私は東京郊外の調布市に住む身であるが、今朝6時半過ぎに玄関庭の軒下に下りると、
小雨降っていたので、やむなく樹木の枝葉を洗い清めてくれると思いながら、
煙草を喫ったりしていた・・。
しかし、一昨日の22日の昼下がりまで初夏のような暑さが3日ばかり続いた後、
突然に強い風が吹き荒れ、やがて本降りの雨となり、
昨日の23日は、小雨が降ったりやんだりし10度ばかり気温が低下し、
4月中旬のように気候に戻ったりして、私は戸惑ったりしていた。
早朝に地元の天気情報によれば、
本日は午前中まで小雨が降り、その後は回復して明日の26日までは晴れ間となり、
その後は長らく曇り時々雨となり、ぐずついた日々となります、と報じていた・・。
私の住む地域は本格的な『梅雨(つゆ)』は毎年6月中旬の頃であり、
その前に一時的に長い期間降る序曲のような長雨かしらと思い、『走り梅雨』と解かっていても、
またぁ・・雨かょ、と心の中で思ったりし、小雨舞い降る情景を眺めていた・・。
♪雨はふるふる
城が島の磯(いそ)に
利休鼠(りきゅうねずみ)の
雨がふる
【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】
と私は心の中で唄っていたのである。
♪雨は真珠か
夜明けの霧か
それともわたしの
忍び泣き
【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】
私はカラオケは苦手であるが、ときおり鼻歌を唄ったり、
心の中で唄うことが多い。
このような定年後の日常生活であるが、今日は『城ヶ島の雨』かょ、
と微苦笑である。
私は無念ながら北原白秋のようにこうした詩は、
とても書けないが、あの北原白秋の人生の軌跡も波乱に満ちた人だった、
と思い馳せたりしていた・・。
以前、文藝評論家・河盛好蔵の詩人・北原白秋の評論文を読んでいた時、
《・・
いよいよ旺盛な詩作活動を続けていたが、
明治45年7月、隣家の人妻・松下俊子との恋愛問題のため、
俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷未決監に二週間拘置、
無罪免訴となったが、深刻な打撃を受けた。
のみならず郷里の家が破産して一家の人々が上京し、
その生活を負担しなければならなくなったために一層困窮した。
大正2年4月、離婚した俊子と結婚。
5月に神奈川県・三崎に転居・・
『城ヶ島の雨』は、このころの作である。
・・》
こうしたことを思い浮かべると、
♪舟はゆくゆく
通り矢のはなを
濡(ぬ)れて帆あげた
ぬしの舟
【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】
私は鼻歌などで気楽に唄えなくなる。
この後は、俊子は肺患療養となり、窮乏の末に、白秋は離婚し、
その後は江口章子と結婚したり、清貧生活の中で詩作を発表したのである。
そして江口章子と離婚してまもなく、佐藤菊子と結婚し、終生つれそった、
と伝えられている。
私の敬愛する作家・嵐山光三郎に寄れば、
《・・
最初の妻はフランス人形のような麗人て、
二番目のの妻は菊人形ような美人、
そして三番目の妻は婚期を逸して三十歳を過ぎ・・
(略)
白秋の名が広く知られるようになったのは、
童謡によるところが大きく、
悪魔的耽美世界から出発した詩人は、少年的抒情世界に転進しました。
これは、ひとえに菊子夫人あってのことで、
菊子との出会いがなければ、糸の切れた凧になって、
白秋は破滅の道を進んだかもしれません。
・・》
と嵐山光三郎・著の『人妻魂』(マガジンハウス)で明記されている。
私は創作者は作品の出来ばえが良ければ、その人の日常の言動は問わぬ、
という哲学じみた暗黙の了解は知っているつもりであるが、
小心者で無力の私さえ、詩人・北原白秋の軌跡に思い馳せる、
と改めてこの人生は大変だなぁ、苦笑したのである。
そして、私はかみ締めるような心の中で読んだりした・・。
♪雨はふるふる
日はうす曇る
舟はゆくゆく
帆がかすむ
【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】
今朝のひととき、雨降る情景を眺めながら、
このようなことを15分ばかり思ったりした。
下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村

