夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

愛(いと)しき光と風、そして波打ち寄せる『新島』   ~第一章~

2009-05-12 15:57:37 | 
    第一章 新鮮な海の恵みの魚介と島内の素朴なアシタバは

『セブンアイランド』を下船し、東海汽船の添乗員に誘導され、
船着場の駐車場には今宵宿泊する民宿の方たちが、
ワゴン車、軽自動車で待機されていた・・。

私はTシャツに長袖のスポーツシャツ、そしてトレッキング用の長ズボン、
ウォーキング・シューズの容姿で、そして軽登山のザックを背負い、
家内もほぼ同様な姿で、ハンドバックひとつ歩きはじめた。

自動車に乗る寸前に、私達が参加したグループは18名と判明したが、
私が秘かに予測した通り私達の世代から、70代前半までのご夫婦が圧倒的に多かった。
やはり大型連休後の日曜日と月曜日を利用した旅行は、
格安な旅費もさることながら、機会がなければ、こうした新島の小旅行も
中々ままならぬというのが実態と思っていたのである。


私達のグループは、分乗した自動車で港から民宿に向かったが、
白っぽい灰色のコーガ石の彫刻した人の高さほどの彫り物が道路の端に数多く観られ、
左側は海から押し寄る波間が昼の燦燦とした陽射しで光を帯びて、きらめいていた・・。

島内の中心部の街並みの一角に、今宵宿泊する民宿があり、
私達夫婦は指定された部屋に入り、こじんまりとした六畳間の片隅にザックなどの荷物を置いた。

http://www.niijima.or.jp/jigohei/


この後、港の前にある観光協会の前で、
昼食用の海鮮バーベキューということなので、再び港の前に民宿の方の自動車に分乗して戻った。

観光協会の前の広場で、会議用の長机が並び、その前で炭火で焼いている魚介を、
民宿の若き奥様、観光協会の方達、そして観光支援をして下さる方たちが、
バーベキューの世話をして下さった・・。

私は魚介類を頂くには少なくともビールと思い、
観光協会の周囲の自動販売機を探していたら、
隣接したお土産と雑貨の販売店を教えられ、缶ビールは確保できた。

イカ、サザエが焼かれたり、ポリバケツにはアワビを小さくした貝のトコブシが数多くあり、
テーブルにはたたき汁と称されたこの付近で獲れたアオムロアジ、ムロアジなどをすり身に調味料を加味した汁物、
さつまあげのような形はすり身をしたのを油で揚げたりしてあった。
そして、明日葉(アシタバ)を天麩羅を頂いたりしていた。

http://www.kanko-kyokai-niijima.net/guide/foods.htm

私はビールを呑みながら、サザエとかイカの焼き物を頂いたりしていたが、
『おにいさん・・クサヤ・・食べてないじゃ・・ないの・・』
と40代の支援している女性の方から云われ、
私はクサヤの香りが苦手であるので、逃げまくったりしていた。

そして、最後におにぎりを頂く時、明日葉の胡麻和えをつつみ込んで賞味したが、
想像以上に絶品で、私は小声で家内に絶賛した。


この晩、民宿の夕食の際、イサキ、カンパチ、アジなどの刺身も加わり、
充二分に頂いたりした。

そして、翌日の朝食は観光協会の前で、
小さめの金目鯛の焼きあがったのを頂いたのであるが、
旅先の伊豆半島で幾度も食べた食事処の一品料理の金目鯛より遥かに美味しく、
私はたたき汁を頂いたり、おにぎりを食べたのであるが、驚くほど奥深い確かな味で、
私は驚いたのである。
そして、もうひつとのおにぎりは、私が魅了させられた明日葉の胡麻和えをつつみ込んで頂いたのである。

私は辞する時、思わず協会の男性の方に、
『確かな味を・・たびたび頂きました・・美味しゅうございました』
と感謝しながら、云ったりした。


                           《つづく》

次回は観光地めぐり、そして島内の主辺のクルーズを掲載を予定



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愛(いと)しき光と風、そして波打ち寄せる『新島』 【2009.5.10.~.5.11.】 序章

2009-05-12 10:11:47 | 
    序章 旅のはじまりは、超高速船『セブンアイランド』

私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
家内と共に東海汽船の謝恩企画により、破格に廉(やす)い1泊2日の短かき旅で、
伊豆七島のひとつの新島に初めて訪れた・・。

このことは、旅に立つ前に、
【 明日より、初めて訪れる伊豆七島の『新島』に思いを馳せれば・・。 】と題し、
投稿している。

【・・
4月の初めの頃、読売新聞の朝刊で、
旅行会社の広告が掲載され、この中のひとつに微笑んでしまったのである。
これとほぼ同様なのが、下記のサイトである。


http://www3.ocn.ne.jp/~tkk/pdf_tokai/120shuunen.pdf

伊豆七島は大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島と東京都の地域に所属し、
太平洋に浮かぶ諸島であるが、
私は高校一年の時に大島、50代のなかばに家内を伴い訪れただけであり、
これ以外は私達夫婦は未知の世界であった。

この東海汽船の謝恩企画としては、新島、そして付近の式根島、神津島が企画プランであり、
高速ジエット船の『セブンアイランド』も乗船したことがなく、
ネットでこの三島を検索したのである。

この中の新島が、
【 白い砂浜に降り立てば、
        そこはまさに異国の楽園。】
と大きく明示されていたのである。

宿が民宿なので少しためらいがあるが、
《 大人 お一人様 25500円  二名様以上 》
と明記されていたので、
東京の竹芝桟橋から新島までの往復の船旅が楽しめた上、
新鮮な魚介類の食べ物を頂き、新島近辺のショート・クリージングも乗船でき、
破格な料金に驚いたのである。

そして、こうした機会でなければ中々行けない、
と私達は決意して、申し込んだのである・・。

5月10日より1泊2日の短かな旅行であるが、
初めて訪れる『新島』に於いて、島の情景はもとより、
エビネ、ハマユウの草花を見たり、
夜のひとときに夜空を眺め、満天の星にめぐり逢えたならば、
これ以上の贅沢なことはない、と私は思ったりしている。
・・】


このように思いを秘めて、10日(日曜日)の澄み切った快晴の朝6時に、
自宅を出て、『浜松町』の駅に下り立ったのは、7時であった。

私達は『竹芝桟橋』のターミナルビルを目指し歩いて7分前後であるが、
遠い昔、私が高校一年の昭和35(1960)年の夏に伊豆七島のひとつの大島に訪れる時、
確か『日の出桟橋』の船旅の出港だったと思ったりしているので、
私達夫婦は初めての『竹芝桟橋』でもあった。

http://www.tptc.co.jp/terminal/takesiba/index.html

伊豆七島、小笠原諸島の玄関口のターミナルビルは、広々とし、
周辺はたわな新緑の樹木があり、
私は『浜松町』の駅に下り立った反対側は、首都の最前線のビジネス街が広がっているので、
たった10分足らず閑散としたターミナルビルの前のベンチに座り、
煙草を喫いながら、戸惑いを覚えていた。


私達は予定通り、東海汽船の超高速ジエット船の『セブンアイランド』に乗船し、
出港したのは、8時15分であった。

http://www.tokaikisen.co.jp/7island/top.shtml

東京湾のレインボー・ブリッジの下をゆるやかに通り抜けた後、
営業スビードの時速80キロに加速すると、東京を船から眺める景色かしら、
と私は微苦笑したりした。
そして、羽田空港の沖にさしかかると、数多くの飛行機が行儀良く並んでいるのが観え、
初めて観た情景に私は思わず微笑んだ・・。

その後、三浦半島の最先端に近い『久里浜』な寄港した後、
外洋のおだやかな2メートル前後の波浪であったが、
この超高速船『セブンアイランド』は揺れることなく、海上を走破した。

そして、『大島』の岡田港に10時15分に着岸すると、
『出港まで10分ほどありますので・・
休息したいお客様は下船して下さっても・・結構です・・』
とこのようなアナウンスが聴こえたので、
私は小躍りしながら、下船し、喫煙場所に行ったのである。

私は今回の旅は、この船は禁煙で新島までの3時間、
そして民宿に泊まる、このふたつがためらいがあったのが本音であった。

私は灰皿の於いてある喫煙場所に行くと、
私と同じ思いの愛煙家の人たちと談笑をしながら、煙草を喫ったりしたのである。
そして私は、周辺には岡田港の情景をデジカメ、或いは携帯電話で撮られる人達を眺めたり、
港の周囲の緑豊かな情景に心を寄せたりした。


この後、岡田港を出港した後は、蒼き海原を眺めていたのであるが、
この『セブンアイランド』は時速時速80キロ前後であり、
私は心身に心地よかったのである。

私はかってJRが国鉄時代に於いて、
山口百恵ちゃんの『いい日旅立ち』の歌が街に流れていた前後、
列車のひとつとして『L特急』があり、私は好感していたひとりである。
線路が曲線になると時速50キロになったり、直線は100キロ前後に走破し、
車窓からはその地の情景を眺めのが、好きであった。

鈍行列車だと、緩やか過ぎで、昨今の新幹線は早過ぎて、
まして飛行機などは論外である。
このような思いになると、バス旅行で高速道路を走破すると、
不思議なことに時速80キロ戦後の車窓から旅先の情景に深く心に残るのである。

こうした思いが齢を重ねるたびに深くなっていたので、
私は思わず『セブンアイランド』の移ろう情景に微笑んだのである。


『利島』に寄港した後、初めての『新島』に到着したのは,11時25分であった。

私の住んでいる調布市と同様に東京都の地域であるが、
竹芝桟橋からは160キロの海上に存在する島であり、
たまたま私が乗船した船で3時間、大型フェリーの客船で10時間を要し、
私の心情としては、沖縄本島から石垣島に訪れたと同様な気持ちになった・・。

そして、船着場の駐車場は、品川ナンバーの車が数多く観られたので、
確かに東京都だょねと心の片隅に思いながらも、
燦燦の陽射しの快晴の中、異国の神秘のような島に下船したのであった。

                           《つづく》



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明日より、初めて訪れる伊豆七島の『新島』に思いを馳せれば・・。

2009-05-09 20:20:43 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
家内との共通趣味は国内旅行であり、
ときたま日本の各地を訪ねたりしている。

4月の初めの頃、読売新聞の朝刊で、
旅行会社の広告が掲載され、この中のひとつに微笑んでしまったのである。
これとほぼ同様なのが、下記のサイトである。


http://www3.ocn.ne.jp/~tkk/pdf_tokai/120shuunen.pdf

伊豆七島は大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島と東京都の地域に所属し、
太平洋に浮かぶ諸島であるが、
私は高校一年の時に大島、50代のなかばに家内を伴い訪れただけであり、
これ以外は私達夫婦は未知の世界であった。

この東海汽船の謝恩企画としては、新島、そして付近の式根島、神津島が企画プランであり、
高速ジエット船の『セブンアイランド』も乗船したことがなく、
ネットでこの三島を検索したのである。

この中の新島が、
【 白い砂浜に降り立てば、
        そこはまさに異国の楽園。】
と大きく明示されていたのである。

宿が民宿なので少しためらいがあるが、
《 大人 お一人様 25500円  二名様以上 》
と明記されていたので、
東京の竹芝桟橋から新島までの往復の船旅が楽しめた上、
新鮮な魚介類の食べ物を頂き、新島近辺のショート・クリージングも乗船でき、
破格な料金に驚いたのである。

そして、こうした機会でなければ中々行けない、
と私達は決意して、申し込んだのである・・。

5月10日より1泊2日の短かな旅行であるが、
初めて訪れる『新島』に於いて、島の情景はもとより、
エビネ、ハマユウの草花を見たり、
夜のひとときに夜空を眺め、満天の星にめぐり逢えたならば、
これ以上の贅沢なことはない、と私は思ったりしている。



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『母の日』には、私なりに『ハナミズキ』の歌を心の中で唄い・・♪

2009-05-09 13:02:00 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
過日の6日の夜10時からNHK総合で【SONGS】を視聴した。
この番組の今回は『SONGSスペシャル 女性ヴォーカリストBEST』と題して、
番組のナビゲイターとして永英明さんが進行を進め、唄い、
こうした中で麗(うるわ)しき七人の女性が、その人となりの魅力ある歌を唄っていた。

http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2009-05-06&ch=21&eid=31989

私は最も魅了を受け、感動したのは、
一青窈さんが『ハナミズキ』の歌を唄う前に、
『・・私が10歳を過ぎてまもない時・・母が亡くなわれ・・
この歌の三番は母を偲んで書き上げました・・』
このようなメッセージを発露したあとで、この『ハナミズキ』を唄われ、
私は胸が熱くなったのである・・。


私は小学2年の昭和28(1953)年に父に病死され、
母の下で兄ふたり、妹ふたりの中で育った。
私が25歳を過ぎ、遅ればせながら民間会社に中途入社できた後、
『母の日』の前日には、何か洋服の買う時に足しにして頂戴、
といくばくかの現金を包み、母に手渡したりし、送金をしたりしていた。

私の50代のなかば、平成10(1998)年に入退院を繰り返していた母に死去れた。
古来より男は父親に対してはともすれば忘れがちであり、
母親はいつまでも心に残る、と云われているが、
私もときおり母の言葉やしぐさを思い出されている。
そして、母の生前の時にもう少し私は優しくしてあければよかった、
と後悔をする時もあるが、
家内が何より母を信頼した言動をしてきたので、家内は母に可愛がれたりしたのが、
せめての私の救いとなっている。


私達夫婦は家内の両親と私の40代のなかばの頃から、
ときおり国内旅行をしてきた。

私の定年退職の直前に家内の父が亡くなり、
独り住まいとなった家内の母と私達夫婦は、年に数回は国内旅行に行っている。
そして、家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多い。

今年の春先、鹿児島の知覧の特攻平和会館を観たいわ、
と家内に行ったりしたので、
私達夫婦は、少し『母の日』には早いが、鹿児島市内・霧島温泉に4泊5日で行き、
この間のひとときに家内たちは知覧の特攻平和会館を訪れたのである。


このような思いが私なりにあり、一青窈さんのメッセージを聴いたので、
今年の『母の日』には、私は『ハナミズキ』の歌を心の中で唄おうと決意したのである。

今朝、あるサイトで【SONGS】の番組を視聴され、
私と同様に一青窈さんのメッセージに感銘を受けた女性が『ハナミズキ』と題された投稿文を拝読し、
私は思わず微笑んだりした・・。

http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/masamikeita/diary


♪ひらり蝶々を
 追いかけて 白い帆を揚げて
 母の日になれば
 ミズキの葉 贈って下さい
 待たなくもいいよ
 知らなくてもいいよ

【 『ハナミズキ』 作詞・一青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・一青窈 】

私はかって永英明さんがこの『ハナミズキ』をシルキー・ヴォイスの魅力あふれる声で唄っていたけれど、
無念ながら彼のように唄えないが、私なりに心を込めて精一杯唄うつもりである。


♪薄紅色の可愛い君のね
 果てしない夢がちゃんと 終りますように
 君と好きな人が 百年続きますように

【 『ハナミズキ』 作詞・一青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・一青窈 】

ここまで唄うと、たぶん私は涙ぐんでしまうかしら、と思ったりしている。


尚、私は齢を重ねるたびに、『ハナミズキ』の歌に愛惜感が深まって折、
いままで聴いた10数人の歌い手の中、最も心酔できたのは、
このおふたりが共に唄われた曲である。


http://www.youtube.com/watch?v=Fk7ldepb3Zw




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東京の郊外は、5日ぶりの快晴の朝を迎えて・・。

2009-05-09 06:48:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
今朝、朝陽をまぶしげに見つめ、5日ぶりかしら、と微笑んだ・・。

東京の郊外は4日の『みどりの日』までは、
大型連休期間にふさわしく皐月晴れが一週間程に恵まれ、
初夏のような陽気の日もあったが、
5日の『こどもの日』の朝の9時過ぎからは、小雨が降り続けて、
きまぐれのように時折やんだりしたのである。
そして、気温も4月の中旬のようになり、私は少し驚いたりしていた。

このような一変した天気の変貌に、一昨日の私は、
平年は5月中旬から下旬なのに、 本格的な梅雨の前ぶれの序曲として、
早くも『走り梅雨』かしら、
天上の気候の神々も、せっかちね、と私は感じたのである。


その上、昨日の朝は大粒の雨脚が屋根にあたる音が聴こえ、
雷鳴が響きわたる音で目覚めたりしたのである。
そして、朝のひとときは土砂降りの雨の中、
付近で落雷が数度響きわたり、大地を震(ふる)わした・・。

この後、雷鳴も消えうせて、主庭の激しい雨から幾分衰えた雨を眺め、
やがて雨は止み、空は明るくなり、しばらくすると陽射しが射しこんできた。
新緑の枝葉は雨粒をたたえて、雨粒は陽射しを受けると煌(きらめ)いていた。

私は初夏にときおり見られる夕立である白雨(はくう)のようだった、
と思いを馳せながら、しばらく見惚(みとれ)れたりしていた。

そして、この後はどんよりとした曇り空におおわれて、
小雨が降りだし、そして止んだりし、不安定な気候の午前中であった。


先ほど、地元の天気情報を視聴していたら、
朝の6時は16度、昼下がりは25度前後、そして夜の6時には21度前後が予測され、
日中は初夏のような快晴に恵まれ、夜のひとときは月を眺める最適な日となります。
このような快適な状況は、明日、明後日も同じような予測されますので、
せめてお休みの日ぐらいは、ご家族でゆっくり過ごしましょう、
と少しボケた私はこのように聴こえたのである。



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私なりの住まいのあこがれと現実は・・。

2009-05-08 15:56:18 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
ここ4日ばかり小雨が降り続いて折、ときおり止んだりしている。
私はいつものようにほぼ毎日に最寄の四百メートルのスーパーに買物に行ったり、
銀行、郵便局、理髪店(散髪屋)に寄った程度で、
余り散策をしていない状態である。
そして、余りにも小雨が降り続けるので、早くも走り梅雨かしら、と苦笑したりしている。


今朝は大粒の雨脚が屋根にあたる音が聴こえ、雷鳴が響きわたる音で目覚めた後、
玄関の軒下で煙草を喫いながら、激しい雨の降る空をぼんやりと見上げたり、
そして玄関庭の樹木を眺めたりした。

新緑の樹木は豪雨を受け、樹木越しの景色は
白いベーェルに覆(おお)われたかのように霞(かす)んでいる。
そして地上の草花は、激しい雨と水しぶきを受けて、
もう降参よ、と悲鳴をあげるように震(ふる)わしていた。

そして、私の履いている下駄も水しぶきを受けていた。

しばらくすると、付近で落雷が数度響きわたり、大地を震(ふる)わした・・。
私は土砂降りの雨を眺め、よく降り続けるね、とため息をし、
その上、雷だもの、俺も降参したいよ、と心の中で呟いたりした。


この後、雷鳴も消えうせて、主庭の激しい雨から幾分衰えた雨を眺め、
やがて雨は止み、空は明るくなり、しばらくすると陽射しが射しこんできた。
新緑の枝葉は雨粒をたたえて、雨粒は陽射しを受けると煌(きらめ)いていた。

私は初夏にときおり見られる夕立である白雨(はくう)のようだった、
と思いを馳せながら、しばらく見惚(みとれ)れたりしていた。

そして、この後はどんよりとした曇り空におおわれて、
小雨が降りだし、そして止んだりし、不安定な気候の午前中であった。


私はこのような情景を居間から眺め、主庭の若葉を見つめたりしながら、
パソコンに向かい、このサイトに綴った自身の投稿文を読み返していた。

そして、あの頃はこのような思いであったのかしら、
と微苦笑した。


【 倉本 聰・著の『失われた森厳~富良野風話~』】と題して、
2006年5月27日に投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
今、読んでいる本は、倉本 聰・著作の『失われた森厳~富良野風話~』である。

私は倉本 聰氏に関しては、1部のシナリオを除き、購入し、精読しているつもりである。
従って、私はこの著作者から影響は多大に受けているひとりである。

昨夜、読んでいて、私の場合であったら、と考えされられた。

一部を無断であるが、引用させて頂きます。



『適疎』
・・・

僕が住んでいる富良野の土地は文化村という森の中にある。

この村はそもそも、東大演習林元林長・高橋延清先生の、
どれ位の森にどれ位の人間が住めば、
人と森とが共存出来るかという一つの実験的な試みから始まった。

市の所有する約1万2千坪の自然林を図面上12に分割し、
家を建てる場所以外、木を伐ってはいけない。
垣根、塀などを立ててはいけない。
水は沢から引く。
電気だけは一応通してくれる。
そういうことでスタートした。

爾来に20数年、12の土地は全て売れ夫々に夫々の家が建っていたが、
僕を含めて3軒だけを除くと後は全て別荘であり、
それもあんまり利用されていないから、
全ての森は僅(わず)か3軒で殆ど独占していることになる。
言い方を変えれば、1万2千坪割る3、
イコール1軒当たり4千坪の森の空間で豊かに暮らしている計算になる。

この森にはフキ、ゼンマイ、ツクシ、フキノトウ、ウド、タラノメと山菜が豊富だし、
秋になれば様々なキノコが森のあちらこちらに顔を出し、
どこで採ろうが文句は言われない。

そもそも僕は土地は所有するという概念にかねがね疑問を持っているのだから、
塀に囲まれた都会の暮らしならいざ知らず、
自然を独占するのは自由である。

過疎の暮らしとはそういうものである。

確かに過疎の地は消費が乏しく、従って雇用の機会が少ない為に、
経済社会の概念から見れば失格というレッテルを貼られてしまうだろう。
しかし僕のような自由業のものにはここがたまらない天国である。

・・(略)・・

僕は今この土地を決して過疎でなく、適疎であると認識している。


以上、引用させて頂きました。
注)著作者の原文にあえて改行を多くした。



著作者の以前からの数多くの随筆で、概要は綴られていたのが、
具体的な事は初めてである。
私は、今回の『適疎』を読んでしばらく言葉を失った。

さて、私達の退職後の身としての夫婦は、
これ等の万一与えられた場合、
果たして生活が出来るかしら、と考えた・・。


私達夫婦が、このような文化村の森の生活を与えられた場合、
退職後の身となった今、果たして過ごせるものだろうか・・。

著作者が40代半ばの時、開墾者のような強い意志と意欲があった上で、
周囲の人々との交流で自己を鍛えられた、と想像する。
著作者のご夫婦は、こうした時の流れの中、森の中で生きる知恵を修得し、
定着という稀(まれ)な栄誉を自ら獲得したと思われる。

私の20歳頃のあこがれとしては、
里山の一面、500坪前後の樹木に囲まれて、
平屋の30坪前後の住居で生活するのが夢であった。

私は自由職を目指していたが、拙(つたな)い自己を悟(さと)り、
サラリーマンの身に転じた。

28年前頃、東京の郊外にわずか百坪の敷地のある住居を構え、
若さの勢いで茶室も付けてしまい、悪戦苦闘しながら住宅ローンを返済してきた。

サラリーマンの生活をしている中、
都会の垢に染まり、利便性に囲まれ、甘受している身となった。

定年退職後の今、単なるあこがれだけては、心身無理である。

私のような小心者は、今ある庭の樹木を手入れをし、
著作者の住まわれている森に思いを馳(は)せるのが、
私の拙(つたな)い実力に相応しい生活かしらと苦笑している。
・・】


このように投稿していたのである。

私は東京郊外の調布市の外れに住み、世田谷区と狛江市に隣接して地域の関係で、
電話に関しては、世田谷区の管轄下となっている。
そして小田急線と京王線の間にあり、いずれも最寄駅まで15分前後の徒歩の距離である。

私共の夫婦は、自動車を所有するつもりがないので、
私は平素は駅前までは散歩がわりに歩くが、
都心に出たりする時は、殆どバスと電車を利用し、
止む得ず急ぎの用事とか冠婚葬祭などの場合はタクシーを使うこともある。

いずれにしてもバスと電車を利用しても、
自宅から都心の新宿、青山、六本木、渋谷、東京駅には、ほぼ1時間で行ける。

私の住んでいる地域は、住宅街であり、この外れに私の家がある。
そして落葉樹の多い樹木につつまれた庭を眺め、
築後30年過ぎた古惚けた家に住み、私達夫婦は子供に恵まれなかったので、
ふたりだけの生活している。

このような今の現状の上、私は齢を重ねるたびに体力も衰え、
今のようにスーパーなどで買物、病院、そして本屋が近くにないと、
何かしら不便と感じ、郊外の利便性に甘受しているのである。


しかしながら私の幼年期は農家の児として育ったので、
起伏の少ない田畑、あぜ道、湧き水、そして竹林、雑木林などに、
限りなく愛惜しながら心を寄せている。
こうした時、ときおり家内と国内旅行をして、
里村の情景を眺めながら、あぜ道、農道、村道を歩いたりし、
しばらく見惚(みと)れたり、ときには涙を浮かべることもある。

そして、齢を重ね体力も、気力も衰えた今、
里山に住むという夢のようなあこがれの住まいと現実とは違う、
と思いを知らされたりしている。



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東京の郊外、激しい雨脚と雷鳴で、私は目覚め・・。

2009-05-08 09:14:27 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
大粒の雨脚が屋根にあたる音が聴こえ、雷鳴が響きわたる音で目覚めた。

昨夜、11時過ぎに布団にもぐり、熟睡したので、
5時頃かしらと思い、と寝ぼけまなこで時計を見たら、
7時過ぎで、少し驚きながら起きだした。

玄関の軒下で煙草を喫いながら、激しい雨の降る空をぼんやりと見上げたり、
そして玄関庭の樹木を眺めたりした。

樹木は豪雨を受け、樹木越しの景色は
白いベーェルに覆(おお)われたかのように霞(かす)んでいる。

地上の草花は、激しい雨と水しぶきを受けて、
もう降参よ、と悲鳴をあげるように震(ふる)わしていた。

そして、私の履いている下駄も水しぶきを受けていた。

しばらくすると、付近で落雷が数度響きわたり、大地を震(ふる)わした・・。

私は土砂降りの雨を眺め、よく降り続けるね、とため息をし、
その上、雷だもの、俺も降参したいよ、と心の中で呟いたりした。


東京の郊外は4日の『みどりの日』までは、
大型連休期間にふさわしく皐月晴れが一週間程に恵まれ、
初夏のような陽気の日もあった。

その後の5日の『こどもの日』の朝の9時過ぎからは、
小雨が降り続けて、きまぐれのように時折やんだりしたのである。
そして、気温も4月の中旬のようになり、私は少し驚いたりしていた。

このような一変した天気の変貌に、昨日の私は、
平年は5月中旬から下旬なのに、 本格的な梅雨の前ぶれの序曲として、
早くも『走り梅雨』かしら、
天上の気候の神々も、せっかちね、と私は感じたのである。


私は洗面後、煎茶を淹れた後、
居間で、地元の天気情報を視聴した。

朝の6時は15度、昼下がりは20度前後、そして夜の6時には17度前後と予測され、
日中は小雨が降ったり止んだりしますが、
明日からはしばらのの間は、5月の下旬のような陽気の快晴に恵まれますので、
期待しましょう、
と私はこのように聴こえたのである。

私はこれが小雨かょ、と微苦笑しがら、
雷鳴も消えうせて、主庭の激しい雨から幾分衰えた雨を眺めたりしていた。
何気なく時計を見たら、8時であった。



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東京の郊外は、早くも『走り梅雨』・・!?

2009-05-07 08:42:10 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
今朝、目覚めて雨戸を開けたら小雨が降り続いていた・・。

東京の郊外は4日の『みどりの日』までは、
大型連休期間にふさわしく皐月晴れが一週間程に恵まれ、
初夏のような陽気の日もあったが、
5日の『こどもの日』の朝の9時過ぎからは、小雨が降り続けて、
きまぐれのように時折やんだりしたのである。
そして、気温も4月の中旬のようになり、私は少し驚いたりしていた。

先ほど、地元の天気情報を視聴していたら、
朝の6時は16度、昼下がりは18度前後、そして夜の6時には17度前後、
明日の午後まで小雨が降ったり止んだりし、外出の時は必ず傘を持ち歩きましょう、
と私はこのように聴こえたのである。

私は大型連休も昨日で終わった多くの人々は、
本日から勤務されると思うので、あいにくと小雨でお気の毒に、
と小雨を眺めながら感じたりしていたのである。



私は玄関の軒下で若葉を眺めたり、小雨の舞い降りる空を睨(にら)みながら、
『穀雨(こくう)』は4月の20日過ぎた頃だし、
『春霖(しゅんりん)』は春の長雨のことだし、
『五月雨(さみだれ)』は現世では6月中旬から7月に降る断続的に降る長雨だし、
と少しぼんやりとしながら思ったりしたのである。

こうしたことに思いを馳せると、
本格的な梅雨の前ぶれの序曲として、早くも『走り梅雨』かしら、
平年は5月中旬から下旬なのに、
天上の気候の神々も、せっかちと私は感じたのである。

私はこうして綴っていると、
洗濯物・・困るわ、
と家内のため息が聴こえたりした。



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年金生活の私が、一番信頼する論評の人は・・。

2009-05-06 16:50:16 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
山川草木の世界にあこがれて生活をしょうとしているが、
現実は身過ぎ世過ぎの日々を過ごしている。

このようなことであるので、テレビのニュース、新聞、雑誌などで、
政治、外交、軍事、経済、社会なども気になるのである・・。
こうした分野も専門知識もなく、素人の身でありながら、
その分野の専門家の論評などを視聴したり、読んだりすると、
少しボケた私でも、ときおり首をひねることもある。

木を観て森を観ず、と云ったように、その問題に現状、原因、対策などは明言はされるが、
これらに関連した社会全体像の提示が少なく、肝要の問題解決に乏しいのが多々ある。
そして、もう少し巨視的に論評をして欲しい、と特にここ数年は感じたりしている。

私は偶然、ネットの論評で知りえた方のご意見を読んだり、
この人だったならば、数多い論評家の中で私が知る限り、
信頼できると確信したのである。

以前にも、私はこのサイトで、
この人『宋文洲』に関し、賞賛したことがあるが、
最新の記事を読んで頂ければ、多くの方たちにも賛意して頂けるのではないか、
と思いながら、あえて転載させて頂く。

【NIKKEI NET】に於いて、連載コラムの『宋文洲の単刀直入』で、
5月1日に、
《 私が景気回復を確信した理由 》と題されて、掲載された記事です。


【・・
今年1月11日。
米国株も日経平均も下落が加速している最中に、私は生放送のテレビ番組で言いました。
「夏を待っていれば春が終わってしまう。今年の後半に景気は必ず回復する。私は保証します」と。

宇宙から見ると、この2年間の地球には何の特別な変化もなかったはずです。
小惑星の衝突もなければ、地球規模の異常気象や戦争もありませんでした。
地球の“真”の富には何の変化もありません。

しかし、この2年間、地球上の人類の心に大きな地殻変動が起きました。
思っていた価値は実際より小さいと自覚したのです。
しかも過去数年間もしくは十数年間思っていた価値よりはるかに小さいと自覚したのです。

自信をなくした人々は価格が下がる前に換金しようと、こぞって資産を売り始めます。
すると、買い手が少ないため、取得価格より低い値段で売るしかありません。
売買を成立させるために市場では様々な商品の価格が下がり、
株や債権から家具や牛タンまで価格下落の悪循環が続きます。

資産や商品を安く売りたくなくても、安売りせざるを得なくなる人が増えました。負債のある人は特にそうです。
市場が健全な時には安全な範囲だった負債も、
担保不足という理由で不良化します。
それに伴って優良資産を安い値段で売らざるを得なくなります。

それから、空売りも問題でしょう。
相場が下落するという予想に基づき、
証券化されたあらゆるものを空売りすることで利益を手にする商売ですが、
しばらく儲かるとどんどん大胆になり、最後の最後まで空売りを仕掛けます。

このため株式市場では時価総額が純資産より少ない会社が続出し、
弱体化した企業の株価が限りなくゼロに近付きます。
不動産はバーゲン状態になり、普段では考えられないような値段で取引されます。

この時です。人々が最も絶望する時ですが、価格の下落も鈍くなるのです。
空売りをしてもメリットはなく、売らざるを得ない人は既に売らされています。
すると一部の空売りの買い戻しが始まるので株価が戻り始めるのです。

企業業績ももうこれ以上落ちにくいと分かった途端、株価は上がるのです。
落ちないというだけで小幅に株が上がるのです。
それは、もう一つの恐怖の始まりです。
空売りの解消です。早く買い戻さないと大損を被るからです。

商品とサービスの価格も同じです。
安売り競争の結果、必ず起きるのは企業の業績悪化と商品とサービスの品質低下です。
売れば売るほど損するような時点になると企業は商品を作らなくなり、
在庫がなくなります。
ずっと安売りの服や家具ばかり買っていると消費者も飽きてきます。
極端に安くはないが、品質の高いものを考え始めるのです。
すると実態経済も回復してくるのです。

これが景気回復の実態です。
景気が回復するから価格が上昇するのではなく、
価格が極端に安くなるから景気が回復するのです。

日本にも世界にも価値のあるものがたくさんあります。
100年に一度の不況は100年に一度の恐怖です。
生きている人間が誰も経験していないためその恐怖が増幅したわけです。
金融における過剰のレバレッジは確かに元凶ではありますが、
世の中の全てが借金して買われたわけではありません。

私が今年後半に景気が回復すると強く思ったのは、
ここ1年半であらゆる資産や商品の価格が過剰に下落しているからです。
同じスピードでもう1年下落すると全ての価格がなくなってしまいます。
そんなことは不可能である以上、今年のどこかで下落が緩やかになるはずです。
それが景気回復の始まりでもあります。

実際に、その通りの現象はここ1カ月で起きています。
また下落の動きが戻ってくることがあるかもしれませんが、
それでも今年の後半までに市場の疑心暗鬼はなくなると思います。
「不況は10年続く」という評論家もいますが、
そんな人に限って2年前は
「サブプライムローンは米国の問題で日本とは関係がない」
と言っていました。

・・】

以上、無断であるが、全文を転載させて頂きました。
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


原文の掲載記事
http://it.nikkei.co.jp/business/news/index.aspx?n=MMITzv000028042009


こうした提示をして下さると、私は悩んでいた問題も解決されたようで、
小心者の私でも、安眠できるのである。


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東京郊外は、小雨の降る朝を迎えて・・。

2009-05-06 09:03:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
玄関の軒下で煙草を喫いながら、
昨日の朝の9時過ぎから降りだした小雨を眺めたりしていた・・。
新緑のそれぞれの樹木は、たわわな葉を淡い緑色、黄緑色、そして萌黄色に染め、
雨露で濡れている。

一昨日まで、ここ一週間は大型連休期間にふさわしく皐月晴れに恵まれ、
初夏のような陽気の日もあったが、
昨日より小雨が降ったりし、4月の中旬のような気温となった。

私は少し戸惑いながらも、
『こどもの日』なのにあいにくと雨かょ、
鯉幟はこの日の為に一番の活躍ができるのに、可哀想、
と心の中で呟(つぶや)いたりしていた。


先ほど、天気情報をしていたら、
明日の早朝まで小雨が降り続けるが、ときおり止む、
と報じていた。

大型連休は本日が最終日とテレビのニュースが報じていたので、
各地に旅行、行楽地に行かれたり、
或いは実家に帰郷され親族とのふれあいも楽しまれた方たち、
自宅に戻られて、小雨の一日は家族でゆったりと過ごされ、
骨休みの一日かしら、と思ったりした。


その後、台所で煎茶を淹れて、
居間で主庭に小雨の降る情景をぼんやりと眺めている・・。



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ふたたび、過ぎ去りし日々は、ほろ苦く、そして甘く・・。

2009-05-05 15:09:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
朝9時過ぎから小雨が降ったり、時折やんだりしている。

こうした時、午後のひととき、
ぼんやりと自身のこのサイトで綴ってきたことを読み返したりしている。

私は定年退職後まもなくして偶然にブログの世界を知り、
私は若き日々より中断したこともあったが日記を書いたりし、
これとは別の状況で色々と綴ったりしてきたが、
改めて何らかの形式で公表したく、これ幸いと幾つかのブログ、
ブログに準じたサイトに加入して綴ってきた。

定年退職後の身過ぎ世過ぎの日常で日々に感じたこと、
或いは思考したことを心の発露とし、明記してきたことはもとより、
幼児からサラリーマンの退職時までの色々な思いを
書き足らないことも多々あるが、余すことなく綴ってきている。

誰しも人それぞれに、苦楽の光と影を秘めて日常を過ごしているのが人生と思っているが、
私なりに時には、ためらいを感じながらも綴ったりしてきたこともある。


私は昭和19年に農家の三男坊として生を受けたこと、
祖父や父が長兄、次兄と男の子に恵まれたので、
秘かに今度は女の子を期待していたらしく、私は何となく感じて、いじけたこと。
そして、小学生に入学しても、兄ふたりは優等生で、
私は中学生までは劣等性だったこと。

小学二年の時に父に死去され、まもなく祖父も亡くなり、
農家の旧家でも大黒柱のふたりが亡くなることは、没落し、貧乏になること。

高校時代になって初めて勉学が楽しくなり、読書にも目覚めたこと。

そして大学を中退してまで映画・文学青年の真似事をしたり、
その後は幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、落胆したこと。

この後は、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
大手の民間会社に中途会社にできたこと。

そしてまもなくレコード会社に異動して、
六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、時代の最先端にいる、と勘違いしたこと。
この間、幾度も恋をしたが失恋の方が多く困惑したことや、
結婚後の数年後に若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたこと。

そして、定年の五年前に出向となり、都落ちの心情になったこと。


このように私は大手のサラリーマンの一部に見られるエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎えたのであるが、
私は確固たる実力もないくせに、根拠のない個性と感性で独創性に優れていると思い、
ときには独断と偏見の多い言動をしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野に優れた人の前では、卑屈になったりした。
このように可愛げのないひとりである。



こうして定年後の日常生活を過ごし、
ときおり、国内旅行などで、その地の情景を眺めながら感じたこと、
私なりの独断と偏見で綴ったのを読んだりしていると、
私の心情、思想、信条、趣向が見え隠れするので、
まぎれなく本、音楽、映画など作品の選定と同じだ、
と微苦笑したりしている。

どなたも同様と思われるが、過ぎ去り日々は苦楽と反省が伴うが、
ほろ苦く、そして甘く受けとめ、
ときには懐かしく自身に秘かに再会でき、
あの時はあのような心情でふるまっていた、と愛惜も重ねることもある。

これが自身の心のまぎれない心情を心の発露として書き続けた効用かしら、
小雨の降る庭の新緑を眺め、感じたりしている。


そして、あるサイトで四年前に知り得た凛とした女性が折、
私は勝手に心の友と思いながらも、
私は苦手だった美空ひばり様の歌を教示されて、
今の私としては、心の愛唱歌のひとつとなっている。


【 『愛燦燦』 作詞、作曲・小椋 佳 、編曲・若草 恵 唄・美空ひばり 】

http://www.youtube.com/watch?v=NQSoyv7OECo




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ときには、雨の降る前には・・。

2009-05-05 08:04:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
雨戸を開けたら、今朝はどんよりとした曇り空となっている。

ここ一週間は大型連休期間にふさわしく皐月晴れに恵まれ、
初夏のような陽気の日もあった。

私は昨夕のひととき天気情報を視聴していたら、
明日の『こどもの日』は残念ながら午後より小雨、と報じられていたので、
雨の降る前の七時過ぎから庭の手入れをしょう、と固く決意し、
寝付いたのである。


今朝の五時半過ぎの天気情報に寄れば、
朝の九時過ぎから明日の午後の三時前後まで小雨となり、
4月中旬のような気温に下がります、と報じられていた。

私は三時間ばかり早めの小雨に、どうしてなの、と戸惑い、
庭の手入れを断念し、せめて歩道を掃き清めようとした。


この時節は我が家の垣根の紅(あか)めモチ、金木犀などの常緑樹が、
新芽から新たな朱色、新緑の葉を伸ばしているが、
古き緑葉は四季折々彩ってくれ、少し疲れたせいか、選手交代よ、
と言いたげに地表に落下している。

隣接した歩道に古き緑葉が歩道に散乱していたので、
私は竹の立ち箒(タチボウキ)で掃き清めたのである。
そして門扉から玄関までの石段も掃き清めた後、
煙草を喫いながら、玄関庭のツツジ、紫モクレンの花を褒めたりした・・。

そして、庭の手入れをする予定だったが、スケジュールが狂い、
久々の雨を眺めながら読書に専念しょうかしら、
と思いながらどんよりとした曇り空をしばらく見つめた。



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午前のひととき、思わずアグネス・チャンの『草原の輝き』を心の中で唄えば・・。

2009-05-04 17:36:35 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
いつものように家内からスーパーのチラシを渡されて、
独りで買物に出かけた。

皐月晴れに恵まれた大型連休で幾分閑散とした中、歩道を歩いたりしていたが、
川の橋のふもとで足を止めて、
せせらぎのような水の流れ、川辺に草が帯状に生い繁ったりしている情景を眺めたりした。
ときおり、微風が吹くと、草が揺らいでいた。

この後は歩道を歩き出すと、歩道と道路のグリーンベルトに
白と薄紅色の躑躅(つつじ)が咲いていた・・。

このような情景を眺めながら歩いていると、

♪居眠りしたのね いつか
 小川のせせらぎ きいて
 レンゲの花を 枕に
 今 目がさめた

【 『草原の輝き』 作詞・安井かずみ、作曲・平尾昌晃、編曲・馬飼野俊一、唄・アグネス・チャン 】

と私は心の中で唄いだしたのである。


どうしてこの歌なのと思いながら、たわわなツツジの花が咲いている情景を観たり、
戸惑ったりし、苦笑しながらも、
続けて心の中で唄ったりしたのである。

♪恋しい気持ちが 夢で
 逢わせくれた あの人
 君は元気かと聞いた
 手を振りながら

【 『草原の輝き』 作詞・安井かずみ、作曲・平尾昌晃、編曲・馬飼野俊一、唄・アグネス・チャン 】


私はカラオケは苦手の身であるが、サラリーマンの現役時代には、
ある程度のおつきあい程度は唄ったりしたが、
このアグネス・チャンのような清純な乙女の歌は唄った記憶にはなかったが、
心の隅に覚えていて、川辺の情景に魅せられて、
思わず心の中で唄ったのだろう・・。

♪今 涙をかくして風の中
 ひとりゆけば はるかな
 私の好きな 草原

【 『草原の輝き』 作詞・安井かずみ、作曲・平尾昌晃、編曲・馬飼野俊一、唄・アグネス・チャン 】

確かこのような歌だったよなぁ、と思い出しながら、
心の中で唄ったりしていたら、スーパーの看板が見えたので、
私は気持ちを切り替えた。


このアグネス・チャンの『草原の輝き』が街に盛んに流れていたのは、
昭和48(1973)の7月を過ぎた頃であった。
この頃の私は、あるレコード会社の本社で、管理畑のコンピュータの専任者として勤務していたが、
シャンソンに熱中していて、余りヒット曲の動向には無知な方だった。

私がつたないなりに知っていたのは、
この少し前までは天地真理がヒットチャートの連続首位を重ねた後、
麻丘めぐみの『わたしの彼は左きき』、チューリップの『心の旅』、カーペンターズの『イエスタデイ・ワンス・モア』、
西城秀樹の『ちぎれた愛』、南こうせつとかぐや姫の『神田川』等の中で、
このアグネス・チャンの『草原の輝き』は大いに健闘していた、
この程度であった。

私の勤めた会社は、アグネス・チャンの所属した会社とは、ライバル関係であり、
ある時に所用で、レコード会社の協業の物流倉庫に会議に出席した折、
通路の壁面にアグネス・チャンのつぶらな瞳であどけない表情を浮かべ、
提灯袖の可愛いミニドレスの容姿の大きなポスターが何枚にも貼られていた。

