私は東京の調布市の片隅みに住んでいる年金生活の77歳の身であるが、
ここ10数年、樹木葬について、幾たびも綴ってきた・・。
私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなかったので、一代限りの身であり、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、
和花と洋花に包まれて、ときおり好きな曲が奏でられる中、
出来うる限り質素にして貰いたい、とここ15年ぐらい言ったりしてきている。
そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見である。
その後、四十九日の納骨が終われば、何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、
という考えの持ち主である。
そして残された家内は、旅行か何かの機会に時、気が向いたとき、お墓参りをしてくれれば良い。
数年に一回でも良いし、或いはそのままお墓参りなどしなくて、
ご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私たちは話し合ったりしてきた。
この世は予期せぬ出来事もあるので、私が家内に先立たれることもあるが、
この場合も、同じようにご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私は家内から言われたりしてきた。
私の生家は長兄が実家として継いで、確か16代目となって、
祖先代々からの位牌などのある仏壇を守り、
お墓は実家から徒歩で20分ばかり小田急線の『狛江』駅から数分歩いた所の寺院の広い墓地の一角にある。
私たち夫婦も、母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸に、
長兄宅に寄って仏壇にお線香を捧げた後、長兄夫婦、来宅している叔母、親戚の方たちと談笑したりした後、
お墓参りに行ったりしている。
私は農家の三男坊として生を受け、分家のような形で、実家の近くに住んでいるが、
実家のお墓の近くに墓地を買い求めるに、たまたま子供に恵まれなかったので、
一代限りとなるので、私たち夫婦が亡くなった後のことを配慮し、躊躇(ためら)ってきた・・。
私が40歳を過ぎた頃の1985年(昭和60年)の2月、
敬愛している亡き小説家・立原正秋さんの作品のひとつに描かれた信州の別所温泉に、
私たち夫婦は一泊二日で訪ねた。
この当時、 私が何かと愛していた『L特急』で、上野駅から上田駅まで利用し、
上田電鉄の別所線に乗り換え、かぼそい2両連結の電車で終点の別所温泉駅に行ったりした。
もとより別所温泉地域は、鎌倉時代には周辺の塩田平地域を本拠とした塩田北条氏が、
建立による国宝八角三重塔を有する安楽寺や北向観音が創建され、
やがて近代に至って北条氏とのゆかりや神社仏閣が点在する塩田平・別所界隈の様子を鎌倉になぞらえ、
「信州の鎌倉」と称せられるようになった地である。
私たちは、秘かに木造建築の美の結晶のひとつであると私が深く感じた旅館『花屋』に宿泊し、
周辺の名所を散策したりした。
あるお寺を散策していた時、お寺の隣あわせに里山を切り開いたように、
緩やかな傾斜のある広大な墓地があり、お花が数多く飾られ、お線香の煙がたなびいていた・・。
その外れに松林のゆったりした丘があり、ここに数多くの墓石が転がっていた。
人が訪ずれた形跡もなく、墓石に松葉が音もなく舞い降り、
苔に覆われた墓石が横たわっていたり、松の葉で埋もれかけた墓石もあった。
こうした無縁の墓地に、木漏れ日が地上を彩(いろど)っていた。
私は、人が土に還える、とはこうした事だろう、と思い重ねたりした。
こうした思いから、通常のお墓でなく、無縁仏に近いことを考え始めた・・。
その後、10年過ぎた頃、岩手県のあるお寺で樹木葬を知り、
これだったら土に還える、と私は納得しながら、家内に言った。
『俺が先に死んだら・・花巻温泉で静養し、気が向いた時でいいから
・・・お墓には寄ってくれればよい』
お墓といっても、里山に墓石もなく、私たちの好きな樹木のひとつがあるだけである。
このように私たち夫婦は、お墓は樹木葬と決め、
10数年前の頃に伊豆大島にも樹木園ができた、と学び、
やがて2016年の5月中旬、私たち夫婦が樹木葬の墓地(埋葬地)として、最有力地の
この大島にある『千の風 みらい園』に、訪ねた。
http://www.miraien.jp/00miraien-index.html
☆【千の風 みらい園】公式サイト☆
案内人に導かれて、丘陵にある墓地を見たりした後、
私たち夫婦は、風光明媚の情景に見たりして、
これだったら安楽にあの世ですごせるかしら、と思い契約をした・・。
ここ数週間、私は相変わらず、自宅から3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街の歩道など、
季節のうつろいを享受しながら、歩き廻ったりしてきた・・。
こうした中で、樹木葬の墓地(埋葬地)でも、管理を怠ると、このようになるのかしら、
と独り微苦笑をしたりした。
この後、30分ぐらい歩いていたら、夏椿にめぐり逢えて、私は微笑んで、
見惚(みと)れたりした・・。
私は20代の頃、すっきりした白色の花びらの縁(ふち)には、
こまかいギザギザあり、花の形が椿によく似ていて、夏に開花することから「夏椿」と呼ばれ、
私の生家の近くにある寺院でも、「沙羅双樹(さらそうじゅ)」と呼ばれてきた。
何かと単細胞の私は、高校時代に習った『平家物語』に於いて、
《・・祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらはす。・・》、思いを重ねてきた・・。
もとより夏椿は、朝に咲き、夕方には散り、
私は梅雨の時節に彩ってくれる情景に、こよなく魅了されてきた・・。
そして私は、ぼんやりと雨上がりの夏椿の雨露でぬれた地表を眺めた時、
つたない人生航路を歩んだ私でも、浄土のような世界・・と思い馳せたりした・・。
私は農家の三男坊として、1944年(昭和19年)の秋に生を受けて、
仏教としては、日本で多くの曹洞宗であったりした。
こうした中、春分の日、お盆、秋分の日などで、
僧侶が来宅して、お経の後、歓談したりした。
こうした中で、浄土のことも話さわれて、
一切の煩悩や汚れを離れ、仏や菩薩が住まわれる清浄な地・・、
確かこのようなことを心の片隅に残っている。
このような情景を見たりすると、浄土のような世界だ、と私は思い馳せたりした。
つたない人生航路を歩んだ私としては、もとより人生修業も未完成であり、
夢幻のひととき・・と感じた後、空をゆっくりと見上げたりした・・。