんのお母さんは、
認知症が進み、老人ホームに入居していたそうですが、
施設で「臨床美術」のセラピーを受けて、大好きだったハワイの思い出を描くようになったといいます。
終末期になれば、寝たきりで、ほぼ何もできない状態になりますが、
それまでは、できないことは増えても、できることは残っています。
重要なのは、できなくなったことを悲観するのではなく、
できることを大切にして、それを活かしていくという考え方です。
パラリンピックの選手たちは、障害者という枠のなかで
競争しているというイメージをもたれがちですが、
彼らは多くの競技において、ほとんどの健常者よりも、はるかに高い能力を見せます。
つまり彼らは、できることの能力を最大限に伸ばし、
できることのすごさで、世界を相手に競っているわけです。
☆老いや死をうまく受け入れた人は、魅力的に見える
できないことがあってもいいのです。
「できることは、こんなにすごい」という方向に目を向けることが大事なのです。
人は自分の欠点ばかりを気にして、長所を見過ごしがちです。
たとえば、受験勉強では、苦手科目を克服しようとするより、
得意科目を伸ばすほうが、合計の点数が上がることが多いものです。
実際、高齢になっても、できることの何かがすごければ、人から一目置かれます。
たとえ寝たきりになっていても、おもしろい話ができるなら、
話を聞かせてほしいと思う人が、周りに集まってくるはずです。
絵や音楽、運動など、これまでやってきたことがあれば、
できるかぎり続けていくことで、さらに新しい境地にいたることもあるでしょう。
ピカソなど巨匠と呼ばれる画家でも、
歳をとってからの作品のほうが、高い評価を得ることはめずらしくありません。
老いや死は、ある程度上手に受け入れておいたほうが、
他人から見ても、魅力的であるばかりでなく、
自分自身も、平穏な気持ちを保つことができます。
そして結果的に、老いによるダメージの程度が、
それほど大きくならずに、すむことが多いと思います。
老いを受け入れると、できないことをあきらめられるぶん、
できることを慈しみ、それをもっとやってみようという意欲が湧いてきます。
そして、老いの時間をより豊かに過ごせるようになると思います。・・・ 》
---------- 和田 秀樹(わだ・ひでき) 精神科医・国際医療福祉大学赤坂心理学科教授
1960年大阪市生まれ。1985年東京大学医学部卒業。
東京大学医学部附属病院精神神経科、老人科、神経内科にて研修、
国立水戸病院神経内科および救命救急センターレジデント、東京大学医学部附属病院精神神経科助手、
米カール・メニンガー精神医学校国際フェロー、高齢者専門の総合病院・浴風会病院の精神科医師を経て、
現在、国際医療福祉大学赤坂心理学科教授、川崎幸病院顧問、一橋大学・東京医科歯科大学非常勤講師、
和田秀樹こころと体のクリニック院長。 ----------
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

今回、
私は多々学んだりした。
◎「85歳を過ぎると、がんがない人は、いない」