私は何気なしに見て、アグネス・チャンかょ、と
ライバル会社の清純スターの名を心の中で呟(つぶや)いたりしていた。


あれから少なくとも35年以上の歳月は流れ、
私はNHKのテレビで偶然にアグネス・チャンを視聴したりすると、
あどけなさの表情を残こしながらも、確かな大人の女性の品性を秘めたアグネスに
好感しているひとりである。

余談であるが、アグネス・チャンの『ひなげしの花』、『小さな恋の物語』等もあるが、
私は『草原の輝き』が一番に魅了されている。


【 『草原の輝き』 作詞・安井かずみ、作曲・平尾昌晃、編曲・馬飼野俊一、唄・アグネス・チャン 】
http://www.youtube.com/watch?v=HCg7qDE3D2U




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改めて、お茶を摘む情景に心を寄せて・・。

2009-05-04 00:52:49 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
私は過日、カレンダーを眺めていたら、『八十八夜』と明示されていたので、
微笑んだりしていた。

古来より、立春から八十八日を過ぎると、お茶の新芽を摘(つ)むとされてきた。

私の幼年期は、実家が農家であり、茶畑もあったので、
何かしら、こうしたお茶を摘む情景などを観たりすると、
それなりの深い愛惜感につつまれるのである・・。

私は煎茶をこよなく好きであり、30代の頃に引っ越すたびに、
或いはここ10年、気に入っていた煎茶が製造中止となったりすると、
今度の新たな煎茶が私のお好みの範疇にめぐりあえますよう、と念じたりしていた。

私は甘みも大切であるが、何より少し苦味、そして渋みの深い煎茶が好きである。

早朝に目覚めた後にぼんやりと頂いたり、そして日中も褒めながらも頂き、
夕食の時に純米酒の辛口かビールを呑んだりした後、
夜のひとときも美味しく、煎茶は日常の友として欠かせないのである。

そして、ときおり幼年期を想いだすこともある。


遠い昔、昭和26年の私が小学校に入学した時代である。

祖父と父が中心となって農家をしていたので、
東京の郊外でも程ほど広い田畑を耕していた農家でも、
お茶の樹を持ち、自宅用にまかなっていた。

母屋、蔵、納戸小屋の二軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風用に欅(けやき)が50数本があった。
2間ほどの間隔で植えられて折、樹高は30メートル以上あった。
隣接した欅が互いに寄り添うにになると、片方を伐採して、薪(まき)とされた。

その先は平坦な地で陽当りが良く、苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。

この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は4尺、高さは5尺程度で、50間前後の長さであった。


5月の初旬の頃になると、新芽を摘んでいた。
一家総出で、分家された人々も手伝いに来てくれた。
私が幼児の3歳頃からは、付近に莚(むしろ)を敷いた上で、寝そべっていた、
と後年に母から教えてもらっている。

新芽を摘んだ後、生葉撰り(なまはより)といって、
お茶の葉から混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。

その後、生葉を新鮮なうちに、蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。
そして、長方形の大きな台の上に炭火をおこし、
その上に鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉んでいた・・。

煎茶として出来た後、大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、家族が1年で使ったり、
祖父の一言に寄り、来宅した方の1部の方に差し上げたりしていた。


私は幼児の頃、長兄、次兄に続き生を受けた三男坊の身であったが、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、
祖父は無念と思いながらも、祖父の名から一字を私の名前に命名してくれた。
その後の私は、何となくいじけていたので、いたずらもして、父からよく怒られた。

祖父からは、私を不憫と思ったらしく可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。

私が小学二年の時に父に死去され後、まもなく祖父も亡くなり、
肝要な農作業のノウハウと労力も減退したので、
田畑の作業も出来る範囲となり、
数年過ぎると、お茶を摘む労力もままならず、やむえずなくなったのである。

私は、成人してから、煎茶を淹れる時、
ときたま祖父を想いだされる・・。
そして、煎茶を淹れる時は、特に丁重にして、早や40年は過ぎている。



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改めて、和菓子のあれこれ・・♪

2009-05-03 09:34:37 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
お酒は好きであるので、甘い物は苦手で、和菓子、洋菓子は余り食べない。

しかしながら旅行先などで、煎茶、抹茶などを頂きながら、
和菓子を食べさせてくれる処では、家内と共に頂いたりしている。

日常、知人宅に訪問する時は、
お子様が高校生ぐらいの場合は、洋菓子を買い求めるが、
これ以上のお歳を召している場合は、和菓子を使っている。

家内は中学生の時から茶事を学んでいるので、
程々に和菓子に関しては詳しく、
私は和菓子も無知な方であるが、
季節感がかもし出されていれば、独断と偏見で選定する。

旅先で和菓子の買い求める場合、
その地で長い歴史を育(はぐく)んだ老舗の和菓子店を使う。

私は差し上げたお方から、こうした場合は喜ばれている。

その地に生まれ、人々から買い求められ、
味そのもの長年培(つちか)われた和菓子となっているので、
まぎれない和菓子と私は確信している。

和菓子は、その地の風土、文化を代表するひとつと思っている。


このような思いで、ときたま家内と和菓子について話したりすると、
貴方は人前では和菓子について話されないように、
と和菓子の基本も由来も無知な私に家内は苦言する。


私達夫婦の共通趣味は国内旅行であり、
数年前、たまたま私達は釧路の街並みを散策していた時、
偶然に駅前の和菓子屋を通り過ぎようとした時、
『あのお店の和菓子・・美味しそう・・』
と私は家内に話しかけた。

店内に入り、数点の和菓子を見ていたら、
私は購入しょう、と家内に云った。

結果として、私が決めた和菓子に関しては、
殆ど家内に苦笑されることが多かったが、このお店の和菓子に限り、
思った以上に美味しいわ、と賛意を得たのである。

私達は店を辞した時、『柳月』と看板が観えたのである。

http://www.ryugetsu.co.jp/

私がこの中で特に魅せられて、小声で家内に絶賛したのは、
http://www.ryugetsu.co.jp/online_shop/detail.php?id=5
であった。

この後、家内と街並みを散策した時、
『先ほどのお餅・・確かに品位もあり美味しいかったけれど・・
貴方は・・やはり農家の子ね・・』
と家内は微笑しながら、私の幼年期の農家だったことを云ったりした。


古来より味覚は幼年期で決まる、と名言があるが、
私は和菓子も無知なひとりであるが、
まぎれく確かな味の白みそ、柚子などの『百代餅 (ももよもち)』だった、
と心の中で呟(つぶや)いていた。


尚、私も親族も『柳月』に関しては、一切関係のなく、
たまたま賞味したひとりであり、心にも残った銘菓である。




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