にほんブログ村
小雨降っていたので、やむなく樹木の枝葉を洗い清めてくれると思いながら、
煙草を喫ったりしていた・・。
しかし、一昨日の22日の昼下がりまで初夏のような暑さが3日ばかり続いた後、
突然に強い風が吹き荒れ、やがて本降りの雨となり、
昨日の23日は、小雨が降ったりやんだりし10度ばかり気温が低下し、
4月中旬のように気候に戻ったりして、私は戸惑ったりしていた。
早朝に地元の天気情報によれば、
本日は午前中まで小雨が降り、その後は回復して明日の26日までは晴れ間となり、
その後は長らく曇り時々雨となり、ぐずついた日々となります、と報じていた・・。
私の住む地域は本格的な『梅雨(つゆ)』は毎年6月中旬の頃であり、
その前に一時的に長い期間降る序曲のような長雨かしらと思い、『走り梅雨』と解かっていても、
またぁ・・雨かょ、と心の中で思ったりし、小雨舞い降る情景を眺めていた・・。
♪雨はふるふる
城が島の磯(いそ)に
利休鼠(りきゅうねずみ)の
雨がふる
【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】
と私は心の中で唄っていたのである。
♪雨は真珠か
夜明けの霧か
それともわたしの
忍び泣き
【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】
私はカラオケは苦手であるが、ときおり鼻歌を唄ったり、
心の中で唄うことが多い。
このような定年後の日常生活であるが、今日は『城ヶ島の雨』かょ、
と微苦笑である。
私は無念ながら北原白秋のようにこうした詩は、
とても書けないが、あの北原白秋の人生の軌跡も波乱に満ちた人だった、
と思い馳せたりしていた・・。
以前、文藝評論家・河盛好蔵の詩人・北原白秋の評論文を読んでいた時、
《・・
いよいよ旺盛な詩作活動を続けていたが、
明治45年7月、隣家の人妻・松下俊子との恋愛問題のため、
俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷未決監に二週間拘置、
無罪免訴となったが、深刻な打撃を受けた。
のみならず郷里の家が破産して一家の人々が上京し、
その生活を負担しなければならなくなったために一層困窮した。
大正2年4月、離婚した俊子と結婚。
5月に神奈川県・三崎に転居・・
『城ヶ島の雨』は、このころの作である。
・・》
こうしたことを思い浮かべると、
♪舟はゆくゆく
通り矢のはなを
濡(ぬ)れて帆あげた
ぬしの舟
【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】
私は鼻歌などで気楽に唄えなくなる。
この後は、俊子は肺患療養となり、窮乏の末に、白秋は離婚し、
その後は江口章子と結婚したり、清貧生活の中で詩作を発表したのである。
そして江口章子と離婚してまもなく、佐藤菊子と結婚し、終生つれそった、
と伝えられている。
私の敬愛する作家・嵐山光三郎に寄れば、
《・・
最初の妻はフランス人形のような麗人て、
二番目のの妻は菊人形ような美人、
そして三番目の妻は婚期を逸して三十歳を過ぎ・・
(略)
白秋の名が広く知られるようになったのは、
童謡によるところが大きく、
悪魔的耽美世界から出発した詩人は、少年的抒情世界に転進しました。
これは、ひとえに菊子夫人あってのことで、
菊子との出会いがなければ、糸の切れた凧になって、
白秋は破滅の道を進んだかもしれません。
・・》
と嵐山光三郎・著の『人妻魂』(マガジンハウス)で明記されている。
私は創作者は作品の出来ばえが良ければ、その人の日常の言動は問わぬ、
という哲学じみた暗黙の了解は知っているつもりであるが、
小心者で無力の私さえ、詩人・北原白秋の軌跡に思い馳せる、
と改めてこの人生は大変だなぁ、苦笑したのである。
そして、私はかみ締めるような心の中で読んだりした・・。
♪雨はふるふる
日はうす曇る
舟はゆくゆく
帆がかすむ
【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】
今朝のひととき、雨降る情景を眺めながら、
このようなことを15分ばかり思ったりした。
下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪


