夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎ去り日々のそれぞれの出来事に、77歳の私でも、愛惜を重ねて・・。

2022-06-18 15:06:21 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の77歳の身であるが、
最近の一カ月の私は、ベットの布団にもぐるのは、真夜中の11時半前後であり、
目覚めるのは朝の6時ぐらいが多くなっている。

こうした中で、現役サラリーマン時代だった時と違い、悩みは激少している為か、
たとえ震度3ぐらいの地震でも、 目覚めることなく熟睡している。

そして目覚めた時、ぼんやりと昨日までの出来事を思い浮かべたり、
今日は・・と予定事項を思い浮かべたりしている。

こうした中、オシッコだ、と感じて、布団から起きだすことが多くなっている。
       
しかしながら、まだ6時半前かょ・・と思いながら、布団に戻ってきてしまい、
まもなく目を閉じているうちに、眠ってしまった・・。

やがて30分ぐらい二度寝した後、目覚めてぼんやりとまどろんだりした・・。

                 


過ぎし日の出来事とか、これからのささやかな願いの数々が、
夢と現(うつつ)の世界を彷徨(さまよ)うようなひとときとなっている。

そしてぼんやりとして正気には程遠く、
やがて起床して、煎茶を飲んだりして、正気になり微苦笑することが多くなっている。

このように朝、目覚めてぼんやりと微睡(まどろ)む時、やがて二度寝ができることは、
貧富に関係なく、この世で最も贅沢なひととき、と私は微笑んだりしている。

こうした私の実態が、いつの日にか介護にお世話になる時まで、
続けられれば・・と微苦笑したりしている。



こうした中、過ぎし15日に月に一度の散髪屋(理容店)に行ったが、
待合室で待機していると、置いてある雑誌の『クロワッサン』を手にして、
読んだりした。

《・・・昔のことを思い出して、懐かしさに浸ることを、
まるで後ろ向きなことのように、思い込んでいるかもしれないが、
「過去を懐かしく思い出すことは、決して現実からの逃避でもネガティブなことでもありません。

むしろ積極的に回想することは、脳の健康を維持するさまざまな効果が
あることがわかってきました」と、脳医学者の瀧靖之さん。

そもそも脳は、“新しいことを知りたい、
学びたい”という知的好奇心をかきたてるものが大好きだというが、
昔のことを思い出すことも、脳のさまざまな領域を使うため、同等の刺激になるという。

まず、過去を懐かしく思い返すことで、得られる効果のひとつが、ストレス解消になること。
「私自身も日頃から脳によいと考えられることを実践していますが、
昔を思い出して懐かしむことはとにかく楽しく、何とも甘酸っぱいような幸福な気持ちに包まれるものです。

この理屈抜きに楽しい、幸せと思う感情は『主観的幸福感』と呼ばれていますが、
脳にも心身にもよい影響を与えてくれます」

たとえば、この主観的幸福感が高くなるほど、心身へのストレスレベルが下がり、
生活習慣病のリスク低減につながることもわかっているという。

「さらに脳の中でも、中枢機能の海馬の神経細胞が新たに生まれる『神経新生』を促し、
脳を健康に保つことを裏付ける研究も多く報告されています」・・ 》


このようなことを私は学び、数年前のことは忘れてしまうことがあるが、
何かしら昔の出来事は、鮮明に思い出すことができるので、独り微笑んだりした・・。



この後、私の幼年期に初めて買物をしたことなどを思い馳せたりした・・。

私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、私が今住んでいる近くで農家をしていた。

こうした中、私が地元の小学校に1951年〈昭和26年〉の春に入学した当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑を耕していた。
そして所有している田んぼの中に小さな川が流れ、湧き水もあり、 竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、 
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が多かった・・。

長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
この後、妹が生まれた後、溺愛された状態を幼年の私なりに見て、感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、

万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。



私が地元の小学校に入学したのは、1951年(昭和26)年の春であり、
それ以前は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。

幻燈機は若い方には不明と思われるが、

現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私も実家で、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。

総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に、
確かなストリーの
意味合いも理解できなくとも、
なぜかしら感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。



こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であった。

この当時は、駅の周辺は商店街があったが、実家は駅までは15分の道のりであり、
この店しかなかったのである。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と言ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡を満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、周囲の農家の殆どは、冠婚葬祭で一升瓶を数本贈答したり、
年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、

平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。

そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。



やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。


後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたりした。

昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋さんから頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。



こうした私にとっては、昔の出来事は、思い出いっぱい・・あり、
少しボケた脳の活性化に良いかしら、と独り微笑んだりしている。

コメント
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